それは二人の泣いた時間 その2
「違う。 あなたはそんなこと思っていない!」
力いっぱいに、青春をこちらに戻すように、奏は立ち上がる。
「ただ、自分のメッキのため。 他から見た時にどう思われるか、それが気になるだけ。 青春のことなんて、あなたは何も思っちゃいない」
リビングの一室で、声が響いた。そして、それは暗雲のように、彼の黒々とした瞳に影を落とした。
「…………心外だなぁ。 何もわかっていない部外者が、なんでそんなこと言えるんだい?」
「だって、あなたずっと青春のことを聞いていない」
「君の来る前に話していたかもしれないよ」
「もしそうだったら、条件なんてことを上から目線で言ったりしない」
啖呵を切り、立ち上がった彼女のことを、青春は不安そうに見つめた。しかし、その瞳はいつものどこまでも底が見えない黒色ではなく、キラリとした光を持っているように見えた。それはもしかしたら、涙のせいでも蛍光灯のせいでもなかったかもしれない。
奏の袖を握りしめた青春は名前を呼ぶ。
「……奏」
「奏さんね、覚えたよ」
苛つきを隠さないのか、彼は頭を掻き毟りながら、彼女の眼を見つめた。虚が濃くなったその黒色は、眉間の皺と一緒くたになって、いつの間に点けられていた二本目の煙草の煙に掻き消される。
その白色のカーテンを、奏は鬱陶しそうに手で振り払う。
「じゃあ、これも覚えていてください。 私は、青春の、恋人なんです。 だから、口出しさせていただきます」
彼は目を逸らし、青春へと焦点を合わせた。その何気ない動きに、青春は身をこわばらせた。その変化は、隣にいた奏にしかわからないものであった。だからだった、奏は彼女が掴んだ袖から手を外し、自分の手に絡ませる。きつく、硬く、私がここにいると示すように。
「こんな子のどこがいいんだい、青春。 前の彼女の方が良かったじゃないか」
「……前の」
「そうだよ、青春の、前に好きだった人。 君は知っているのかい?」
青春が憧れ、そして拒絶した人。その誰かを思う度、奏は胸に甘く痛みが走ることに気づいていた。そして、それを悟らないように、悟られないようにと思っていたが、喉を詰まらせ、言葉がすぐには出てこなかった。
知っているとも、知らないとも、何も言えなかった。だけれども、その空白は青春が切り捨てた。
「関係ない、話だわ」
「それが関係あるんだよ。 その彼女、君に追いだされた後、ひどく落ち込んでいていね。 まぁ、もう連絡は取っていないんだけど、もし、青春が望むなら彼女をもう一度ハウスキーパーとして雇ってあげてもいい」
「連絡を取っていない?」
繋いだ手の力が強くなるのを奏は感じていた。それが何を指すのかを、彼女は考えないようにしていた。だけれども、隣に座る青春の眉間の皺が深く刻まれていくのを見ると、何も言えなくなってしまうのだ。
青春は、足を震わせる。それは、彼女のご機嫌ななめな時に見せる貧乏ゆすりだった。
「あぁ、そうだよ、何か変かい?」
逆撫でる様に彼は聞き返した。ニヤニヤと歪ませた口元は嫌に、青春とそっくりに奏には見えた。だけれども、そこにあるものは決定的に違っているのだ。
「また、捨てたのね」
「捨てた? 何の話だい?」
――悪意だ。青春と彼との違いは、悪意の質だと奏は思う。
「……そうやってしらばっくれる」
「青春、僕はね。 元から拾った気なんかないんだよ。 野良猫に餌を与えることを飼っている、なんて言う人はいないだろう?」
彼は平気な顔をしてそう彼女たちに微笑んで見せる。まるで、そこに何もないように、それが当たり前のように見せかけるのだ。
だから、奏はその途方もないような邪悪を目の前にして吐き捨てずにはいられなかった。
「……あなた、最低ですね」
