まだ、花蘇芳は枯れていない その5
***
朝になって、目覚めたその場所は奏にとって見慣れない、それでも見慣れた光景であった。自分の家ではない場所、日嗣青春の家で目を覚ますことは別段、珍しいことではない。ただ、これからそれが日常になるだけの話だった。
「今日から、この場所から学校に通うのね」
「そうよ、おはようからおやすみまで、私と同じ場所に閉じこめられる」
「また暗い言い方をする」
「最高でしょ」
薄いキャミソールで寝ていた彼女は起き抜けにと煙草をくわえ、赤い火を付ける。目に少し沁みたのか細める仕草が、とてもセクシーだと奏は感心した。
そうやって彼女がジッと見つめていて居心地悪くなったせいか、青春が煙を吐き出すがてらに、こう尋ねた。
「奏は煙草、やめれたの?」
「元々、青春の気を引くための道具だったから。 その目的は十分果たせたし、たぶん、もう吸いたくならないと思う」
「それは嬉しいことね、でも本当に吸いたくならないの?」
「そうね、私には煙草は苦すぎるわ」
青春は吹き出し、けらけらと笑った。
その眼差しは嫌に優しく、そしてどこか残念がっているように見えた。
「……煙草、なんで吸っているんだっけ」
「忘れちゃったわそんなの」
そう呟く彼女に対して、奏は呆れたように肩をすくめた。前に一度聞いたことのある、彼女の理由を思い出した。
「青春は嘘ばっかり言うわ」
「嘘は本当にするために言うのよ、ううん、本当にしたいから言うのよ」
「それも嘘?」
煙草は灰皿に押し込まれ、火が消える。煙だけが宙に漂い、窓から差す光をかすかにさえぎる。その薄ら明かりの中で、青春は意味ありげに笑った。
「これは本当よ」
二人で朝ご飯を食べ、身支度を簡単に整える。そうして、学校に行く時間になり、奏がローファーに足を通していると、青春がニッコリと笑う。
「さて、じゃあ行くとしますか」
「煙草臭い女子高生って変な話よね」
「親が吸っていますで通せばいいのよ。 特に私はね」
それで通るのは目の前の青春だけだと、奏は思った。だけど、自分も特に注意されたりしないあたり、この学校は緩いのか変に寛容なのだと、そう結論付けた。
青春がゆっくりと奏の手を取る。そして扉を開けた。
久しぶりに二人で歩く通学路が、そこから始まっていた。
***
校門前に彼女は立っていた。
相変わらず、人目を引くその容姿は初めて会った時と少し変わっている。流れるような長髪は今や、肩のあたりで切りそろえられていた。奏は彼女を見る度に、胸の内に悪心が走るのを感じる。
それに耐えたくなって、少しだけ強く、青春の手のひらを握りしめると同じように握り返される。それは奏の心を解きほぐし、安定をもたらした。
校門前の彼女、柊愛梨は二人を見つけると、迷いなく駆け寄ってきた。飄々とし、人好きのする笑顔を浮かべる彼女が奏は苦手だった。
大丈夫、ちゃんと笑える。俯いた陰でこっそり唇に力を入れる。そんな奏を見て、青春はひとりごちに笑っていた。
「やあ、薄雪君に日嗣、おはよう」
「朝から楽しそうだね、愛梨は」
「久しぶりに友達と後輩の顔をみれたからね、もなんしばらく顔を見てなかったからね。こうやって出待ちしてたよ。二人揃って一緒に登校なんてね、なにがどうなってるんだろうね」
「ただちょっと爛れた日々を送ってたのよ」
「それは、羨ましい限りだ」
「かなり本音が混じることね」
青春が肩をすくめると、柊は苦笑する。
「僕がいつも嘘ばかりついているみたいに聞こえるじゃないか、ねぇ」
そして、奏の方を見て、軽くウィンクをするのだ。その気障な振る舞いが似合うのも、彼女の持ち味だろう。だけれども、奏は目を逸らし、眉をひそめた。
「……私に話を振らないでください」
「愛梨、空気が読めないところがあるわ」
「そりゃそうだよ、君に、君たちに接しているときはわざと空気を読まないことにしたからね」
