まだ、花蘇芳は枯れていない その2
結局、ここに戻ってきてしまうのは私の運命なのだろうなと、奏は思う。彼女と最初にあった場所。そして、キスをした場所。なんとなくであったが、奏は彼女が変わらず、ここにいると思っていた。日嗣青春なら、ニヒルに、気取って煙草でも吸っているだろうと、思っていたのだ。
確かに、彼女はそこにいた。だけれども、奏の想像とはかけ離れている姿を晒していた。
なぜなら、日嗣青春は校舎裏の隅っこの方で、子供のように膝を抱えてうずくまっているのだ。外の空気はもうすでに澄んでいて、冷たさとともに、紫色が空に差し掛かっているというのに――吐く息は白く、寒さが体を襲ってくるというのに、彼女は、自分と別れた場所から一歩も動かず、まるで何かを待っているようにそこに打ちひしがれていた。
その姿は奏を憂鬱な気分にさせる。それどころか、おめおめと顔を出すには、どこか気まずい気持ちまでもして、奏は彼女から見えないもの陰で立ちすくんでしまう。
止まってみて、奏はもうそこまで冬が来ているのだと体で理解した。手を吐息で暖めても、スカートの下から、頬から、心から、芯まで凍えてしまいそうな、そんな風が吹いているからだ。彼女は、あの教室から、この場所を覗いているだろうか、と奏の片隅にそんな考えが浮かぶ。それを考えると、途端に胸の内がズキズキと痛み始める。かき消すために、打ち消すために、奏は首を横に振った。そして、決意するかのように一歩を踏み出す。
少し近づいたぐらいでは青春は奏に気づかなかった。漆黒で、流麗で、夜の闇に溶けてしまいそうな彼女の髪の毛が、何かに照らされて、鈍く、光を放つ。その陰には、小さく縮こまっていた日嗣青春が、今にも消えてしまいそうな儚さをただよわせながら、確かに存在しているのだ。酷く弱ってしまった彼女は、口から生命のような白い息を吐き、ガタガタと体を身震いさせていた。すっかり暮れてしまった夜には、初冬の色が映っていた。
奏は彼女を見る度に、囁かれる度に、青春は自分のどこがそんなに好きなんだろうと疑問に思う。
見た目がが良かったから? 背が高かったから?メイのことが好きだったから? 浮かび上がる理由に次々と罰印をつけていっても、正解は奏の中には存在しない。きっとメイから見た自分もそうなのだろうと、奏は思っていた。
誰かを好きな理由なんて、本人以外、誰も知り得ないのだ。
そのことに気づく度に、奏は胸の奥がキシキシと痛む思いに駆られるのだ。
校舎裏は文字どおり校舎の裏であり、風向きによれば、それを遮るものはない。夏の間はまだ良かったが、冬は辛くなる。揺れる髪の毛を手で押さえながら、奏はそう感じていた。この時期の風は、心の中でたぎっていた熱を、容赦なく奪っていく。
その冷たい風にさらされる度に、日嗣青春へと一歩近づく度に、奏は自分が芯から凍てついていく気がしていた。
そこにはメイに捨てられた自分がいた。メイから離れてしまった自分と、同じものがいた。まるで鏡を眺めているようだと奏は思った。姿形ではなく、こころが、在り方が似ていると、感じていたのだ。
そうやって、牛歩のように遅い進みも終わりを迎える。彼女に触れることのできる位置まで、奏は来ていたのだ。それは、単なる接触ではなく、心へと触れることでもあった。彼女、薄雪奏は日嗣青春という人間をようやく理解し始めたんだと思い始めていた。
強気で、強引で、自身の好きなように振る舞っていたのは、気づかれないためだと、奏は思う。今のように、打ちひしがれている、可憐で弱く、傷だらけの自分を隠すためだったと、そう、強く思うのだ。
だから、初めて素顔の彼女をみて、奏はどう声をかけるべきなのかがわかっていなかった。考えていたつもりだった。しかし、視線は、脳は、彼女の表情に、強く惹かれていて答えをだせないままなのだ。
それでも、奏は声をかけてしまう。それくらい、今の青春は彼女にとって放っておけない存在に思えたのだ。
「……いつまで、そうしているの」
そう声をかけると、青春がびくりと体を震わせて顔を上げる。溶けてしまった闇の中から、白く、そして赤くなった心が、こちらに姿を表す。
彼女は、泣いていた。まるで子供のように、とても弱々しく、瞳に涙を浮かべていた。
ズキズキと心が痛む。思わず奏までも泣きたくなっていた。どうして、こんなにか弱く見えてしまうのだと、奏は息を吐き出して、顔の位置をあわせるために、ゆっくりとしゃがんみこむ。
真っ黒の瞳は濡れていて、とても綺麗だと奏は感じた。
近付けば近づくほど、奏の目には青春が自分のあったかもしれない姿に見えていた。もし、立場が違っていたならば、そこにいたのは奏だった。自暴自棄に叫び、泣いたのは自分一人だけだった。
見つめあって、風が吹いて、木の葉がさやさやと囁いても、青春はなにも語らなかった。自分が現れたことにとても驚いていて、開いた口がふさがらない、といった様にも見えた。
だから、奏が煙草の箱から一本を取り出し、火をつけてみせると、青春は正気を取り戻したように口を開く。
「……どう、して」
嗚咽とすする音が混ざって、さらに弱々しさを強くさせる。奏は、偽物か本物か、自身でもわからない微笑みを浮かべて青春の頭を撫でる。
「そんなの決まっているじゃない」
「でも、奏はわたしのこと、もう……」
その後に続いたのは、嫌いという言葉だろうか。そう奏は心の中で笑った。嫌いだとか、好きだとか、奏にはもう、関係なかった。なぜなら、彼女はもう、自分に定められた役回りをこなす以外、決めていなかったからだ。だけれども、酷く感傷的な気分だった。
青春を目の前にして、彼女の思う通りに嫌悪が浮かび上がると、そう奏が思っていたにも関わらず、胸中は違っていたのだ。それは、ようやく決意を固めたおかげか、彼女を自分に重ねてしまったせいか不明瞭であった。それでも、奏は今言うべき言葉を知っていた。今、すべきことを知っていた。
彼女の冷えた体へと手を伸ばし、そっと近づける。
風にさらされ、乾いた唇を潤わすように、要らない言葉を同じ器官で塞ぐ。彼女の体温と感情が、ゆっくりと、奏へと伝わってくる。
それは、初めてのキスのように煙草の味がした。
ただ、唇を合わしているだけなのに、人はそれをとても尊い行為のように語る。
きっと自分の好きな人も、顔を赤らめてしまう。奏は溢れてしまいそうになる切なさを必死でふさいだ。彼女の唇で、要らないことを言ってしまうそうな口に栓をした。
泣きたいのは自分なのに、ふさぎ込みたいのは同じなのに、どうして彼女だけが涙を流しているのだ。奏は自分の心が氷のように冷たく、そして重くなってしまったのではないかと感じた。
いやに頭は冷めていて、それに反するように彼女の涙は暖かった。
奏は頭の中で、メイの考える夢の世界を思い描く。きっと今、必要なのは日嗣青春の救済だと思っていたからだ。
自分がずっとメイに言われたかったこと。
青春が自分に求めている言葉。
誰もが求め、伝えたい言葉。
たったの二文字なのに、それはとても重い。
きっとキスよりも、ずっと重い。
唇を離すと、溜まっていた誰かの涙が、地面に吸い込まれていった。
「決まっているじゃない、好き、だからよ」
そんな重い嘘を吐いてしまう自分を、とても気持ち悪く、奏は感じていた。




