それは二人の泣いた時間 その3
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電車に乗り数十分、駅からさらに十分ほど歩き、青春と奏が寒さに震えながらようやくの思いで着いたのは庭付き一戸建てに瓦の屋根の昔ながらの家であった。
目の前に立っていた奏が何の気もなしに扉に手を掛けたのを見て、青春は慌てて呼び止める。
「ここは……、奏の家?」
「そうよ、今まで私が住んでいたところ」
「急に帰ってきて、家の人は心配しないかしら?」
「大丈夫よ、さっき連絡したし。 それに――」
と、言ったところで目の前の扉が開く。
「久しぶりね、奏ちゃん。 そしてもう一人の方も、初めまして。 さ、入ってくださいな」
そこに立っていたのは、初老の女性であり、おそらく奏の祖母だと青春は感じる。都市を感じさせない姿勢の良さに、切れ長の瞳、それに加えて長い手足と背丈である。おそらく、青春よりも高いその身長は、血の繋がりを嫌が応にも意識させられた。
「この人が私がお世話になっている例の先輩よ」
「あらあら、こんな別嬪さんに良くしてもらってたのね。 ほら、遠慮しないで上がって上がって」
腕を引っ張られ、背中を押されるがまま家へと運び込まれる。ドアをくぐると、どこか懐かしい匂いが青春の鼻腔をくすぐった。おそらく、奏の家なのだろうと仮定はしていたが、家族が住んでいるとするには、家具や気配がなかったのだけが気にかかっていた。今のこの展開に彼女自身がついていけていないまま、青春は脱衣所へと移動させられる。
先程の父との会話、そして、奏の行動の意味とこの家について、色々なことが頭の中でごちゃ混ぜになる。頭をフリーズさせたまま、青春は服を脱ぎ、そして洗面所の鏡を見つめた。
「酷い顔、それに目まで真っ赤だわ」
それだけ泣いていたことにも気づいていなかった。青春自身は気丈に振る舞っているつもりだった。いや、振る舞えたつもりだったのだ。それが狂っていた原因は一つしか彼女には思いつかない。
――奏の存在、それだけだった。
「……歯磨き、やっぱり二本しかないわね」
目を落とした先の、この場所での生活の温度。それを目ざとく見つけてしまう自身の浅ましさ、林道のことを笑うことはできないなと青春は自嘲した。
風呂場は快適であった。水垢が残っていることもなく清潔で、そして何よりも人の温かさがそこにはあった。
自分で沸かしていない湯船、そんな単純なことに思わず顔を綻ばしてしまう。
「……あったかい」
女性に言われたまま、シャワーを浴びて体の汚れを落とす。そして湯船の中につかった彼女はようやく安堵の声を上げた。
入浴剤のおかげで白濁と濁ったそのお湯からは白桃、そして髪と体を洗った石鹸からからは奏の香りがしていた。その匂いに囲まれて、青春は大きく息を吐き、そして吸い込む。
薄いオレンジ色をした明かりの下、青春は肩までお湯につからせる。そして、ようやく自分が一息ついたことを安堵した。
だけれども、それは仮初のもので、温度に慣れないうちに頭の中は再び情報でいっぱいになっていく。これから自分はどのようにすればいいのか、ずっとこのままでいいのか、父と、そして家族と、これからどうなっていくのか、そして何よりも、奏とメイと自分のこと。
それが彼女の頭の中でぐるぐると回り始める。
以前、青春は思っていた。手に入らないのなら、全て壊してしまおうと思っていた。だけれども、それはとても遠く離れた理想論だったのだ。
なぜなら酸っぱいブドウは彼女にとって、手に入らなくとも近くにあるだけで愛おしく、食べられなくともそこにいるだけで満足に思えたからだった。
だから、青春は変化を望まない。
「ねぇ、湯加減大丈夫?」
扉の向こうから、奏が声をかける。そして、衣擦れの音が水音だけの世界に色を差していく。
考え事をしていたところに驚いたのか、青春は少し上ずった声を反響させた。
「だ、大丈夫よ、久しぶりにはいると気持ちいいわね」
「そう、よかった。 じゃあ、私も入るわね」
