まだ、花蘇芳は枯れていない その6
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「結局、僕はあの二人を止められなかったか……」
一人、柊愛梨はチェーンの喫茶店で、プラスチックコップに入ったコーヒーを口に含む。その瞳には、周りの喧騒ではなく思い描く彼女らの後ろ姿が映っていた。
朝、薄雪奏と日嗣青春と話してからと言うものの、彼女の表面にはいつもの明るい笑顔ではなく、欝々しいため息ばかりが張り付いていた。
「ホットコーヒーを頼んだ方がよかったかな」
風が吹きこんでくる開けっ広げな店内では、冬になり始めた空気の中では少し辛い。特に、柊のような人を待っているような状況ではなおのことである。
柊は人を待っていた。話したことも、目を合わせたこともないそんな女の子を、手持無沙汰に待っていたのだ。そもそも、来るかどうかすらわからない待ち人を待つことは辛い。
柊は、手に息を吹きかける。
伏せた瞳に、光は映らない。手に持ったコーヒーのように、どんよりと底が見えないのだ。
「あの、柊先輩?」
そう声をかけられ、柊は顔を上げた。そして、視線を向けてくる声の主に対して、ニッコリと笑うのだ。
「まぁ、座りなよ。 いや、それよりも何か頼んでくるかい? 思ったよりこの席は冷えるからね」
しかし、彼女は首を横に振り、席に座る。どうやら長くいるつもりがないのだろう。それを感じさせる空澄メイの険しい顔つき見て、柊はいつものように笑う。
「それで、私に話ってなんですか?」
「そうだね、どこから話そうか。 君はどこから聞きたい?」
「……奏ちゃんとのことが聞きたい」
「薄雪君のことか……」
「あっ、嫌なら全然かまわないんですよ」
「嫌じゃないさ、ただ――」
ただの後に何を続けるつもりだったのだろうか。柊は、何を言っても墓穴を掘ってしまうような気分がして、言葉を詰まらせる。
自分は何を彼女に伝えたいのだろうか。それは柊自身にも見当がつかなかった。
いざ空澄を前にすると、柊は言葉を失ってしまうのだ。
そう、語るに語らない彼女の様子を見て、空澄は始めて笑顔を見せる。
「じゃあ、ハルちゃんのことでも」
「……空澄君は優しいね」
彼女の真っ直ぐな瞳。それは薄雪奏が愛し、日嗣青春が嫌う。
そして柊愛梨は、とても悲しく思うのだ。
空澄の優しさはきっと毒だ。停滞を良しとする、香しい毒なのだ。彼女が誰かに優しくするたびに、その誰かは停滞してしまう。それは良いことでもある反面、悪いことでもある。
柊は自分の笑顔に似たその優しさを思うと、酷く悲しくなる。
だけれども、その本人は少しはにかみながら、頬を掻くのだ。
「どうしたんだい」
「奏ちゃんも似たようなこと、言ってたような気がして、懐かしいなって」
「そうかい、それは嬉しいよ」
薄雪が愛した停滞を目にして、柊はやはり悲しくなる。
そして、すっかり冷えてしまったコーヒーに口をつけながら、ようやく語り始めるのだ。
「林道のことは、素直に嬉しいと思うよ」
「じゃ、じゃあ、付き合ったりとか」
「それは違うのさ。 好きの種類が違う」
そういって、柊は誤魔化しの笑みを浮かべた。茶色の水面に映るそれは、いつもと同じ笑い方だった。
少し、不安だった柊は安堵し、空澄へと向き直る。
じっと彼女を見つめていた空澄メイもまた、誤魔化しの笑顔を浮かべているようだった。
「先輩がそんな風に笑うとき、実は困っているんだってハルちゃんが言ってました」
「そうだね、少し困ってる。 でも、君の方が困っているだろう」
急に呼び出され、こんなよくわからないことに付き合わされている彼女の心境をおもうと、柊は苦笑してしまう。
そして空澄メイも少し無理したような笑みを浮かべていて、どことなく自分たちは似ているのだと感じた。
「噛み合わないね、僕たちは」
「……そう、かもしれないですね」
