まだ、花蘇芳は枯れていない その7
「柊さん、少しお話してもいいでしょうか」
「いいよ、お安い御用だ」
柊はさも平然であるかのようにそう返すが、胸の内では震えていた。
燃えるような奏の視線が、怒気をはらんだその声が、自身に対して向いていたからだった。
そんな緊張した空気は目の前に座る空澄の視線を右往左往させる。
何を話すべきか、どうするべきか、頭の中で必死に考えているようだった。
そして、それは柊も同じである。
突然の来訪者、しかも今一番表れて欲しくなかった人物。それでありながら、柊が一番合いたかった人物。
そんな薄雪奏に対してどのように接すればいいのかわからないのだ。
ただ一つ、柊が理解していたのは、この場に留まることが長くなってしまうのは危険だということだけである。
だから、彼女の誘いに乗った。
そして、柊が席を立とうした瞬間、空澄は顔を上げてこちらに向かって話しかける。
「あ、あの! 先輩! 私、ちゃんと考えてみます」
嘘偽りなど一切持っていなさそうな彼女の純粋そうな顔。それが熱を持って柊に向いていた。思わず、彼女は破顔し、笑みを浮かべる。
「そうだね、そうしてくれると僕は嬉しいよ」
そう言い残し、鞄を置いたまま、柊は導かれるように外へと向かった。
これからが、きっと上手くいくように願いながら。
吹き抜けの喫茶店で、中も少し冷えていたが、外はさらに苛烈だった。夕方がこんなに冷えるものなのかと柊は手をポケットに突っ込む。
吐く息は白く、そしてすぐに溶けていくよう消える。
薄雪奏は寒さに慣れているように、顔を俯かせ、こちらのことを伺っていた。
まるで、夏休み明け。道で話した時の再来だと、柊は思った。
「いつになく情熱的じゃないか、外に連れ出されるなんて」
そう彼女が話しかけると、奏は顔を上げ、眉をひそめ、声を荒げる。
「先輩、何しているんですか、なんでメイと!」
「落ち着きなよ、別に取って食おうなんて思ってないさ。 ただ、僕は君たちのことを」
「余計なことしないでください!」
薄雪奏は落ち着かなかった。とても怒っていたのだ。なぜなら柊がしていたことは、今までの自分がしてきたことの意味をなくす行為にもなりかねない。そして、それ以上に、自分が抱いた恋心が、メイ自身にばれてしまうかもしれないのだ。
そのことが、彼女を怒りに駆り立てる。
林道がちょっかいをかけるのとはまた違うのだ、柊愛梨という人間を少しでも知っているからこそ、奏は不安を抱き、怒りを感じずにはいられないのだ。
そして、その感情は奏の体を通し、柊へと迫る。
つかつかと距離を詰めた奏は手を伸ばし、柊が持たれていた壁へとつけられる。
逃げ場をなくし、とても近い距離になった柊をに向かって、奏は吠える。
いや、吠えなくてはいけなかった。
「私は、このままが一番いいと思っているんです!」
「このままって? 君と青春が隠れて付き合い続けることかい? そうすれば何か変わるかい? 青春は満足だろうけどね」
猛る彼女とは違って、柊の心の内はひどく落ち着いていた。その冷ややかな視線は、奏の中で燃え盛っていた熱を奪う。
奏はいつしか、柊から顔を逸らしてしまうのだ。
柊は彼女が本心で言っているわけではないことを知っていた。このままが一番なわけがかった。奏が一番欲しいものが停滞であるわけがない事を、柊はわかっていたのだ。
だから、視線を合わせなくなった彼女に何も言わなかった。
ただ、悲しく物憂げなそれだけが目の奥から、ありありと溢れだすのだ。
そうやって、どちらも逃げられない状況になった今、二人は言葉を発しない。
きっと寒くなるまで、話すことはできない。
話してしまえば、本音が漏れ出てしまうから。柊は奏が、奏はメイが、己の一番だと言うことがバレてしまうからだ。
目と鼻の先、服がこすれる度に伝わる熱はとてもさりげないのに、二人の心の上では熱く、冷え切ったそれを溶かしてしまう。
一人だったら、耐えられたのだ。だけれども、今、柊が本気で彼女に問いかけている今、この瞬間において、奏はもう、心の決壊を耐えられなくなる。
「……メイが諦めてくれるかもしれない」
ポツリと、蚊の鳴くような声だった。
「どうだろうね」
酷く冷えた声だった。
だけれども、奏は勢いを取り戻したように、柊を睨みつけ、本音を、彼女のことを語り始める。
「メイはそうやって諦めることがいいと思っている。 そうすれば、一番、メイが傷を負わずに済む」
その瞳は、確かに雫に満ち溢れていた。切れ長の瞳は透明な雫でいっぱいだった。今にも、頬を伝い、落ちていきそうなほどに、奏は感情を表にしていたのだ。
