透明な嵐は私に慟哭を促す その1
きっと憧れは理解から一番遠い。それでも、重なりたいのだ。
愛と言う感情はどう定義すればいいのだろう。焦がれるほどの恋をしたことがないから、私にはそれがわからない。
好きという普遍的な感情のそのほとんどは、性欲からくるものだ。つまるところ、好きなんて言葉はセックスアピールからしか産まれない。その好きという感情の上位互換が愛だのなんだの言われてはいるが、私には到底理解が追い付かない。
幼いころから、理論立てたことではないと、理解ができなかった。そのあたり、父とは遺伝的に繋がっているのだと思う。しかし、遺伝的につながっていようがいまいが、私は父にも母にも愛された記憶がない。人は親から愛情を受けて育つという、もし本当にそうなら私は何だというのだろう。ヒトデナシ、なんてことをよく言われるが、それは私の中に愛がいないことを、みんなが見抜いているからなのかもしれない。
今日もそうだ、私はヒトデナシのロクデナシなのだ。こうやって、今日も混じりっ気のない純粋な女の子を家に連れ込み、襲い掛かるのだ。
さながら、赤ずきんのオオカミだ。
暗い部屋。
手が交差する。そして、遅れるように視線も。私の上で、彼女の上で、それらは交わされる。ただ一つ、心だけを除いて、私たちは惹かれ合う。
見つめあうと、それだけで舌の根は甘く、胸の中は苦かった。
抱きしめあって、お互いの温度を確認する。それだけで私は一種の満足を感じた。
私と彼女の黒髪が混ざり合い、一つに溶けていく。
彼女+私=愛。そんな気持ち的にも数学的にも割り切れそうにない方程式が、そっと私の脳みそに浮かぶ。
彼女と私を足したってできるのは、きっと悪意だけだ。どうしようもない悪心。それに従って私は彼女の心に痕をつける。
闇の中で光る糸は、いったいどこにつながっているのだろうか。
純粋なものを穢していくことで感じる薄暗い喜びを私は事に及ぶたびに感じる。穢していくことで、自分をもっと堕としていけるような、一種の背徳感。何も知らない少女をこの手にかけ、私はもっと汚くなる。そんな確信をベッドの中で、熱い体温と共に感じた。
ただ寝るためだけに作られた部屋はひどく無機質で、そこにいるだけで虚しさを覚える。逃げるように向かったリビングで、私は冷蔵庫を覗き込んだ。
「ねぇ、なにか飲む?」
渇いた喉に、私は作られた液体を流しこむ。顔を赤らめて、シーツにくるまった彼女に私は缶に入った飲料を放り投げた。
「あのさ、恥ずかしくないのかい?」
「ありのままが一番美しい、そう思わない? このままでも愛してくれるでしょ?」
堂々と彼女にさらしながら、私は言った。その瞬間、言葉を否定する気持ちが化学反応のように、胸の中ではじける。
嘘だ。愛してなんかいない。私と彼女の間に愛なんて存在しない。あるのは、ただの利用し、利用されるだけの関係だ。快楽と背徳と甘美な毒だけが、私たちの間を補完しているのだ。
「君ってやつは、さ」
顔を赤らめて俯く彼女の、布に覆われた肩を私は掴む。
「ねぇ、まだ夜はまだ長いよ、どうする? トランプでもする?」
肩を優しく撫でながら、シーツの内側へと手を伸ばした。伝わってく体温に私は喉を鳴らす。
ゆっくりと体を横にして、毛布の中へと潜り込む。とても、近い距離で私は囁いた。
「もう一回?」
少女特有の甘い香りが充満していた。私は彼女の濡れてとろんとした瞳を見つめる。
それに照れたせいか、視線を私から逸らし、少女は挑発的に、その反面、恥ずかしげにつぶやいた。
「この胸の痛みを、忘れさせてくれるんでしょ?」
その言葉を皮切りに、また長い夜が始まる。
二人きりの密室で、私たちは涙を流しあうのだ。
かわいそうなあなた。どうせこの後で私に捨てられるのに。
酷い私。自分が悪者になっていくのがとても辛くて、その辛さに押しつぶされそうになるのが、とても幸せだった。
この歪んでいる世界で、真っ直ぐな人なんて存在しない。正しい事なんて存在しない。百分の百で正しいことがあるならばそれは狂気の沙汰だ。気持ちの悪いことだ。人は歪みながら生まれてきて、歪みながら死んでいく。この世に純愛なんて存在しないし、奇跡なんて始めからない。快楽から生まれてき、快楽を求めるセックスマシーンが私たち人間だ。