柊は、冗談のように軽くそう言って見せる。だけど、ふざけて言っているわけではなく、真面目そのものだった。
その突っ込んだ物言いに奏は少し、驚く。彼女の中でのイメージとして、柊はむしろ空気を読む方だと思っていたのだ。人の機嫌を取るような言動ばかりする。だから、嫌いなのだ。
しかし、今の柊にはそこまで嫌悪感は感じなかった。本音で話す彼女がそこにいるような気がしたからだった。その雰囲気はまるで性格の悪いゆるふわボブ頭を彷彿させる。
奏がそう視線を合わせ直して彼女を眺めていると、柊は照れくさそうに笑って、頬を掻いた。
「僕もちゃんと言いたいことを言おうと思ってね」
「で、何のようなの?」
「言っただろう、君を止めるのは僕の役目かもしれないって。 だけど今日は、僕の愛しい後輩に話があるのさ」
「……また噂されるわよ」
「まさか、聞いている人もいない」
「聞き耳立てている人ならいるかも」
「それはもう大丈夫さ、きっとね」
「……で、なんの用ですか」
僕の愛しい後輩、とは奏のことだった。それがわかっていた。だから、サブいぼの立った腕を奏はそっと手で撫でる。未だに彼女が自分のことが好きだということが少し恐ろしく感じていたのだ。
「手短に、簡単に、お願いします」
「凄い嫌われようね」
「まぁ、仕方ないさ」
そうひと息置いて、彼女は奏を真っ直ぐ見つめる。その視線は何故だか彼女の胸に痛いほど突き刺さった。
「君は、これで良かったのかい?」
「これとはどういうことですか?」
「今のこの状況だよ」
「良かったんじゃないですかね、よくわからないですけど」
「そりゃね、周りの人から見たらよく見えるさ」
それは周りと言っているけれども、きっと二人しか指していない。
奏が夢を演じようとしていることを彼女は知っているのだ。
そのことの是非を解いているのだ。
「君は、これで良かったのかって僕は聞いているんだ」
だから、そのことを、青春に気づかれたくなくて、奏は業と違った方向へ話を持っていく。
「それは、先輩と付き合えばいいみたいな問答ですか?」
「その提案も僕にとって悪くない、むしろ本望だ。 もし、本当に君がそれを望んでいるのなら、何度でも告白するよ、僕は。だけど、そうは見えない」
「そりゃそうでしょうね、私、先輩のこと苦手ですし」
「……まぁ、それは、そうだね」
柊は顔がしかめる。それと同時に、校舎のチャイムが鳴った。道行く生徒たちは足早に門の中へと駆けこんでいく。
三人だけが取り残されていた。
しかし、彼女は気にせず言葉をつづけようとする。
「だから僕は――」
「これが一番良いんですよ、色んな中での最善なんです」
「その色んな中に、君がいない」
不満げに見えた。柊愛梨はずっと真っ直ぐに奏を見つめていた。その視線を遮るように青春が体を挟み込んだ。彼女の長い黒髪に紛れて、奏は胸をなでおろす。
多分、こんなに苦しい気持ちになるのは誰かに負い目を感じているからだと奏はそう感じていた。
「……愛梨、もう授業の時間だ」
「珍しいね、日嗣。 君が授業にでるつもりなのかい?」
「寝不足だからね。少し眠りにね」
「……っ、まぁ、今日はこの辺で切り上げよう。 話の中身はさすがにわかっているだろうしね」
肩越しにウインクを投げかけられ奏は奥歯を噛み締める。その言葉も彼女の言いたいこともハッキリと分かっていたからこそ、お茶を濁す。
「さぁ、まったくわからないですけどね」
「君は嘘つきになったね、薄雪」
その口ぶりは奏を責めているようにも聞こえた。だけどそれ以上に、憐れんでいるような悲しんでいるような、そんな水気を帯びた何かも混ざっているようだった。
その声色に、奏は言葉をうまく飲み込めなかった。
「……ヒイラギ先輩は、その、良い人ですね」
「そうね、とても良い人だわ」
「でも、私にとっては青春が最善だから」
「それは嬉しいことだわ。 さ、教室に向かいましょうか」
話を区切り、青春が奏の腰に手を回す。それで、二人と一人の距離は離れていくと思われた。だけれども、彼女はまだ諦めていない。