彼女は言葉を言い終わる前に扉を横にスライドさせた。すると、室内に立ち込められていた湯気が一瞬にして駆け抜けていき、冷たい風が、青春の頬を撫でた。
「……狭いのにわざわざ」
「ここ、私の家なんだけど」
「別に、奏が嫌じゃないなら気にしないわ」
「今さらでしょ、裸なんてしょっちゅう見せ合っているものだし」
笑って答える奏は、屈託なく明るい表情を浮かべる。生まれたままの姿になった彼女を見て、なぜか青春は胸がドギマギとしているのを感じていた。
見慣れたはずではあった。だけれども、新鮮味もあった。
そして、彼女の体についた傷跡の意味が更に明白になったのだ。
「聞かれたらどうするのよ」
「どうもしないわ、私の恋人だって紹介するだけ」
体を覆ていた泡が落とされると、彼女の背中の痣が再び顔を見せる。生々しい傷の痕、そしてその上から青春がくちづけを重ねた場所でもあった。何度も何度も、行為の度に繰り返してきたそれは、彼女の傷を抉るものではなかっただろうかと、青春は今さらになって後悔した。
その思いから、そして奏の返答から逃げるように青春は視線を落とす。濁った水面には何も映ってはいなかった。
「そんなことしたら、本当に戻れなくなるわよ」
「それこそ今さら、よ」
そう言いながら、奏が青春の隣へと身を寄せる。体積の分だけお湯は溢れ、排水溝の中へと消えていった。汚れは水に流すことはできる。だけれども、重ねてきた思いは簡単にはいかないことを、青春は知っていた。そして、その挑戦を自発的に行うことがどれだけ難しいことかも。
だから、逃げるようだった。青春の視線は散りゆく湯気を眺めていた。奏の方を無効とはしていなかったのだ。
「今さら、ね。 それでも私には早く思えたわ。 奏と出会ってから止まっていた時間が動きだしたみたい」
「私にはとても長く感じていたわ」
間髪入れずに奏は答える。彼女の視線が青春の頬に痛いくらい突き刺さっていた。だけれども、決して振り向かなかった。言葉に合すように、頷くだけしか青春にはできなかったのだ。
「そうよね」
「お風呂、二人で入ると少し狭いね」
身動きをするたびに水が溢れていくことが示しているように、本当に身を寄せ合さなければ入れないほどである。嫌でも触れ合う肌に、青春は頬が赤くなるのを感じていた。
――頭の内まで熱いのはお湯のせいか。
なんて青春は誤魔化しを胸の中で唱える。
そうしなければ、沸騰してしまいそうなくらい心が騒いでいたのだ。
「仕方ないわ」
「なんで青春が仕方ないなんて言うのよ」
彼女がくすくすと笑う。青春もまた同じように笑った。
「なんでかしらね、どことなくこの家が始めて来た気を感じさせないからかしら」
「何を怖いことを」
「なんとなくね、懐かしい感じがするの。 家って感じがする」
単に温度の問題ではなかった。
単に誰かがいると言うことだけではなかった。
青春は形容しがたい安心感をこの家から感じていたのだ。
だから、言葉にならないそれもまた、誤魔化しの言葉になって泡となり弾ける。
水音が一瞬の空白を逃さないように、浴室に響いた。
「……あったかいね、狭いけど」
「そうね、暖かい」
青春が奏の方を伺うと、目が合う。
ニヤリと笑う彼女を見て、なぜか気恥ずかしくなって、青春は目を逸らす。
「やっとこっち見たと思ったのに」
「もう見飽きたのよ」
軽口で流すが、その頬はのぼせたように熱い。彼女は落ち着くために大きく息を吸った。
――ずっと好きだと思っていた。
青春は彼女の熱さを、その近さを感じながらそう思った。そして、小さく息を漏らす。
――多分、今までの好きは嘘だった。自分に言い聞かせていたまやかしだった。
その理由はハッキリしていた。彼女が父に怒鳴った時、そして自身の手を取りあの部屋から連れ出した時、青春の中でカチリと音がなるように世界が変わった。
今までも苦しかった。彼女は青春の方へと振り返らないことを分かっていたから。それでいてなお、傍にいたいと思っていたからだった。だけれども、色がついたように世界が変わったその時からずっと続いている彼女の苦しさは、また別だったのだ。
――多分、本気で彼女に恋をした。だって、こんな気持ちを今まで感じたことないのだから。
