それは二人が泣いた時間
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奏は、酷く疲れた気分だった。色々な人からの問いが、頭の中で何度も何度も、繰り返された。柊も、林道も、そしてメイも、聞いていることは同じだと、何故だか直感していた。だからこそ、奏は答えが出せないのだ。
マンションの廊下で、奏は空を見上げた。暗く、紫がかった色の隙間から、小さな星が瞬いていた。そして、目を落とすと、それを書き消すように無数に存在する人工の光。人の営みの数だけあるその中に混ざるため、自分たちは生きている。
そこに愛があるかどうかは関係ない、だけれども、光を求めずにはいられないのだ。
また、無駄なことを考えてしまったと奏は重いため息をつく。そして、たどり着いた仮宿の、そのドアノブに手を掛けた。
一気に開けたりはしない。ゆっくりと確実に、まるで開けたくないように、奏はその扉を開くのだ。その動作は、奏にとって後悔であり、迷いでもあった。
青春の顔を見たいような、見たくないような、どっちつかずの気持ちのまま彼女は家に入る。そして、気づいた。
――違和感だった。
目に飛び込んできたのは、見慣れない男物の靴。そして嗅いだことがない種類の煙草の香り。誰だ、と奏は一瞬思うも、すぐに可能性は少ないことに気が付く。
大人の男性でこの家に現れる者、奏が考えうる限り、それは学校の先生、そして父親の二つしかなかった。確かに、彼女は今まで、気になっていたことだった。
――彼女の家族はなにをしているのだろうって。
それは、青春が自分のことを騙りはしても、語りはしてこなかったことだ。もはや、それは二人の間のタブーと言っても良かった。聞かれたくないことについて、彼女はかたくなに口を閉ざす。何度か軽く探りを入れていた奏でさえも、知らないことなのだ。
だから、彼女を象って来たものの一つが、おそらく扉の先にあると思うと、奏は怖くなった。もしもそれで彼女が傷ついてしまったら、自分自身が傷ついてしまったら、なんて考えると嫌になる。二人にとって、変化は恐れるべきものだったからだ。
しかし、そうであっても奏は知りたいと思っているのも事実だった。彼女のことを、深く理解したかった。だから、そのカギが目の前にある状況において、奏は自分を抑えることが出来なかった。
震える手で、音を立てないようにと、ドアを閉めた。そして、耳を澄ます。
二人分の靴があると言うのに、怖いくらいに家の中は静かで、それはまるで、嵐の前の静けさのような、恐怖心すら奏に抱かせるものだった。そして、彼女が初めて訪れた時のような疎外感と緊張感が、家の中を暗い色で染めていた。明かりもついていない廊下がとても長く、遠く、奏の目には映っていた。
奏が足を進める度に、フローリングの床は嫌な軋みを立てる。自然と、生唾が出てきて、それを飲み込むのすら、心臓が爆発しそうであった。
ようやく、曇りガラスで張られたリビングへのドアにたどり着いたところで、奏はやはり引き返したほうがいいのかもしれない、と迷う。
自分と青春は、結局のところ偽りの関係でしかないのだ。だから、知る必要なんてこれまでも、これからも訪れない。そして、知ってしまったら奏にはもう、後を戻る道は残されていないのだ。
相手に嘘はつけても、自分には嘘はつけない。知ってしまえば、それは感情となって胸の内に留まり続ける。奏はそのことを、よくわかっていた。
だから、いつか終わりが来る関係にとってあとくされしてしまうような感情を抱いてしまう可能性に、彼女はためらっていたのだ。
ドアノブに手をかけたまま、奏は立ち止まっていた。依然として、中は静かで、時折、ぼそぼそとした話し声が聞こえてくるだけだった。ここから立ち去る理由はいくらでも思いつけた。しかし、開ける理由は依然として見つからないのだ。
息を深く吸い、そして吐く。そして、耳に神経を集中させる。
そして、ようやく聞き取れた青春の声が震えていることに気づいたのだ。
いつしか聞いた、とても弱った彼女の内面。それがすりガラス越しに、奏の心を震わせたのだ。
彼女の手は、自然とノブを捻る。そして、明かりのついた、リビングへと、足を踏み入れるのだ。
光は、奏の眼を一瞬だけくらませる。目を閉じると、睫毛がシャッターのように落ちていく。そして、次にあけた時、彼女の瞳に飛び込んできたのは、机を挟み、向かい合って座っている歪な親子の姿だった。
それが突然であったことも原因しているだろう。男は、驚いたような顔で奏を見ていた。しかし、青春は、こちらを振り向きもしなかったのだ。瞳に雫をため、手元に水たまりを作っていた。
――青春は、泣いていた。
彼女の父親と会うことは怖かった。いや、父親ではないかもしれないけれども、それでもなお怖かった。
そして、彼女のことを知りたいと言うことの他に、もう一つ自分には扉を開ける理由があったのだと、奏は気づいた。それはおそらく、手に入らなかったものを確かめたかったのだ。
誰も、何も話さなかった。時計の音だけが、無慈悲に一秒一秒の温度を奪っていた。奏は言葉が出ず、そして彼女から目が離せなかった。いつもの強がった表情でもなく、自分の前でだけ弱さを持った女性でもなく、ただ一人、癇癪を起したような子供がそこにいたからだったのだ。
