それは二人の泣いた時間 その4
この寒さは、季節のせいだけじゃない。
彼女は吹き付ける風から隠れながら、ライターをこすった。だけれども、揺れる火種は大きくならず、風にあおられて消えてしまう。火花が散り、ほんの一瞬だけ明るくなるも消えていくその光景のせいか、彼女の中には焦燥感が積もっていた。
こんなことなら一言断って庭で吸わせてもらうんだった。青春はそう後悔する。
青春の心の中に吹き荒れる嵐はいまだ勢力を増し、どれだけメッキで覆っても隙間から入り込み、たちまちに温かさを奪っていってしまう。一人きりになったとたんにやってくるそれはつまるところ、彼女の中の寂しさであった。
薄幸家の玄関をくぐり、目と鼻の先にある公園は吹き曝しもいいところで、遮るものなど何もない。それは彼女の心の中を表しているようだった。
せめて、自分たちの関係もこうあればよかったのに。
難しいことなど存在せず、ただお互いがそこにあるだけの理想はとうに潰えていることを青春は知っている。だけれども、願わずにはいられなかった。
また別れを繰り返すなんてことが起きたら、きっと自分は二度と立ち上がれないことを自覚していていた。
日嗣青春は薄雪奏に溺れているのだ。
何度もこすった開花、風が弱まったのか、ようやくついた火が、口元の煙草に煙をともす。
赤く光るそれは、彼女にとってのカッターナイフで、そして手首だった。
青春がタバコを吸い始めたきっかけ、それは憧れからであり、そして自己嫌悪だった。前者は既に風化し、灰となって心の底に降り積もっていた。だから、必然的に彼女にとってのタバコは後者の意味合いが強い。
タバコを吸っていると早く死んでしまえそうだから。そういった青春を柊愛梨は悲しそうに眺めていたことがあった。その時の瞳がいまだに彼女の中に残り続ける。色あせることなく、見つめ続けるのだ。
青春は忘れられない彼女の瞳を煙一緒に思い出す。それだけではなく、今までのことがすべて頭の中に流れ始める。ニコチンがそうさせるのか、冷えた頭がそうさせるのか、それは誰にもわからないことだった。
父親とのこと、奏とのこと、そして自分に必要なこと。そのためにどうすればいいのか。とりとめのない思考は形を持たず、溢れては消え、答えをもたらすことがない。それどころか、無視するべきであろう声が頭の中で鳴り始めるのだ。
やはり、タバコを吸っていると、いやな考えばかりが浮かぶ。
それを振り払うために一度頭を振り、青春は煙を吐き出す。そして、助けを求めるように空を仰いだ。
街灯から離れたところに立っていると、住宅街でも星は見える。
特に、冬場の澄み切った空気の晴れた日には。
星の光は長い宇宙を超えて、長い時間を超えて、彼女の瞳に光を届ける。
観測者である彼女の気持ちなど考えずに、どう思われているかなんて知らずに、ただ輝いている。
青春は、その星の光を、まるで恋のようだと思った。そして、ロマンチストか何かかと、自重するのだ。
煙は星を遮るように薄いカーテンを生み出したかと思うと、すぐに消えてなくなってしまう。
風にあおられ、消えてしまう。
それはまるで青春の中の勇気と同じように、儚く、霧散するのだ。
彼女は自身で答えを出せない原因を知っていた。
彼女は必要なことを遠ざける理由を知っていた。
彼女は、やがて星の光が消えてしまうことを知っていた。
朝がくれば太陽の光にかき消され、雲が立ちこもれば。姿かたちすら見えなくなってしまう。
そして何よりも、星自体が壊れてしまえば、それは光の軌跡を残し、消えてしまうのだ。
いつの間にか、タバコの火は根元まで差し掛かっていた。
彼女は吸えなくなったそれを地面に押し付けると、ひとつ、くしゃみを漏らすのだ。
「……こんなところにいた」
不意に、そんな声が青春にかけられる。
凛としたさわやかな声、振り返らなくても彼女にはわかった、奏の声だった。
「もう戻るところよ」
「お風呂上りに夜風に当たるなんて、風邪ひくわよ。それに、言ってくれたら灰皿くらい出したのに」
隣に立った彼女は、青春の頬へと手を伸ばした。
「うわ、すごい冷たくなってる」
「冬をなめすぎたわ、こんなに冷えるとは思わなかったわ」
「たまに青春が馬鹿じゃないのかと思うわ」
彼女の手を躱し、青春は先に一歩を踏み出す。そして、背を向けたまま呟いた。
「馬鹿よ、私は間違いなくね」
電灯が伸ばす影は闇に紛れて薄く、いまにも消えてしまいそうだった。
青春は煙の代わりに白い息だけを吐く。
その後姿を、奏はじっと見つめていた。
「また、自己否定?」
「まさか、ただの自己確認よ」
「本当ネガティブね」
「そうじゃなければ――」
青春はそこで口を閉ざす。本当はこんなことにはならなかったのに、そう言うつもりだった。
だけれども、奏の自己否定、という言葉が耳を通して喉で引っ掛かり、うまく呑み込めずにいたのだ。
だから、言葉を詰まらせる。
「なければ?」
「何ごとも、このままでいいなんてことはないのかもしれないわ」
「……その話はしたくない、少なくとも今は」
言い合いになるもの、そう奏は付け足す。
青春はそれをわかって口に出していた。同じ意見ではないことをわかっていた。
奏はずっと今のままがいいのだから。
このまま青春と付き合い、空澄メイがあきらめることを待つ。それが彼女の中の最善だと青春は知っていた。いや、始めからそうであったのにいつの間にか見失っていたのだ。
「奏、私は――」
「青春、戻ろう?」
何を言おうとしたのか、それは彼女にもわからなかった。
言語化される前の感情のような何かは、そのまま息と一緒に吐き出される。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
今、彼女はどんな顔をしているだろう。
それはお互いにしかわからないことだ。だから、青春は振り返る。
薄暗い夜の中、振り向いた先の奏は少し困った顔をして、微笑んでいた。
まるでどこかで見たことのある表情だと思いながら、青春は彼女の手を握る。
そして、やさしく柔和にほほ笑むのだ。
「そうね、戻りましょう」