「人の親にそんな言葉を吐けるなんて大したものだよ、君は。 でも、その君が言う最低な行為をしているのはなにも僕だけじゃない」
彼の濁り、黒く染まった瞳が青春を捉える。隣から奏へと身震いが伝染する。
「青春も同じさ」
「――違う」
彼の顔から剥がれない、張り付いた笑顔が気持ち悪く思えて、奏は俯いた。青春の長い髪が肌にこすれて、まるでカーテンのように見たくないものを隠してくれる。
彼女は、彼女たちは、身を寄せ合っていた。そして、それを見ていた彼は唇からさらに毒のような腐った声音で言葉を吐き続けた。
「僕らはね、寂しがりなんだよ」
「私は……」
小さく、弱弱しい声で、彼女が呟いた。耳元に流れ込んでくる鼓動と、彼女の感情は温度を持っていて、奏をもう一度焚きつける。
守りたいと思う気持ちを、思い出させる。
「違います!」
彼女は思わず立ち上がっていた。
勢いで出てしまったその声の大きさは、耳に残る彼の粘ついた声を掻き消していくようだった。
「青春は決してあなたみたいなことはしない、そしてあなたに親を名乗る資格なんてない」
彼の暗い瞳が奏の姿を映していた。そして、その口元からにやついているような口角の吊り上がりはなくなっており、それが何故か彼女たちに恐ろしく思えた。
「じゃあ、僕は誰なんだろうね?」
「血がつながっただけの、ただの他人です」
得体が知れず、底も知れず、理由さえもわからない。青春とその父親の間に横たわる大きな何かを、奏はきちんとは知らないのだ。だけれども、引くわけにはいかなかった。だから、言い切ってしまう。
「青春のことを放っておいて、それで自分の都合がいい時にだけ現れるなんてそんなの自分勝手すぎます」
「自分から出ていったんだよ。 それをまるで僕が悪者みたいに扱うなんて、君は何も知らない上に、思い込みが激しいんじゃないのかい?」
「……だからって、放っておいていいわけがない!」
そこだった。奏にとっての、そしてもしかしたら青春にとっての一番の理由だった。
「お金と部屋だけ渡して、それで終わり? 家族での仲直りは? なんで出ていったのか、考えたことありました?」
相手は自分に興味がないのだと、それを長い間かけて教え込まれてきたことを、奏の言葉は指していた。厄介払いにさえ近かった。そうとしか、彼女たちには思えなかったのだ。
「だから、原因を解決するんだよ」
彼はまた、口角を吊り上げる。まるで罠にかかった獲物を見つけた時のように、嬉しそうな表情だった。
「ね、青春。 聞いてよ、僕たち、別れようと思うんだ」
「青春は、僕の方に付いてきてくれるよね?」
だけれども、彼の思惑とは違っていたのだ。
プツリと糸が切れたように、青春は肩を落としていた。そして、奏の手のひらに一滴、彼女から流れた涙が、落ちてきたのだ。
「……結局、そうなるんだ」
そう、呟いた。小さな、蚊の鳴くような声であったが、それでも彼と奏は聞き逃すことはできなかった。
まるで、全てを諦めたような、この世の終わりのような、そんな声音であった。
そして、そのままの状態で、涙を流しながら、青春は彼に伝えるのだ。
「私は、どっちにもついていかない」
一瞬、彼はぎょっとして見せるがすぐににやにや顔を取り戻して、青春へ取り入ろうとする。
「そうは言ってられないよ、君はどちらかを選ばなくちゃいけないんだから」
「だったら――」
「それは君の未来を奪う行為さ、賢い君ならわかるだろう。どちらについていけばいいか」
机に身を乗り出して、彼女の顔を覗き込んだ。口と表情では、とても穏やかそうに、笑顔でいるのに対して、その瞳はまったく笑っていないのが奏からはうかがえた。
だから、手をつなぐよりも、その身をこちらへと引き寄せることを選ぶ。腰へと手を回し、その長い髪を揺らす。彼女の体重が、奏にと任せられるのだ。