男は、手に持っていた煙草を口に加え、そして煙を吐きだした。蛍光灯に照らされたそれは、形もないと言うのに、二人をあざ笑っているように見えた。
いつか、家具を買いに行こうと奏は青春に言ったことがある。だけれども、それは強く断られ、話題に上げることすらできなかった。その理由が一つ、見えたような気がした。この男が、ここに来ることを、青春はわかっていたのだ。こうなることがわかっていたのだ。
だから――
思わず、駆けつけていた。彼女の元へと寄り、その頬を伝う涙をハンカチで拭う。そして、それから、彼女のことを強く抱きしめていた。
腕の中の彼女はどこまでも無防備で、今までに見たどんな姿よりも弱弱しかった。だからこそ、奏は思うのだ。守りたい、と。
それは奏がメイに抱くものとはまた違う、似てはいるが別のものであった。
そうして青春の震えが収まるまで誰も話さなかった。だけれども、その時間こそが、ありのままの青春に触れている瞬間なのだと、奏は感じたのだ。
しかし、その二人を面白くなさそうに見ている人物がいた。
その男は、眉をひそめながら、胸ポケットから出した煙草に火をつける。
整髪料でキッチリ整えられた髪、そして、彼女と同じように黒く濁った瞳に厚い唇。そこから吐き出された煙草の煙は嫌に甘く、奏は嫌いだと、そう思った。
男は呆れたような口調で、奏に尋ねる。
「まったく、青春の友達かい? 君は」
「……そうですけど」
その会話の中で、また煙を吸い、吐く。その一巡りは数秒にしか満たなかったが、相手が自分のことを好ましく思っていないことだけは、奏にも分かった。
「せっかく久しぶりの親子での会話なんだ。それに、勝手に家に上がってくるなんて、礼儀も何もなっていないのかい? 僕の学校もレベルが落ちたものだね、嫌になるよ」
予想が、確信にと変わる。
やっぱり、と奏は小さく息を漏らす。そうじゃなければいいと、思っていたのだ。そうであってはならないと、そう思っていたのだ。
「……あなた、父親なんですね」
「あぁ、そうだよ。 」
「いままで、なんで」
「忙しいのさ、暇な女子高生とは違ってね」
「忙しかったら、子供を放っておいてもいいんですか?」
「放ってなんかいないさ、僕はね、青春のことを大切に思っているんだよ。 だから、最上級の条件を持って今日ここにやってきたんだ」
「条件?」
「あぁ、そうさ。 だから、関係ない人は出ていってくれないかな?」
「嫌と言ったらどうします?」
「どうもしないさ、ただ、青春が困るだけだよ」
奏は、彼が浮かべる下卑た笑みを、思わず睨みつけてしまう。しかし、一切気にはされず、彼は、余裕たっぷりなのを見せつけるかのように煙草を吸い、そして青春のことを見つめていた。
……眼中になし、か。奏は心の中で毒づく。
この目の前に座った男を難とかして追い返したかった。自分と、青春がいるこの空間からいなくなって欲しかった。だかれども、おそらく、願うだけでかなうような簡単なことではないことも奏はわかっていたのだ。
だから、彼女もまた、腕の中の彼女を待った。
「……私は」
その一言は、不思議なことに奏のことをドキリとさせた。
「私は、一緒に住みたくない」
「それはさっき聞いたさ、だけれどもずっとそうは言っていられないだろう?」
そこでようやく、彼女にも話の流れが見えてきた。おそらく、彼は青春を取り戻しに来たのだ。そして、それはなるべく話し合いなどの穏便な方法でのことで。
やろうとするならば、電気やガスを止めてしまうなど、いくらでも方法があっただろう。だけど、それをやらない理由があるのだ。
「確かに、僕らにも原因はあったさ。 君に構えなかったのも悪かったと思っている、だから、そろそろ機嫌を直してくれてもいいんじゃないのか?」
「……なんで、今さらになってそんなこと」
青春は、目の前の父親から目を逸らす。今日の彼女からは煙草の匂いがしなかった。
「――そんな、父親みたいなこと」
「もちろんさ、だってそうだろう。 君は僕のただ一人の娘じゃないか」
彼はニコリと笑った。まるで、娘のことを心配している父親の様だった。
奏は何故だか、自身の胸に悪心を感じる。記憶が頭によぎり、目の前の彼に違う人物が被って見えた。この感覚を奏は知っていた。嫌に優しすぎるのだ、まるで揺り返しがあるように、まるでこの後に酷いことが起こるように。
彼女の父親は何か別のことのために青春を欲しがっているようにしか、奏には思えなかった。彼の眼つきと穏やかな口調はそうとしか思えなかったのだ。そして、青春もまた、それがわかっているように思えた。
だけれども、青春は揺れているのだ。
今、隣にいる彼女はいつものように、嫌なことは嫌だと言う我儘な彼女じゃなかったのだ。
そして、そのことに彼も気づいている。
このままでいると、青春がいなくなってしまうかもしれないと、奏は感じていた。
止めるべきか、止めないべきか、悩んだ。
青春が今の生活を送っている理由も、そして送っている時の感情も、奏にはわからないからだ。それがいいことなのか、悪いことなのか、判断するのは奏の心のみであった。
だから、奏は声を上げた。