だから、私が女の子ばかりをその手にかけ、手にかけられるのは、そういった本能に逆らってみたかったのかもしれない。本当、ひねくれている。そう私は自嘲した。
汚れたい、汚されたいなんていう、精神的な被虐目的だけが私の中を渦巻いている。その意識だけで私は体だって魂だって売るのだ。もし、悪魔がいるなら何を願おう。我が身の破滅か、それとも世界の破滅か。
こんな感じで、私がひねくれているから、世界も曲がって見えていて、全ての人は捻じ曲がっている。本当に純粋な行為で動いている人なんていないし、私自身、歪みの塊だ。自ら望んだ自己矛盾と補償的行為に苛まれて、苦しまされて生きている。
きっと私の中は空っぽで、全部が全部、ハリボテなのだ。
ベッドの中で横たわる彼女を私は見つめる。広くあつらえられたそこは二人並んでもまだ余裕があった。
しかし、私たちは寒さをしのぐように身を寄せ合って、並ぶのだ。
「ねぇ、本当の愛ってなんだと思う?」
私は少女に問いた。暗闇の中、光る二つの瞳がこちらを向く。
「……なんだい、君は藪から棒に」
「いいから、答えてよ」
目と鼻の先、何もかもがくっついてしまいそうな距離。私は聞こえる吐息に耳を澄ませた。
「本当の愛か、それは理想だね。 身を捧げ、捧げられる関係。 他の全てがなくなってもお互いがいれば何も求めない。 実際はそんなことないのにね」
真剣な顔立ちで、彼女は答えた。こんな関係の私と彼女が、本当について話しているなんて状況が、どこかおかしくて、乾いた笑いが喉から漏れる。
「なによ、笑わないでよ」
「いや、ごめん。 本当に綺麗ごとの理想論だと思ってね」
綺麗ごとだけを見ているのは楽しい。楽しくて楽しくて、それを壊したくなる。だから、私は彼女に声をかけたのだと思う。
「日嗣は人を愛したことがないんだろうね」
私につられてか、彼女も嘲笑にするように言った。私はそれに同意して彼女の髪の中に顔をうずめた。二人の黒い髪はまるで溶け合うように混ざり合う。
「よくわかるね、その通りだけど」
耳元で囁いて、そっと舌で耳のふちを舐めた。
「人を愛せず自分も愛せず。 だからこんなことをするんでしょう?」
冷たい声が私の元でも呟かれた。どこか悲壮的なそれに耳を傾けつつ、私は彼女の匂いを多分に鼻腔に含んだ。
「人を利用して、自分を傷つける。 傷つけて傷つけられて、そこに喜びを感じるんだ。 真正のマゾヒストね」
「本当、その通りだよ。 私のこと、よく見てるね。 もしかして好きなの?」
顔を離して、そんな軽口。全部嘘っぱちで塗りたくられた私の中を覗き込まれた気がして、ドキリとした。
目と目がぶつかって、互いの覗き合いが始まる。暗い部屋でも、黒い瞳はしっかりと見えた。
そっと目を逸らして、彼女は呟いた。
「馬鹿言わないでくれ。 僕が好きなのは薄雪だけだ」
薄雪。薄雪奏。その響きに私は含み笑いを浮かべる。
彼女は薄雪奏に告白して振られたのだ。文字で浮かべると簡単だが、その過程には色々あったらしい。特に、彼女から聞いた主観的な話ではドラマチックでロマンチックだった。
そう、まるで運命の相手を見つけたみたいに。
傷心した彼女に付け込んで、押し倒した私はきっと悪だ。その悪が気持ちよくて、穢れていて、私には丁度よかった。
「あはは、そうだった。 それで、愛梨は彼女に本当の愛を感じたの?」
私は、彼女にその存在を訪ねた。
私が信じようとしないそれを、彼女は見つけたのかと、私は訪ねた。
愛梨は少し黙って、その滑らかな唇を動かした。
「……どうだろうね。 恋とか愛は一過性の病気だからね。今は感じていても未来は違っていたりする」
難しいものさ、と言って愛梨は寝返りを打った。絹のように白く、細い背中がこちら側を見つめる。
もう寝たい、と暗に示しているのだろうか。彼女の規則正しく膨らむ胸に、体に手をまわして、私は彼女に抱き着いた。
「ねぇ、どうして私の趣味、分かったの?」
「傷つけってやつ?」
うん、と頷いて私は彼女の背中に耳をくっつけた。心臓が血液を流す音が、規則正しく動いていて、彼女は実在することがはっきりわかった。
「ただの推測さ。 煙草を吸うのもそんな自分を傷つけたい、みたいな理由なんでしょ?」
投げやりにかけられたその言葉に、私はくすりと顔を綻ばせた。
「そうね――早く死にたいからって言ったら笑う?」