「僕はね、迷っているんだ。 薄雪君のことで」
「困っているってなんで」
「君は叶わないってことがわかっているのに好きでい続けるのは困らないかい?」
柊は、視線を真っ直ぐにして、空澄メイを見つめた。
好きでい続けることの難しさ、それを彼女に求めていた。
彼女がそう思ってくれてたらいいなと、柊は願っていたのだ。
「それは、すごく私もわかります。 私もそんな状況なので」
「……そうだね」
だけれども、願ったその共感をいざ目の当たりにした柊は、胸が苦しくなるのだ。
空澄メイのことを多くは知らなかったが、それでも、苦しくなってしまうのだ。
「先輩も、知っているんですね。 奏ちゃんと日嗣さんのこと。 それと、私のこと」
「そうだね、一応はね。 青春とも、林道とも仲がいいからね」
柊は頷いて見せる。仲がいいとは言ったものの、もしかしたら過去の話かもしれない。だけれども今の柊にとってはどうでもいいことだった。
過去ではない。柊がしたいのは、今、この時の話だったのだから。
ようやくたどり着いた話の始めに、柊は言葉を詰まらせないようにゆっくりと彼女に語り始める。
それは、彼女たちの関係と、それにまつわる柊の話だった。
「僕はね、僕自身はね、君に君の知らないことを教えてあげた方がいいって思っているんだ。 だけど、それを薄雪君は望んでない」
「……奏ちゃんは日嗣先輩のことが好きですもんね」
「それはどうだろうね、聞いてみないとわからない」
「でも付き合っているんですよね、二人って。 今日も、一緒に登校していたし」
「好きにもいろんな形があるんだよ、空澄君。 僕が林道を好きだと言っても付き合えないようにね」
「私には、それがわかりません。 好きじゃないのに、付き合ったって何も徳がないです。 だから、奏ちゃんは日嗣さんが好き、日嗣さんも奏ちゃんが好き。 だから、私の好きはただの好きなんです」
好きは好き、空澄メイが語ってみせたそれは残酷な言葉だ。
そして、こんな風に質問してしまう自分自身もまた、残酷なのだと柊は思った。
「……君は薄雪君のことが好きかい? 付き合いたいとは思うかい?」
「前までは好きでした。 でも今は、わからない。 嫌いかもしれない。 私は、今の奏ちゃんのことがぜんぜんわからないんです」
彼女は一度、そこで話を置き、空気を小さな肺いっぱいに吸う。
「そう思っちゃう自分が嫌なんです。 奏ちゃんも自分の気持ちのために行動しただけなのに、私が最初に好きって言っちゃったから、こんなことになっちゃったのに」
「君のせいじゃない、なんて僕は言う気はないよ」
柊がそう言うと、空澄は顔を伏せ、落ち込んだ様子を見せる。
だから慌てて、彼女はこう付け加えた。
「多分、みんな悪いんだ。 僕も含めて、ね」
「先輩も悪いんですか?」
「そうだね、空澄君と一緒だよ、そしてハルも同じさ。 自分の行動で起こってしまったと、そう負い目を感じている」
見えてきた彼女の思考を、柊は頭の中でなぞる。奏がそうしたように、空澄メイが求めている答えへと手を伸ばす。
「だから、君は一人だけ泥をかぶり、身を引きたいんだ。 薄雪君に負い目を感じているから、青春を譲ってあげたい、そう思っているんだろう?」
彼女は、黙ったままだった。唇を噛み、空になったコーヒーカップを見つめていた。
否定も肯定も、空澄メイは行わなかったのだ。否、行えなかったのかもしれない。
薄雪奏が見出し、柊愛梨も導き出した彼女が求めていると推測される答えに、彼女自身が縛られ始めているのだから。
「そうすれば、いいんですかね」
「僕はそう思わないさ、今の君の心の中を深読みしただけ。 むしろ僕はこう思うね」
空澄がゆっくりと顔を上げるのを確認してから、今度は自分の思考をなぞり始める。
見ないようにしていたこうしたいという自らの願望を目の前の少女に向けて語って見せるのだ。
「みんな悪い。 そうすればみんな傷ついていて誰か一人だけが泥をかぶる必要がない、ハッピーだ」