柊はその両目に秘めた炎を燃やし続けていた。
「ちょっと待って」
駆け足で近寄り、奏の腕をとる。青春から離れた彼女は目を真ん丸にして振り返る。
長い髪を波打たせる彼女は、目にかかったそれを手で払う。その瞳は、黒く底が見えない。
「学年もクラスも違うのにどこまで着いてくるつもりなの?」
「それは君にも言えることさ。 それに僕は、地の果て、海の果てまでどこまででもお供するよ」
「それはお熱いことで、でもいい加減失恋してくれないと私が困っちゃう」
「奪う気なんてさらさらないさ、ただ僕は――」
「なんで」
腕を掴まれたままの奏が話を遮ってそう呟く。
小さく、震えた声だったけれど、悲痛にまみれたそれは二人の耳に突き刺さった。
青春と柊は、恐る恐る奏を見返した。俯いた彼女の髪から覗かれるその目は、誰かにとてもそっくりなのだ。
底の見えない黒く、深い瞳。切れ長の形と長い睫が閉じると、きらりと光る感情が一粒だけ流れ落ちる。
奏は体を震わせ、そして柊が掴んでいた腕を振り払う。
「なんでそんなに私にこだわるの!」
久しぶりに見た彼女の本当の感情だと、柊は思った。
そして苦悩に満ちた言葉だった。
「わからないよ、柊先輩も。 私のどこにそんなこだわるの」
奏は二人も顔を一瞥して言葉を続ける。荒げ、大きい声だったが、周りに人はいなかった。だからやけに静かで、耳の中で反芻する。
「顔? それとも中身? 教えてよ、私、そんなに大した人じゃないのに」
「私は奏の全部が好き」
青春が迷いなくそう答え、奏の手を握った。指と指を絡めて、包み込む。
その様子を見て、柊も答えようとする。だけれども、喉の辺りでつっかえて言葉が出てこない。
柊にとって何度も考えたことだった。何度も諦めようとしたことだった。だから自分なりの返答があったはずだった。
「……僕は」
だけれども、言葉が出ないのだ。その理由は恐れか、恥ずかしさか、なんでもよかった。ただ答えられない、その一点のみが柊の肩の上に重くのしかかる。
奏が避難がましい目で彼女を責め上げる。
「答えられないんですか? 形がわからないものを先輩は好きなんですか?」
「それは……」
「奏、もう行かないかしら、たぶん、これ以上はもう進まない」
青春が背を向ける。長い髪がそれに合わせて揺れ、黒々としたカーテンが引かれる。
「愛梨、また日を改めましょう」
ふと、柊の頭の中には林道の顔が思い浮かんだ。彼女の、切羽詰まった顔で告白をして来た時のことが思い浮かんだ。
……こんなにも重いことなんだね、告白ってさ。好きな人に、思いを伝えることってさ。
一度は伝えたことのはずなのに、どうして今、こんなにも辛いのだろう。そう柊は自身に問う。その答えを彼女は知っていたにも関わらず、問わずにはいられないのだ。
「僕はきっと!」
門をくぐった二人に届くように、大きな声で柊は叫んだ。そして一歩、また一歩と踏み出し、近づいていく。
辛いのは答えを知っているからだ。自分の気持ちじゃ、彼女を変えられないことを知ってるからだ。
柊字は奏の背中まで追いついて息を整えた。
冷たい冬の風がびゅうびゅうと吹いていた。
だけれども柊に問って胸が熱くなって仕方なかったのだ。
だから、彼女にきちんと伝える。きちんと宣言する。
僕は君が好きなのだと、伝えなくてはいけないのだ。
「わからない君だから好きだった」
柊はそう宣言しても、奏は振り返らなかった。首まで伸びた髪の向こう側で、どんな表情で聞いていたのか、わからなかった。
しかし、柊はそれでいいと思う。
彼女たちは立ち止まり、次の言葉を待った。柊も青春も、何も話さなかった。
奏が話すまで、待つつもりなのだ。
二度目のチャイムが鳴り、授業の時間までがいよいよ怪しくなる。
そこでようやく、奏が首を横に振った。
そして小さな声でこうつぶやくのだ。
「……なにそれ、わからないよ」