「……笑わないさ。 ただ自分のことはもっと大事にしたほうがいい。 いや、して欲しい、だね」
「そりゃどうも」
私は抱きしめている力を強くする。密着する肌はとても暖かく、私を安心させた。
「ねぇ、暑くて寝れない。 離して」
愛梨が身を捩じらせて、そう呟いた。私は逃げられないようにと、優しく、だけどガッチリとその腕に力を入れて絡み付いた。
「私は寒くて寝れないの」
「うそつき」
「嘘じゃないさ」
そう、嘘じゃない。
とても寒いのだ。体の奥底の、もっともっと深いところ。たとえば心だとか、魂だとか人が呼ぶ、もっとも人間を人間足らしめているその部分が。
どれだけ汚れても、どれだけ心を閉じたとしても、隙間から吹く風が、私の心を冷たくする。人と人の周りを吹く、透明な嵐が、私を冷たくする。
透明な嵐はどこにでも吹いていて、私と私の周りの心をすべて隠してしまう。私はそれに負けないように、人を探すのだ。温かい場所を探すのだ。
きっと、この寒さを人は寂しいとか呼ぶのだろう。
「愛梨は暖かいわ」
私は肌でその体温を感じながら、手で柔らかさを確かめながら言った。
「……普通さ」
「ううん、ほかの人に比べてわかりやすいもの。 それだけで十分に暖かい」
私は首を振る。しかし、彼女の声は怪訝そうだった。
「僕、分かりやすいか?」
「わかりやすい、さっきのも傷つけたられたいとかも自分のこと言ってたんでしょ?」
「よくわかるね」
「だって、愛梨のこと、ずっと見てたから」
「……君は誰も見ていないよ」
「好き、だよ」
顔を近づけて、その流れる髪に顔をうずめて、私は囁く。
彼女の薄い体に息がかかると、愛梨はビクン、と体を跳ねさせた。
「うそつき」
「嘘じゃないわ」
今度は本当に嘘だ。自分の中で底冷えする暗く濁った声が響いた。
全部嘘だ。この世の何もかもが嘘だ。嘘が嘘を作って、嘘が嘘を殺す。愛は嘘だ。恋は嘘だ。思いは全部嘘だ。愛梨の思いだって嘘に決まっている。もし、本物ならこうしてここにいないもの。
私の周りには嘘があふれていて、私だけが本物だ。そのことがひどく恐ろしかった。
形容しがたい恐怖が、私の奥底では渦巻いていた。
それを誤魔化すためか、人のぬくもりへと手を出す。近くにいることを確かめたくて痕をつける。
傷つけて傷つけられるのだって、愛せない自分への愛だ。私なりの存在証明なのだ。
彼女の体は呼吸に合わせてゆっくりと動く。それを感じて私は、手を解き愛梨の顔を覗き込んだ。
「私ね、薄雪さんに会ったことがあるの。 春だったかな。 私の特等席、ハナズオウの下でね」
思い出すのは春のこと。もうすでに遠い昔のように感じる。
夏の終わりを感じさせるように、外で鳴いている鈴虫の声が、かすかに耳に入る。
「あんなにまっすぐな目をした人、初めて見た。私を正反対にしたみたいな人間 愛梨が惚れちゃうのも無理ないね」
独り言だ。これは独り言なのだ。彼女には聞かせようもない私だけの独白。
「だから、正反対の私は愛梨に嫌われているのよね。愛梨、わかりやすいから」
そっと、彼女の顔を覗き込む。
「もう、寝てる?」
長い睫に形のいい耳。艶艶としていて血色の良い唇に、さっきまで触れていたと思うと、なんとなく嬉しくなる。
そして、そっと頬に唇を寄せた。
好きじゃなくても、私は愛梨の心に触れることができる。
それでも、彼女は私の心に触れてくれないのだ。透明な嵐は、私と彼女とを遮断していて、一方通行のものしか生み出さない。
「ねぇ、薄雪さんね。 愛梨のせいで大変なことになってるわ。 貴方のシンパがないことばっかり囁きまわってね。 それに、私の写真を担いだのだって彼女らだわ」
ゆっくりと唇を離して、彼女に私は囁く。自分のせいで起こっているそれを、きっと彼女は今初めて聞いただろう。柊愛梨の周りにはいつもシンパがいたし、都合の悪いことはすべてシャットダウンしていたのだ。
あれは夏の始まりのことだったし、噂が流れたのは他人から見たらたった数週間だ。だけれどもその期日は、本人にとっては堪え難い時間だろう。
「……お休み、柊さん」
私はそう言って枕へと頭を寄せる。目を閉じた先の暗闇は透明な嵐が渦巻いた世界で、私はなかなか寝付けなかった。
隣で聞こえる寝息に耳を傾けて、私は意識をフェードアウトさせていく。
誰か、私を見つけてくれる人はいないのだろうか。
私はそう、暗闇に祈った。