だから、柊は優しく、諭すように奏の目尻に触れる。
「そうかもしれないね。 けど、君は傷だらけだ」
拭われたそれは、外気の寒さで悴んでいた指にはとても熱く、そして甘かった。
「少なくとも、僕の経験則上、人は簡単にあきらめないものだよ。 君だって青春だって、そして僕だって」
目と目が、ぶつかり合う。
視線と視線、ただそれだけで、平行線。柊はそれ知っていながらも、何度もそれを確かめる。言葉にして確かめたがる。そうする以外、方法を知らないのだ。
しかし、薄雪奏という女の子は違っていた。
「――私は、青春のことだけが、好きだから」
泣きそうになりながら、眉をひそめて、視線を逸らしながら、彼女は言うのだ。
だから、柊は問い返さずにはいられない。
「本当に?」
奏は黙ってうなずく。そうすると、一片の小さな透明な、心のガラス片が地面でバラバラになった。
「もし本当に好きだったら、君はそんな顔をしないんじゃないかな。 そんなひどく迷った顔なんて」
「……青春のことは守らないと。 彼女が私を好きなうちは傍にいてあげないと」
「そんな義務感で人を愛せるんだね、君は」
いつからか、二人の距離は離れていた。悶えそうな苦しさと、暑さで溶けていた鎧が寒さで再び、心を覆い始めている。柊はそんな気がして、奏に向かって、悲しく、笑いかけるのだ。
「本当、嘘吐きになったね」
その笑みの投げかけに対して、奏もまた苦しそうに笑う。
「先輩は、そんな私でも好きなんですか?」
それは、柊にとっての愚問であり、奏にとっての疑問であった。
「好きだよ! 決まってるだろう!」
そう叫んだあとで、彼女は眉をひそめて俯いた。
「でも、いつもの君の方が、僕は何倍も好きなんだ」
「もう無理ですよ、いつもなんてもう変わってしまいましたから。 私、今青春の所で寝泊まりしてるんですよ? 隣にいつも彼女がいるんです、それが今の私の日常なんです」
奏もまた、柊の方を見ていなかった。その視線の先には、誰もいない。店内にいる、空澄メイの姿さえ映っていなかった。
奏は、白くなった息を吐きながら、苦笑いを浮かべる。
「それに、きっと話したって何も変わらない」
「やってみたのかい?」
「みんなこう思っているんですよ、このままがいいって。 私もそう、きっと今の時間が一番幸せなんだって」
「僕には幸せには思えないよ、それこそ僕と付き合うぐらいにね」
「……結末のわかるラブストーリーなんて悲しいだけですよ」
それはいったい誰とのことを言っているのか、柊は頬を掻きながら、言葉に迷った。何度も間違えたうえで、彼女に対する正解を答えたかったのだ。
しかし、その思考が終わるまでの時間を、奏は与えてはくれなかった。
「メイと何を話してたんですか」
「最近の世界情勢についてちょっと語り合いたかっただけだよ」
「柊さんも嘘つきですね」
「君ほどじゃないさ」
軽く息をつくように柊は笑う。奏もまた、唇を少しだけ綻ばせた。
少しだけ、空気が温かく、そう感じられた。
「君はいつもそうだよ、大切なことを隠したがる」
「わかったように言うんですね、私のこと」
「もう僕は、わかっていないことをわかっているよ。 だから、もう間違いだらけの選択肢に踊らされない。 薄雪君のようにね」
彼女はきっと踏み入れられたくないのだ。だから、少し近づくと途端に牙をむく。
「間違いだらけですって?」
「あぁ、間違っているさ。 始めから何もかもね」
眉間に皺を寄せ、視線を尖らせた奏に、柊はひるまなかった。
だから、言葉は選ばない。柊は、真っ直ぐと彼女を見つめた。
言葉を待っていた。彼女がなんと返してくるか、何をぶつけてくるのか、まだ、届いていないのか、それが知りたかったのだ。
柊の瞳は、奏に偽りを求めていなかった。
だから、彼女は目を逸らしてしまう。
「じゃあ、私はどうすればよかったんですか」
「……僕がそれを君に言ったって聞かないだろう?」
濁した質問に、わかりきった答え。終わりのない押し問答。
薄雪奏もまた、自分と同じように現実を見たくないのだ。
夢を見たいのだ。
それがわかっているからこそ、柊は視線の矛を下げない。
「メイと話したならわかりますよね、彼女は私のことをほとんど見ていない」
「そうだね、そう思うよ」
「だったら何をしたって無駄ですよ」
「無駄、ね。 何の無駄になるかが僕にはわからないよ」
無駄、と吐き捨てた彼女、薄雪奏との距離を、柊は少しずつ距離を詰める。
一歩、また一歩と少しずつ、言葉を紡ぎながら、彼女とのことを思い出しながら、それを無駄ではなかったと信じながら。
