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幸せな夢

作者: れんじょう

あ、もう時間かな。


友胡はリビングの本棚にちょこんと置いた小さな時計に目を走らせた。ちくたくと可愛らしい音をたてて刻む寄せ木細工の時計は友胡のお気に入りで、新婚旅行先で一目ぼれして手に入れたものだ。横に置いた蔦との相性もよい。時間に追われる日々にちょっとだけ微笑むことができる、友胡の大切な空間だ。だが今日に限ってはそうではない。時計の針の向く方向はあと数ミリ動いただけで待ち合わせの時間となるだろう。友胡は慌てて外套の袖を通した。


ふえ。ふえ、ふえ。


丁度その時、子供部屋のほうから歌依(かよ)のむずかり声が聞こえ始めた。


ああ、もう。仕方がないわ。


友胡はごわごわする外套を脱いでリビングのソファの背に投げ置くと、冷たい手で歌依が驚かないように手をこすり合わせながら子供部屋へと向かった。子供部屋の真ん中に敷いてある布団の上ではむずかり初めた歌依が手を震わせながら口元へ持っていこうとしていたところだった。


ふふ。可愛い。


まだ本泣きでない赤ん坊は閉じた目の端にぷっくりとした涙を湛えながら必死になってお乳を探している。これを放っておくと自分の手では満足できなくて大泣きしだすのだから、早めにお乳を上げなければならない。友胡は歌依を抱き上げると傍に置いてあるロッキングチェアに座る。小さな口の端をとんとんと軽く叩くと丸い拳から口を離して智子の指に吸い付こうとする。今度は反対側の口の端をとんとんとすると首を巡らして口を持ってくる。何とも言えない仕草に友胡の口元は緩む。


やっぱりお腹が空いているのね。


きっちりと着こんだ一張羅の服をはだけ、お乳を出して含ませる。

母乳で張った真っ白な胸に必死で吸い付く小さな娘。福々とした手はいつのまにかぺたりと胸に置かれていた。


ほらほら、慌てないで。ゆっくり飲まないとむせちゃうよ。


ちょんちょんとまるまるしい頬を突いても、うんくうんくと飲む速度は落ちない。その姿がとても愛おしく、友胡は我知らず微笑んでいた。


後どのくらいこの姿を見ることができるんだろう。


育児休暇が明けるまでもうすぐ。そろそろお乳を卒業させて離乳食に切り替えなければならない。友胡はとても切なくなる。この素晴らしく愛らしい姿を脳裏に焼き付けようとじぃっと歌依を見つめていると、お腹が満たされたのだろう、ぷんっと乳首を離して微睡みだした。こうなると占めたもの。友胡は早速足に力を入れてロッキングチェアを漕ぎ始めた。ゆうらゆうらと規則正しく揺れる動きとお腹が満たされた満足感で歌依はうつらうつらと眠り始めた。この状態ですぐ布団に降ろすとぱちっと目を開けて泣いてしまうが、きっちり寝入るまで揺らし続け、そうっととそうっと布団の上に、それこそ立てた卵が転がらないほどそうっとゆっくり布団に降ろし、小さな頭を支えていた腕を布団と首の間から歌依の眉間にしわが寄っていないか確認しながら抜くことに成功するとそのまま起きずに眠ってくれる。まあ、たまに失敗をして一から、つまりは友胡が揺り籠となるあたりからやり直しをしなければならないが今日は成功したようだ。歌依はすやすやと眠っている。


よかった。ちゃんと寝てくれた。


寝冷えしないように足元に置いてあったタオルケットを掛ける。歌依お気に入りのうさちゃんのタオルケット。その上からぽんぽんと心臓の鼓動と同じ速度で胸のあたりを何度か叩く。気持ちが和らぐ瞬間だ。