「私は、そんなこと」
「望んではいないんだろう。 それもみんな一緒さ。 だから一人で泣きたいんだ、だろう?」
すっかりうつむいてしまった彼女に、柊は笑いかける。
「今のは僕の願いさ。 みんな一緒に泣けばいいのにって思うね」
でも、それでは幸せは来ないのだろうとわかっていながら、それでは誰も報われないとわかっていながら、柊はそれを選びたくなってしまうのだ。
だから、メイの前まで来てしまった。そして、奏のために踏みとどまるのだ。
「君は、これからどうしたいんだい?」
「先輩はどうしたいんですか?」
繰り返される質問は、堂々巡りで、多分誰にもわからないことなのだ。
はるか未来のことも、少し先のことも、どうしていいかわからない。だから、柊の前にはただただ無味乾燥な日常だけが横たわる。
奏と過ごした日々がなくなってしまってから、ずっと彼女は求めていた。
「――だから、それを探しに今日は君を呼びだしてしまったのかもしれないね」
「先輩は、奏ちゃんと、ですよね」
「それに関しては、僕の中で整理はついているんだよ」
「でも……」
続きを言いたげにこちらを伺う空澄はどこか可愛らしくて、柊は思わずほころんでしまう。多分、こういうところを彼女は好きになったんだろうと思い、奏の気持ちに近づけたことが素直に嬉しかった。
そこに至って、そこまでたどり着いて、ようやく柊は自分の中の違和感に気が付いた。
多分、自分は空澄のことを認めたくなかったのだ。
奏に愛された彼女に嫉妬していたのだ。
心の中で、上手くいって欲しくないと、そう願っていたのだ。
それはきっと、コーヒーのように熱く、濁ったまま、底の見えない状態で柊の胸の中で渦巻いていた。だけれども、その正体がわかったとたんに、冷め、飲み干せてしまうのだ。
今度はきちんと、胸の内にしまい込めるのだ。
柊は、空澄に向かい直る。そして、その目を開き自分の気持ちを、話す覚悟をする。
必要なことだけを、彼女に伝えられるように思考を巡らせた。
「そうだね、多くは語りたくないけど、僕は君にこれだけは言っておかないといけない気がする」
空のコーヒーカップの端っこで残された液体がきらりと光る。
メイがごくりと、喉を鳴らす音が聞こえた。
「空澄君は、もう一度考える必要があるんじゃないかな。 どうしてこんなことになってしまったのか。 そして薄雪君への、青春への気持ちを、もう一度」
「考え直して、それで、どうなるんですか。 整理をつけて、先輩はどうなったんですか」
空澄メイは柊の言葉の意味を理解することはおそらくないだろう、だけど、少しでも彼女のことをわかってもらえるように、考えてもらえるように、伝えるのだ。
それでも、奏はメイに本当のことを伝えることは嫌だと思っているだろう。
それがわかっていたから、柊は精一杯で、最小限ですます。
「僕は結局、彼女が好きなままだったよ。 だからこうして、薄雪君の味方になるために頑張っているのさ」
そう言って、軽くウィンクを彼女に投げかける。そして、コーヒーカップを手に取った。
これで彼女に対してできることは終わったのだ、だから帰ろう、柊はそう思っていた。
だから、空澄が漏らした言葉と、その視線は計算違いだったのだ。
「あっ、先輩、後ろ」
少しだけ、胸が高鳴るのを彼女は感じた。
運命めいたものを感じていた。だから、柊はそれが収まるのを待ってから、ゆっくりと振り返る。
わかっていた。彼女には自身の思い人がそこにいることがわかっていた。
切れ長の目に、肩のあたりまで伸びた髪の毛。背の高い、華奢な彼女。
できれば、柊は振り返りたくなかったのだ。
何度も、何度も、彼女が好きだと思ってしまうから。忘れることが出来ないから。
そして、嫌悪感にまみれた彼女の眼を、見たくなかったからだ。
柊は、胸が締め付けられる。
薄雪奏が、そこにいた。




