ユダツリーは花を咲かせない その3
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奏は夜の街を走っていた。キラキラと輝くネオンの下を、ざわざわと音を立てる雑踏の中を――
会いたいと、会いたくないが同居する奏の中は、既にグチャグチャで、ごちゃごちゃで、難しいことを考える余裕すらなかった。
だから、走っていた。だけど、息が切れると共に動かせなくなる体のせいで、頭は思考のループを繰り返す。浮かんでくるのは結局のところ、青春のことばかりだった。
メイに全てを話そうと、私が泥をかぶろうと、そう思っていたのに、青春は先に動いていた。どうして、なんで、なんて疑問が何度も浮かんでくるが、すぐに霧散する。
その答えは、間違いなく奏自身が動いたからだった。それに気づいたからこそ、動けなくなる。
停滞を求めたくなる。優しい夢の中でまどろんでいたくなる。
だけれども、それを誰も許そうとはしないのだ。自分でさえも、認めてはいないのだ。
青春の家を訪れたときから、ずっと胸がきしんでいるようだった。このままではいけないと叫んでいるようだった。本当はその前からも、あのキスをした時からもその感情はあったのだ。
その耐え難い思いを封じ込めていたのは紛れもない自分の意志であり、そしてメイの存在でもあった。二つあったくさびは今はもう、一つは抜けてなくなり、もう一つも抜けかかっているのだ。
いつの間にか、駅前の広場に出ていた。やかましいほど大きなテレビに、煩わしいほど明るい広告看板中、木々に巻き付いた光の中、髪の長い女性が一人、たたずんでいた。
本当は他にたくさんの人がいたのかもしれない、雑踏の中で見つけただけかもしれない。だけれども、奏には、彼女が一人で立ち尽くしているように見えていた。
――まるで、世界の中心がそこであるかのように、錯覚してしまったのだ。
「……青春」
奏がそう呼ぶと、鴉の濡れ髪を翻して、黒々とした瞳が振り返る。その眼差しはどこか、悲しげに見えていた。
「奇遇ね、こんなところで会うなんて。 まるで運命みたい」
「運命だよ、多分。 私は今日、青春のことをずっと探していたから」
近づきながら、奏はそう返す。強い視線が彼女のことを貫いていた。だけど、氷のような凍てついた冬の空気が青春にはあった。だから、その表情を崩れない。
彼女は無言のまま、奏を見つめていた。まるで、初めて出会ったときのような黒く濁った瞳だけが、何かを物語っていた。
赤くなった頬のまま、奏は青春へと一歩、踏み出した。
「何も持たずに私の前から消えるから」
「心配してた?」
「少しだけね。……学校に行ってるなんて真面目じゃない」
そう言うと、青春は薄く笑った。
ようやく見せたその笑顔に、奏は安堵してしまう。
「逆に行ってないなんて不良ね、奏は」
「青春に言われたくないよ、私をこんなにしたのは貴方なのに」
「そうね、そうだわ、そうかもしれないわね」
気が緩む。大切なことを忘れそうになる。そんな衝動を噛み殺そうと、奏は唇を噛む。
「でも、望んでこうなったのも私だったから」
「奏、夢は――」
「もういい、でしょ」
青春が言おうとしてたことを奏は先読みして言葉にする。
それは、おそらく奏が話していなかった過去に触れる一言だった。だから、咄嗟に目をそらしてしまう。
青春の何も変わらない声からは、その表情を読み取れない。
「ごめん、青春の家に行ってたの。 それで、誰もいなかったわ」
「そう、あの人もそんなに暇じゃないのね」
「鍵、持ってなかったでしょ?」
そう聞くと、息を吐く音が聞こえた。そして、彼女が体を揺らしたのか、チャリと金属の擦れる音がした。
それにどきりとした奏は視線を彼女に戻す。青春はこちらに向かってニヤリとほほ笑んでいた。
「合鍵、いつもポケットの中に入ってるの。いつどこで好みの人と出会えるかわからないから」
「……そ、渡す機会とかあったの?」
「奏が初めてで、きっと最後よ。安心した?」
「……した」
全部、彼女が悪いのだ。そう思いながら、奏は青春との距離を一気に詰める。
お互いの冷え切った体が一つになる。ゼロ距離の近さで、青春の長い髪の毛へと奏は顔をうずめた。いつもと違う彼女の匂い、そこに煙草の残り香はなかった。
彼女は腕を伸ばして、奏を受け止めていた。そして、やさしく微笑む。
「いいの? こんなところで。そんなに寂しかったのかしら」
「最近ずっと一緒にいたから、何かおかしくなったのかも」
制服に少しだけ残った誰かの匂いを感じながら、奏は思案を巡らせた。青春が何を感じているのか、何を目的としているのか、メイにアクションを起こすことで何を狙っているのか。
何度も考えて、それを聞こうと思って、追いかけていた。
それなのに、彼女の顔を見た瞬間に吹き飛んだ。吹き飛んでしまったのだ。それを今、奏は思い出す。
そして、また、聞くことに躊躇いを覚える。
奏は青春の腕の中で止まっていた。何もわからず、何も変わらず、ただそこに停滞していた。
何を話せばいいか、わからなくなっていた。
そんな彼女を察してか、青春はゆっくりとその頭を撫でる。そして、冷え切った声で呟いた。
「……ごめんね」
「謝らなくていい」
「そうじゃなくて、空澄の――」
「謝らなくていいって」
それは奏が聞きたかったことに対しての謝罪のはずだった。だけれども、彼女は拒否する。
