まだ、花蘇芳は枯れていない
喧嘩、行き違い、いろいろな言葉はあるけれども、それはあまり当てはまらない。恋人、偽物、いろいろな言葉があるけれども、自分たちの関係を一番表しているのは「取引」だと、奏は思っていた。自分が好きにされる代わりに、メイには一切の手出しをしない。それが暗黙のルールだと思っていた。しかし、どうにもそう捉えていたのは奏だけなのである。
つまり、彼女は、日嗣青春は違っていたのだ。奏はそのことを今し方思い知らされた。彼女も自分と同じで、恋をしているのだと気づいてしまったのだ。それも、奏へと気持ちを寄せているのを明確に、それも完全に自覚してしまったのだ。
確かに青春が自分を気に入っているのは分かっていたことであった。しかし、それが恋やそのようなものまでに発展しているとは思わなかったのだ。奏は戸惑いを覚えていた。柊愛梨にしても、日嗣青春にしても、どうして自分を選ぶのだとそう問いたかった。それは、彼女の前でそういった怒りへと変わったし、彼女の前では拒絶になった。
望んでいない相手から恋など、ただ重いだけだと、そう思うけれども、それは奏自身にもブーメランのように跳ね返ってくる。きっと、メイが自分の気持ちを知ったとき、重く、気持ち悪く、思ってしまうのだろうと、奏はため息をついた。
林道と柊との、お互いの理解が終わって、それから日嗣青春と口論になって、一人きりになった奏は、もう、帰ってしまおうと、校舎への扉をくぐる。陽射しが入り込んでくる夕焼け色の階段。切れかけて音を出している蛍光灯の下を潜り抜ける度に、早く帰りたいと思う気持ちは奏の胸の中で依然大きくなる。しかしそれと同時に、残してきた青春の寂しそうな顔が彼女の脳裏から離れなかった。
どうしたものかと思いながらも、奏はいつの間にか教室の前へとたどり着く。誰もいないことはわかっていながらも、誰かいないものかと奏は聞き耳を立てるが、やはり、喋り声どころか物音一つ、返ってこなかった。
ドアを引き、入り込んだ無人の教室は、ここにはいないもう一人のことを奏に思い出させる。いつ頃までか、この場所でメイと時間をつぶしながら話していた。その遠いような近い過去が奏を蝕むのだ。
きっとあの時期、隣に彼女がいなかったら私は潰れていただろうと、奏は一人ごちに笑う。そして机の上に座り、メイがしていたように空を眺めた。
まるで世界の中心を見ているかのような純な瞳。あのときはそう感じたが、今はその表現が間違っていることが奏にはわかっていた。奏は思う。きっと世界の中心を見ていたのは私なのだと。メイが世界の中心を見ているのではなく、メイの瞳の中に私がそれを感じたのだ。
人に恋を抱いて、奏はようやく恋を理解した。その理解が十分の一でも、百分の一でも、ようやくそのよくわからない幻想のしっぽを捕らえたのだ。好きな人というものは世界そのものに成り代わってしまうのだ。すべての行動原理が自分ではなく、相手になる。相手を喜ばせたい。幸せになってほしい。迷惑をかけたくない。どうしようもなく、相手のことを考えてしまう。
奏はずっと、ずっとメイのことを考えていた。彼女の、笑顔について考えていた。どうやったら泣かさずにすむのか、その回避策を考えていた。が、どうやっても袋小路なのは目に見えていた。
奏とメイと、そして青春との関係性はとても歪んでいて、絡み合っていた。もうほどきようもないほど、心の中心にまとわりついていた。青春が、メイに対してなにをしでかすかわからない以上、奏に現状維持以外の選択肢はない。きっと、彼女が関係を終わらせようと、メイはずっと健気に好きでい続ける。あのどうしようもない女に憧れを抱き続ける。
奏はきっとそうに違いないと考えていた。だから、どうしようもなかった。
ふと、メイの机に目を落とす。すると、そこには未だに通学鞄がぶら下がっていることに奏は気づいた。
あぁ、そうか、あの時青春が言っていたもう一人とは、メイのことだったんだ。奏はそう天を仰ぐ。
そして、戻ってこないうちに早く帰ってしまおうと、そう思った。自分の鞄を持って足早に教室から出ていこうと、奏はドアに手をかける。
カラカラと乾いた音を立ててそれは開いた。
すると、そこに空白は無く、夕焼けと、それに照らされてキラキラと光る埃と、そして彼女がそこにいた。強い目をした、小さな女の子が、奏の顔を強く睨んでいた。
いつも通り左に編み込んだ前髪に、少し大きくてぶかついている制服、代わり映えのしない奏の理想の女の子。会いたくて仕方がないけれども、絶対に会いたくはない、そんな奏の思いを寄せる相手。
奏は思わず下唇を噛んだ。夢か幻であればいいと思った。そう念じて、艶やかな黒髪のてっぺんを見つめたところで、奏の前から、空澄メイは消えない。それどころか、こちらに向かって、しゃべり始めてしまう。
開いてしまいそうな心に、重石を乗せるように奏は眉間に力を入れる。