「確かに僕は、君を好きになって一度は間違った。 いや、何度も間違った。初めから勝ち目のなかった物語に思い上がりで挑んだ」
距離はとても近かった。彼女と彼女の間には、もう薄い空気しか存在していなかった。
吐息すら届く、そんな近さで柊は自身の熱を彼女にぶつける。一番伝えたいことを、その気持ちを言葉へと変換するのだ。
「でも、それを後悔していないよ。 無駄だなんて一度たりとも思ってない」
「……なんでそう言いきれるんですか」
「わからないのかい」
「わからないですよ」
「言いすぎてくどいかもしれないね、でも君がそれをわからないなら何回でも言うよ」
「君のことが好きだからだよ」
奏は大きく息をついて、諦めたように笑った。
「……先輩は馬鹿なんですね」
「馬鹿かもしれないね。 それか阿呆さ」
目の前で、少し上の目線で、微笑んで見せた彼女はとても可愛らしく見えた。柊は不意にドキリとした鼓動と悪戯めいた試みを感じた。
「だから、こうやって間違っていると知っていても踏み込みたくなる」
それは、以前の過ちであり、全ての元凶にも繋がっていた未遂の行為だった。
だけれども、今の彼女にとっては自身の気持ちの照明であったのだ。
柊が唇を押し付けた頬は逃げもせず、ただ、熱を持ちそこにあった。
少しだけ、煙草の匂いがした。
奏は目を見開いて、驚いている様子をしていた。だから、柊は照れくさくなって、後ずさり、熱くなった自身の頬を手で押さえる。今まで、こういったことをしたことなかったと言うところがあったせいだろうか、彼女は、まともに奏のことを見れなくなっていた。
「……以前、青春から自慢されてね。 どうしてもやってみたかったんだ」
初冬の冷たい空気でも、火照った体は簡単に冷めなかった。だから、柊は言い訳のようなことを口走る。
「そんなに、嫌じゃなかったですよ」
「それはよかったよ」
柊が胸をなでおろしたのも、束の間、奏は差すような口調で呟いた。
「でも、もう私達のことにもう首を突っ込まないでください」
「薄雪君もまだわかってないね。 それは無理な相談さ、僕が君のことを好きな限り、ずっとね」
「……先輩は馬鹿ですよ」
「知ってるよ」
君のことが好きだからさ、と柊は心の中で付け加える。言葉に出さなくても、きっともう彼女もわかってくれている。柊はそう確信していた。
だから、最後に一つだけ、奏に問いたのだ。
「ところで、君は空澄君と話す気はあるのかい。今、この中にいるのわかっているだろう」
「もう、話せないですよ」
口調はいたって平坦だった。本当になにもない風に見えた。だけれども、背を向けたその後ろ姿には、どこか痛々しいところがあるのも確かだった。
柊は手を伸ばして、彼女にそっと触れようとした。触れようとしたが、しかし、その手は空気の重さに邪魔されて最後まで伸びないのだ。
「行くのかい?」
「青春の所に戻らないと」
「まるで首輪だね」
「どっちが飼い主なんでしょうね」
そう悪戯めいた言葉を残して、彼女は道の先へと消えていく。
そして、柊は落とした肩を上げ直して、ため息をつくのだ。
「はぁ、聞いているんだろう。 林道?」
「………………やだなぁ、愛梨さん。 ハルって呼んでくださいっていつも言っているじゃないですか」
陰からヒョコリと顔を見せたのは、林道ハルこと柊と親しい下級生であり、奏ともメイともクラスメイトであった。
気まずそうにしている目を逸らした林道に、柊はこめかみを抑えながら尋ねた。
「空澄君は?」
「とりあえず、ハニーアップルカフェラテを頼みに行きましたよ」
「それは美味しそうだね」
「珍しいですね、ブラックしか飲まないと思ってましたよ」
「今は、少し甘みが欲しいのさ。 それと、冷たいものもね。 ……体が火照って、仕方ないんだ」
今の時期に冷たい飲み物を頼む人はどれだけいるだろうか。なんてどうでもいいことを柊は考えながら、手持無沙汰に手に息を吐きかける
林道は、空で燃えている夕焼けを眺め、目を細めていた。
「もう、冬ですね」
「……そうかもしれないね」
そうかもではない。明らかに、明確に、彼女らはそれを感じていた。
すべてを凍てつかせ、そして終わりへと導く冬の訪れはすぐそこに、迫っているのだ。
「じゃあ、戻りますか。 メイちゃん待ってますしね」
「そうだね、そうしよう。 今は、それがいい」
先を行く林道の後ろで、柊は振り返る。カフェとは真逆の道、それは薄雪奏が消えていった道だった。
夕焼けに延ばされた影が、彼女の背中で笑っていた。柊は口の中でまたね、と呟く。
そして、何事もなかったかのようにいつもの彼女で、林道の後を追うのだった。