幸せになってほしい。青春はそう願った一方で離れたくないとそう思っている自分がいることを分かっていた。だから、胸が苦しかったのだ。
「ねぇ、本当の好きって何だと思う?」
いつか聞いたその質問を今一度、彼女は繰り返した。
その問いに、奏はまるで答えを用意していたかのように間髪入れずに答える。
「全てをなげうってでも相手の幸せを願うこと」
「奏自身の幸せはどうなるのよ」
「好きな人が幸せなら、それで私も幸せになれる。 きっと、ね」
奏のその横顔は、蛍光灯の下でもとても輝いて見えていた。切れ長の瞳の深い黒色に、青春は吸い込まれるような錯覚を覚える。
「……奏は吹っ切れたわね」
「青春は迷うようになった」
青春へと投げかける奏の視線は挑戦的で、その視線に耐え切れず、やはり目を逸らしてしまうのだ。そして、今日何度も行っている誤魔化しを性懲りもなく続けるのだ。
「さて、なんででしょう」
だけれども、それももう彼女には通じなかった。
「なんでかしら、当の私にはそれがわからないわ」
「私にもわからない、当然だけど」
突っ込まれて、だけれども向き合うのが怖くて結局のところ、青春の口をついて出るのはなんでもない言葉で、それが彼女には恥ずかしかった。
だから、白く濁った水面へと顔を落とす。その横顔に、奏は言葉をかける。
「人は、皆答えを求めている」
「誰かの名言?」
「ううん、違うわ。だけど、最近そう思うの」
奏は笑っていなかった。その目は真剣で、そして優しく青春のことを見つめていた。
だけれども彼女は、暗く濁った瞳を鈍く光らせる。
「答えなんてどこにもありはしないわ、みんな嘘吐きだもの」
「私は、青春に嘘つけないけどね」
「その言葉がすでに嘘だわ」
「さて、どうでしょうか」
今度は奏が青春の言葉を繰り返した。クスリと笑って、青春は頬をポリポリと掻いた・
「……そうやって笑われると何も言えないわ」
彼女はじっと目を見つめていた。そのキラキラと瞬く瞳はまるで光のように青春の心を照らし、そして深い影を落とさせる。
手持無沙汰の長い指はライターを擦る真似をしていた。
青春は今、無性にタバコが吸いたい気分だった。
「ねぇ、青春。 嘘をついてもね、後から本当になればそれは嘘じゃなくなるのかなぁ」
「嘘だって、ばれてなかったからね」
「もし、ばれていたら?」
「……つかれた人間は苦しむことになるわ。 信じることが出来なくて」
信じてはいけないことがこの世にはあるのよ、そう言おうと思った。しかし、青春がそれを言う前に奏が言葉を投げかける。
「好きだよ、青春」
「信じられないわ」
間髪入れずに答えたその心は確かに揺らいでいることを、青春は自覚していた。
それを奏もわかっているのか、追い打ちをかけるように腕を絡ませる。
「キスしたら信じてくれる?」
「今は止めて、多分、溺れてしまうから」
すでにもう溺れているか、なんて青春は心の中で自嘲した。
そして、彼女の長い腕を振り払うのだ。
自身の答えが出ていないまま彼女と話しているのは誰にとっても良くないことだと、心の中で何度も唱える。
それはまるでおまじないのようで、そして呪いのようで――
蛇に睨まれた蛙でももう少しはマシだろうか。
しかし、睨まれたわけではなかった。ただ、奏に視線を投げかけられただけなのだ。たったそれだけのことだと言うのに、青春はのぼせてしまうような気分に陥る。
紛らわすように繰り返した嘘の言葉も、砂上の城が波にさらわれるように消えていくのだ。
だから、青春は一度冷静になりたかった。頭を切り替えたかったのだ。
「先、出てるわ」
青春は湯船から上がり、曇りガラスの扉を開ける。冷たく乾いた空気は彼女の肌を刺し、そして逃げるように消えていく温かく湿った空気は鏡に映っていたものを隠してしまう。
いつか、自身と彼女をこう評したことがあるのを、青春は思いだしていた。
――まるで、正反対。鏡合わせのように。
その言葉を、どういうつもりで言ったのか彼女自身は覚えていなかった。少しの間、濡れたままの彼女は何も映らない鏡を眺めているのみだったのだ。