「少なくとも、青春ならどっちに多くのメリットがあるかは知っている。それに――」
そう、彼は区切った。煙草の煙が燻る。行き場のない白い雲は蛍光灯に照らされて、やがて消えていく。奏はその様子を見ていた。青春もまた、彼から目を背けていた。だけれども、すぐに引き戻されることになるのだ。
「まだ、好きなままなんだろう?」
ガツンと、奏の脳みそに衝撃が走るみたいだった。それは彼女にとって仮定していた未来の一つで、考えたくないと思っていたことの一つでもあった。青春の過去への未練、そしてその可能性。彼女がそれをすぐに否定しないことも、奏の心を締め付けた。
「だから、びっくりだよ。 隣の彼女は全く似ていないからね」
奏の方を覗き込みながら、彼はほくそ笑んでいた。彼女は睨み返すだけで黙るしかなかった。奏にとって、的確に言い返す言葉が見つからなかったからだった。
彼女の知らない過去について話せることが無かったからだ。
それをいいことに、彼は話を続ける。
「あいた穴を埋めるなら、別のものじゃ無理に決まってるさ」
いつの間にか、青春は煙草を咥えていた。そして、夕日によく似た色の炎がそれを燃やし、煙を作り出す。
彼女はゆっくりと吸い込み、そして吐きだした。
奏から見つめるその横顔の瞳は深い黒色で、そして光で潤んでいた。
「違う。私が好きなのは――」
「もう一度合わせてあげるよ、好きな彼女に」
彼女は首を横に振る。
「私が好きなのは奏、ただ一人よ」
震える声で、彼女は言葉を絞り出すのだ。そして、それを聞いた奏の頬に朱色が刺した。
それは決別だった。少なくとも奏の眼にはそう映った。過去との、そして今との決別に思えたのだ。
父親は、眉をひそめていた。明かりはその刻まれた皺の影を深くし、その心情があまりいい方向に入っていないことを暗に示す。だけれども、青春は気にせず奏の方を向いて、ニッコリとほほ笑むのだ。
「あれは好きとか、そういうのじゃなかったから」
キラキラと輝いていた。瞳が、声が、今までの暗い影から解き放たれたようだった。おそらく、奏はそんな表情の青春を始めて見る。
だから、胸がドキリとするのも仕方ないことだと、そう結論付けるのだ。
反対に、彼の眼は酷く濁って見えた。始めから濁っていたが、それ以上に、酷く、やつれて見えたのだ。
「だったら何を求めていたって言うんだ?」
その問い、青春は答える。
「埋めたかったのは、家族だった」
「だったら!」
「もう無理よ」
彼女は彼を真っ直ぐに見つめていた。その言葉は明確に拒絶を表していた。そして、そう答えた青春の気持ちを、奏もまた知っていたのだ。
諦めがついてしまったのだ。ずっと心の奥底では秘めていた願いが、壊れてしまったのだ。そして、それを壊したのは紛れもなく相手からで、戻らないものを待っている自分が馬鹿らしく思えるのだった。
決して、愛してくれないものを愛いし続けるほど、私達は馬鹿じゃないのだ。奏はそう思っていた。しかし、だとすれば、奏のことを好いている青春は、その思いが帰ってくると願っていることになる。柊もまた、同じだった。そして、自分もまた――
いや、違うのだ。そうじゃないのだ。奏は息を吸い、立ち上がった。
「お金や自分じゃない誰かじゃないんです、青春のお父さん。 私達が欲しいのはそんなものじゃないんです」
愛し続けることが出来るのは、きっと見返りを求めないから。
信じ続けることが出来るのは、きっと信じたいから。
それが、奏が出した結論だった。
それが、奏の思う、『本当の好き』だった。
彼は不愉快そうに唇を歪ませる。その視線には、紛れもない怒りだけが込められていた。
「君に何がわかる?」