奏にとって欲しかったものは理由であり、そこに付随する感情論理であった。なぜ、なんのために、何が目的で、そんなことをしたのか、それが知りたかった。
だけど、それを自分から聞く勇気など持ち合わせてはいない。
だから、彼女の体を抱きしめて、まるで甘えるかのように嘆願するしかなかったのだ。
それでも、青春は何も語ろうとしなかった。ただ、奏を受け止めるだけだった。
「誰かに聞いたの?」
「林道がおせっかいしてくれたから」
「ずいぶんと仲がいいことね」
「どこがよ」
林道が教えてくれなければどうしていただろうと、奏は考える。何も知らないまま、当日を迎え、知らないところでメイと青春が手をつないで歩いている。その様子が脳内に広がるだけで、胸はずきずきと痛みを訴える。
彼女の体を掴む力が、いつしか増していたことに、奏はハッと顔を上げた。
青春はまだ、やさしく微笑みを浮かべていた。。
「……怒っていいわよ」
「怒らないよ、青春がそうしたいって思ったことなんでしょ?」
「えぇ、壊してしまえばいいって、愛梨にいつしか言ったのだけれど、本当になってしまったわね」
「壊れないよ」
短く、そして鋭く奏は否定した。青春の表情は歪み、目の中の漆黒は深みを増す。首筋に手を当てられ、強制的に視線を戻される。
奏の瞳の中で、青春は不敵に唇を吊り上げる。
「壊して見せるわ、本当に私のことを嫌いになるまで、いろいろしてあげる」
「それが理由?」
奏がそこにこだわるように、青春もまたこれからの行動に拘った。冷たい指で耳を撫でられ、奏の背筋はゾクゾクと音を立てる。
「えぇ、私は彼女とイルミネーションでも見てくるわ」
煽るように、焚きつけるように、彼女は口にする。そして、一つ、寂し気な言葉も残すのだ。
「……でも、一番きれいなイルミネーションは、好きな人と見るものよ。だからそれは今日でおしまいね。今、目の前にあるものが、私にとって尊いもの」
「そうはならないわ。その前に、私が全部話すから」
「話したって何も変わらないかもしれない。 彼女と私は変えられないかもしれない」
「それでも――」
「話して自分一人だけが許された気になって、それで満足?」
「……自己満足かもしれない。でも、そうしないと進めないから」
青春に指摘されたことを奏は理解していた。それがひどく独りよがりなことも、他人のためではないことを分かっていた。しかし、もう奏は割り切ったのだ。
「いい加減、自分自身はっきりしないといけないから」
奏の瞳は濁っていない。ネオンの光を浴びて、キラキラと輝く。何度目かの問答の末、初めてであった時のような表情をしている彼女に、青春は息をのんだ。
だから、それに縋らないようにと、次の一手を打つのだった。
「そう、だったら奏、私とデートしない? 空澄メイと同じ日に、違う場所で」
その一言に、奏は眉を顰めた。やすやすとメイを裏切ろうとする青春に悲しくなったのだ。それが、自分を困らせたくて言っていることに、胸が痛くなったのだ。
黒々とした瞳は、奏を見てはいなかった。どこか遠く、虚空を眺めていた。結局のところ、青春は奏と向き合おうとしないのだ。二人の間に終わりを感じているから、何度も遠ざけようとするのだ。
「私、罪なら一緒に背負ってあげるって彼女に言ったわ。だから、貴方に言うわね」
唇は吊り上がっていた。髪が掻き上げられた。白い肌は、寒さで紅潮していた。タバコの臭いはしていなかった。
「一緒に彼女を裏切らない?」
奏の耳元で、そんな言葉がささやかれた。
どう返答するか、奏は考えなくてはならないのに、頭の中には花蘇芳の花言葉が浮かでいた。それは裏切りと目覚め、そのどちらもメイに対して働いてしまったものだ。だから、もう一度それを繰り返すというのは奏には躊躇われた。
そして、もしかしたら、今度は青春に働かないといけないのかと思うと、胸が痛むのを感じていた。
「青春、私はそんなことを――」
「詳しい日時は誰かに聞いてちょうだい。場所は今日と同じこの場所、ここで待っているわ」
駅前の広場、イルミネーションの真ん中、キラキラ光るネオンが二人を照らしていた。
ちうの間にか、奏の頬に光が一筋、流れていた。それを青春は冷たくなった手でそっと拭って見せる。。
「だから、私たちそれまでは会わないようにしましょう?」
「なんで――」
一歩、二歩と、青春は奏から距離をとる。そして、目を伏せてほほ笑んだ。
「……そうしないと、私は勧めないし、止まれないから。きっと、奏が彼女と話したいのと、一緒の理由よ」
そんなことわからないと、叫んでしまえれば、楽なのだろうと、奏は思う。
だけれども、青春の気持ちもわかってしまった以上、そうすることはできなかったのだ。
だから、彼女が去っていくことを見送るほかなかった。否定し、強く跳ね返すことができなかった。
最後に、青春はニヤリと笑って手を振る。
「鍵とタバコだけもらっていくわ」
いつの間にか、ポケットの中からその二つはなくなっている。その手癖の悪差は何とも彼女らしく、少しだけ奏の頬が緩む。
「……嘘ばっかり」
本当は、合鍵なんて持っていない。タバコも、カバンも何一つ持ってない。つまり、家に戻っていない。そんな青春の強がりを見抜いた奏は、深く息を吐く。また一つ、考えなくてはならないことが増えたことを強く不安に思った。
彼女が見上げた夜空には、雲が広がり始めていた。