ああ、でも行かないと。


すやすやと気持ちよさげに寝入っている歌依のむにむにと動く口元をできるならずっと見ていたいと友胡は切に思ったが、いかんせんもう行かないといけない。

友胡は静かに立ち上がって、音もたてずに子供部屋を出た。


「じゃあ、行ってくるね」


声に出さない声で、眠っている小さな我が()に挨拶をする。それに応えてくれたのか、歌依はもぞもぞと体を動かし、両手をばんざいの状態に上げていた。


ああ、なんて可愛いんだろう。


どれだけ見ても飽きることのない愛おしい娘。友胡は自分が今とてつもなく幸せの中にいることを噛みしめて、外へと向かう扉を開けた。













「……おばあちゃん。おやつがあるよー?」


母親に長い髪を編み込みにしてもらって少しおしゃまになった小さな女の子は、暖かな日差しを浴びながらきぃきぃと揺れ動くロッキングチェアで編み物をしている祖母に呼びかけた。


「おばあちゃん?おやつだよー?」


女の子の母親が手作りするおやつは最近めっきり食が細くなった祖母の好物で、食事は抜いてもおやつだけは外すことがない。特に今日は祖母が一番好きだと言っていた鬼まんじゅうだ。二つ食べてくれるかもしれないわねと母親が材料をこねている横では女の子もさつまいもを包丁で切っていた。小さな女の子でも危なくないように先がまるくなった包丁は誕生日に大好きな祖母にせがんで買ってもらったもので、お手伝いが大好きな女の子の宝物だった。その宝物で切ったさつまいも入れた鬼まんじゅうだ。母親だけが作ったものよりもどうしてもすこしサツマイモが歪になっていたが、女の子にはそれでも誇らしかったし母親も褒めてくれた。きっと大好きな祖母も褒めてくれるだろう。女の子は柔らかい祖母の手のひらが自分の頬を包んで「上手にできたね」と微笑んでくれる姿を想像してくふふふと笑った。


「おばあちゃん、聞こえてる?」


ロッキングチェアの横にある小さな丸いテーブルの上に鬼まんじゅうと緑茶ののった小さなおぼんを置いて、俯いている祖母を覗き込む。


「あー。なんだ。おばあちゃん、ねちゃってるんだあ。もう仕方がないなあ。こんなところで寝ていたら風邪ひくよー?」


いつも母親に言われる言葉をそのまま祖母に言ってから、ちょっとだけ誇らしげに笑った。なんていっても今日はおしゃまなお姉ちゃんなんだから、いつもは危ないからと運ばせてくれないおぼんもちゃんとおばあちゃんのところまで運べたし、お昼寝しているおばあちゃんにはちゃーんとひざ掛けをかけてあげることもできるもん、と、クローゼットの中からきちんと畳まれたひざ掛けを持ってきて祖母の小さくなった膝に掛ける。


「……行って……くる…ね……」

「んん?おばあちゃん、何か言ったー?」


小さな小さな声が、寝ている祖母の口から漏れたような気がして、女の子は祖母の口元に耳を寄せる。だが、すぅすぅと寝息は聞こえても、何もしゃべっているわけでもない。なあんだ、寝言かあ。女の子はくすっと笑って祖母の元から離れようとした。その時。


「大好きよ、歌依」

「え?おばあちゃん。私、かよじゃないよ?」


寝言にしては随分とはっきりした声で祖母が呼んだ名は、女の子にはどこかで聞いたことのある名前だったがどこで聞いたかわからない。祖母に問い直そうとしても寝ているのに起こしてまで聞くこともない。女の子は少し困ってキッチンにいる母親の元に行って問うた。その言葉に女の子の母親は手に持っていたスポンジをシンクの中にぽとんと落とした。まさか、そんな。久しく自分の母親の口に上らない自分の名が呟かれたと聞いた女の子の母親は、慌てて祖母に駆け寄った。


温かい日差しの下できぃきぃと揺れ動くロッキングチェア。

そこには幸せの涙を頬に流しながら微笑んでいた友胡の姿があった。

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