「わかりますよ、私には。 だって私も捨てましたから、父親のこと」
その瞬間、彼の眼は真ん丸になる。そして、彼女が握る手の力が強く、硬くなるのを奏は感じた。
それは、暖かく、優しく、心地よく、そして奏と同じ温度をしていた。それが、彼女に立ち向かう勇気を与える。
「だから私は、あなたみたいな人を父親だなんて認められない」
「君に認めてもらえなくとも困らないさ」
「そうですよ、認めるのは青春です。でも今日は、私が青春を預かりますから」
「行こ」
「……それってどこへ?」
彼女を引っ張り上げ、扉へと向かった。背を向けたが、彼は止めようとしなかった。認めたのか、それとも、まだ何かを考えているのか、もはや顔色さえわからない。
だけれども、声だけが追いかけてくる。
「どこまで行っても血の繋がりからは逃げられないよ」
「血は繋がっていても心は繋がっていない」
そう、奏が呟いたが彼には届かない。暗い廊下を通り、玄関を出ても、彼には届かない。深い溝が、そこにはあった。価値観と生き方と、そして愛情だけが区分していた。外ではすでに街灯がついていて、今はもう夜なのだということが一目瞭然であった。
青春は開いた手で髪を掻き上げる。夕闇より黒いその色は、光尾反射してキラキラと輝く。
「私、何も持ってないわよ。 財布も、鞄も全部家だもの」
「取りに来ればいいよ、落ち着くまでは私に任せて」
「でも……」
「あんなのと青春は一緒にいたいの?」
「……あんなのでも、父親なのよ。 唯一のね」
「破棄すればいいわ、今は無理でも、私達が大人になったら」
「大人になるまでいてくれるの? 奏は?」
そう問われて、奏は驚いた。こういった流れになったことに対して、まるで無意識だったからだった。それは、知らず知らずの間に、青春とずっと一緒にいるものだと、そう思っていた自分に対しての驚きでもあった。彼女たちはついこの間には終わりを感じていたと言うのに、今では不思議とずっと未来であったても手を取り合っている姿を想像していた。
しかし、そのことに驚きこそはすれど、それを否定しようとまでは彼女は思わなかったのだ。
奏はずっと感じていたのだ。彼女と自分が似たもの同士なのだと、それでいて、これほどまでに違うことが、悲しく、そして切なく思えていたことを。奏の隣を歩く彼女の大きな黒い目は、夜の中でも光を浴びて煌めいていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。奏は目を細めて彼女に向かってほほ笑んだ。
「――約束、したからね。 裏切らない限りは、私も裏切らないって」
「そう、だったわね」
青春は少し具合の悪そうな表情を見せていた。だけれども、対照的に彼女は奏の胸の内にはこれまで抱えていた痛みはあまりしなかったのだ。この寒さで心まで悴み、痛みを忘れてしまったせいか、自分の嘘が上手くなってしまったせいか、それとも――
奏は考えうる可能性にたどり着かないよう、言葉を吐きだす。
「夜は冷えるね」
「えぇ、だけれども耐えられるわ。 今は、寒くないから」
「……そうだね」
誤魔化しで話しだした会話もすぐに終わり、道を歩く二人の間には沈黙だけが横たわっていた。街灯の明かりが、時折照らし出すのは二つつながった影であり、それ以外は闇に覆われていた。
奏は頭を上げ、空を見つめた。
こうなった時から、ずいぶんと日が落ちるのが早くなったと、そんな感傷の中で吐く息だけが白い。時間を確認すると、まだ、七時も回っていなかった。
澄んだ夜空には星が瞬いていた。それはコメ粒ほどの大きさに見えたが、それでも街の明るさに負けることなく、そこに存在していた。そう、暗闇の中に二つ、まるで寄り添い合うように、そこにいたのだ。




