まだ、花蘇芳は枯れていない 終
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奏がそこにたどり着いたとき、いつもと同じように思えた。だから、一瞬の間、彼女はホッとした。顔を合わせずに済んだからだ。だけれども、それはすぐに焦燥へと変わる。
何もなかった、なんてことはないからだ。
枯れた木に、殺風景な夕闇、そして壁にもたれた日嗣青春と、煙草の匂い。
そこに花蘇芳の精はいないのだ。
青春とメイの間に何が話されたのか。何が交わされたのか、奏には知る余地はなかった。それでおも、奏の胸は締め付けられていく。平然としたままの青春の横顔を見ていれば見ているほど、焦燥感がせりあがってくるのだ。
もしかしたら、知る必要なんてないのかもしれない。知らない方が楽なのかもしれない。自分はただ、メイが諦めるまで、それに付き合うだけなのだから。
奏は必死に、平常心を取り戻そうと、思考を整理し始める。しかし、それが終わるよりも早く、青春は奏に気が付くのだ。
二人の間で、視線が交わされた。
愛と偽りと、それから疑念と、幾重もの重いがそこで交差していた。
そして、その含みは奏にいつもと違う言葉をもたらすのだ。
「……青春、一人?」
「なんでそんなことを言うの、いつもそうでしょ」
「別に、ちょっと気になっただけ」
それは奏の失態と言っても良かっただろう。冷たい汗が彼女の背中を流れる。胸が嫌に鼓動して、青春から目が離せない状況下の中、夕焼けは二人の距離を照らす。
裸になった木の枝が揺れて、長い影に線をかける。
青春は悲しそうな顔でほほ笑んでいた。
「奏、ちょっとこっちに来て」
どこまでも見透かしていそうな深い黒色の瞳。奏は彼女のそれを見る時、いつも吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
「……実はさ」
と、話しながら奏が近づくと、その腰に青春の手が回る。
「あの子の匂い、しないでしょ?」
その体は、とても冷え切っていた。だから、奏が温めるように彼女を抱きしめると、いつものように煙草の残り香が鼻腔をくすぐった。
胸に顔を埋めながら、青春は言葉を続ける。
「私が裏切らない限り、奏は私を裏切らない?」
ドキリとした。やはり、彼女はわかっているのだ。奏は体の芯から凍てついたように動けなかった。ただ、自身に体を預け、喉を鳴らす子猫のような青春に、なんて答えようか迷っていた。
素直にメイのことを聞いてしまうべきか、迷っていた。
聞いてしまえば、きっと彼女は悲しむ。そして、それは巡り巡って自分までもが泣いてしまうかもしれない。
だから、はぐらかした。そして、後悔した。
「…………どうしたの、いきなり」
裏切らないと、そう言ってしまえばよかったのだ。奏は下唇を噛んだ。
行ってしまえば、二人の間で契約は再成立する。不安も、期待も、全てないがしろにして、成立してしまえる。
だから、間違えたのだと、奏は思った。今の言葉は、曖昧にしてしまうもので、小さな引っ掛かりをお互いに作ってしまうのだ。
だけれども、取り消せない。取り返しのつかない。それが青春もわかっていたからなのかもしれない。彼女は、微笑むのだ。
「ちょっとね、私も人の子なの」
奏は、不意に泣きたい気持ちになった。厚い唇がゆっくりと吊り上がっていくのに、見えてもいないのに、容易く想像できていた。それが、耐えられなかった。だから、目も、言葉も、逸らしてしまう。
「わけわかんない」
それは、彼女が見せる精一杯の強がりが、理解できていたからだった。
そして、その彼女は心の臓に最も近い場所で囁く。
「わからないものよ、中身なんて。 だから欲しくなるの」
「青春は、私が欲しいんでしょ?」
「そうよ、だからこうしてる」
奏を抱きしめる力が強くなり、それに合わせるように奏も青春の背中に腕を回す。
「本当は、早い者勝ちだったのかもしれないわね」
「何が?」
「ここでこうしていられる権利」
「そんなの誰も欲しがらないわよ」
「どうかしらね」
「それに、私が青春を選んだのよ」
「どんな理由であれ、ね」
――青春は、意地悪になることがある。きまってそれは二人の関係性に何かあった時で、この不安定な安定が終わろうとしていることを指していた。
結局のところ、メイは青春と何かを話していたのだ。それが青春と自分に揺らぎを与えた。
奏にはそれがわかっていた。わかっていたからこそ、今の歪さが目に余った。
どちらも大事なのだ。メイの気持ちも、青春の気持ちも。それをどちらも失うわけにはいかなかった。
顔を上げた青春は、困った顔して笑った。
「黙ってしまうのはどうして、なんて意地悪よね」
「……意地悪だよ」
それは二人の間に、あるいは三人の間に明らかに横たわっていた。
青春も奏も、口にはしなかった。行動や態度で示しながらも、はっきりと言葉にすることはためらっていたのだ。
理由は簡単であった。形にして確認してしまったら、今の関係が終わりを迎えること、そして、傷つき、傷つけてしまうこと、それがわかっていたからだった。
だから、偽りを何度も確かめ合う。それが本物であれと願いながら、それが正しさであれと、願いながら。
胸に顔を埋めていた青春は、彼女の心臓の音が早まっていたのに気づいていた。そして、奏もまた目を合わせようとしない青春の違和感に気づいていた。
その齟齬に勘づきながら、互いに言葉は出なかった。
ただ、冬の風の寒さを紛らせるばかりだった。