早く帰ってしまおう、そう奏は誓うのだ。
「奏ちゃん・・・・・・」
「め――――空澄、私、帰るからそこどいて」
喉が震え、声は小さい。それでも奏の声は届いているはずだった。目を合わせないように、視線を逸らしながら、そうやって必死に感情を抑えながら振り絞った声は、彼女に聞こえていたはずだった。
だけれども、メイはその場から動かなかった。それどころか、短い華奢な腕を伸ばし、奏を通らせないようにしたのだ。
「奏ちゃん、ずっと話したかったのに、どうして?」
「私は話したくなかったよ、空澄となんか」
「先輩、泣いていたよ?」
「見てたんだ、じゃあ、慰めに行けばいいじゃない、彼女、なんでしょ」
「それは、奏ちゃんもでしょ」
「私は違うよ、ただの口約束だったもん」
「それでも! それでも、先輩が好きなのは、奏ちゃんなんでしょ!?」
メイはぐっと強く、奏への視線を強くさせた。声を荒げ、必死に訴える彼女は、奏の今までの中にはいなかった。その姿をみて、奏は胸が締め付けられる思いに駆られる。
「そんなの、私には関係ないよ」
「関係あるよ!」
「関係ないって」
「少なくとも、私には関係ある。 だって――」
「先輩のことが好きだから、でしょ? 空澄のその気持ちも私には関係ない」
「…………私だってバカじゃないんだよ?」
「それってどういうこと」
「奏ちゃんがどういう気持ちで先輩に近づいたか、わかってるつもり」
その言葉に、奏は泣きたくなった。こんなやりとりも、話し合いも、不毛に思えた。そして、目の前のメイがとても、残酷に思えた。
そしてまた、メイもまた、瞳に涙を浮かべていた。きらきらと光ったそのまなざしが、胸をさらに締め付ける。
「……だったら」
向き合って、とても近い距離で、奏は思う。これは罰だと、誰かを思う気持ちで、違う誰かに向き合った私への罰だと。奏は拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んでも、体の痛みなど痛みではなかった。
もし、自分がメイを好きだと言うことが、だからこそ青春と一緒にいることが、それがすべて分かった上で、こうして語りかけているのだとしたら、そう思うと、奏は泣きたい気持ちでいっぱいになる。
もしそうだとしても、きっとメイは青春のことが好きなのだろうから。だから、とても、奏は泣きたくなるのだ。
「だったら、どうしてそんなことを言うの」
「ライバル、だから」
その言葉は、奏のもしかしてを裏切る言葉である。そして、それ以上に傷つける言葉だった。もしかしてがマシに思えるぐらい、奏にとって、悲しい言葉だった。
「そんなんじゃ、ないよ」
「奏ちゃんは、先輩のこと、好きだよね」
「好きじゃない」
「初めは違ったかもしれない、でも、きっと今はそう」
「初めは違うって、今も違うに決まってる!」
強い言葉で否定しても、メイは一度考えたことを曲げたりしない。夢を見たまま奏へと話し続けるのだ。奏はそれが分かっていて、その上で首を横に振る。そして、それに対しても、彼女は夢を押しつけるのだ。
「ううん、奏ちゃんのこと、見てたら分かるよ」
「何にも分かってない、メイは!」
「私が傷つくから、だよね?」
限りなく核心に遠いのに、限りなく核心に近かった。ただ、それが平行していてどこに行っても交わらないことをのぞけば、もう、正解と言ってもよかった。奏は、メイの言葉に、熱い感情が頬を伝うのを感じた。
「初めに先輩が好きって言ったのは私、だから、私の前で好きって言えなかった。 気後れしちゃった、気まずくなっちゃった」
そう、彼女の目の前で、メイはまるで夢を見ているかのように語る。語り始める。ありもしない話を、まるでそれが真実かのように。それは誰も傷つかない、いや、正確に言えば、メイだけが傷つくような、そんな先が待っている世界だった。
「奏ちゃんは私と先輩をくっつけようと、もしくは私が泣かないようにしようと、先輩のところに行ったんだけど、先輩はそんな奏ちゃんのことが好きになってしまう。そして奏ちゃんも、また」
教室にはメイの声だけが響く。奏は、何も言えなかった。
「そうやってくっついたは良いけれど、さてここで、初めに好きと行っていた私にたいしてはとても辛くなってしまう。 全部はなしてしまえば、私は泣いてしまう。だから、奏ちゃんは私と距離をとった」
耳をふさぐこともできず、ただただそれを聞くしかない奏は彼女を直視できなかった。
「正直、私はそのときの奏ちゃんが羨ましくて仕方なかった。ハルちゃんに教えてもらったとき、とても、悲しくなった。 それでも、それでも私は先輩が好きだった。 だから、、玉砕覚悟で、この恋を終わらせようと、思いを伝えてみた。 そしたらさ、こんなことになっちゃったんだよ。 私も気まずく思った、なにかハルちゃんとも先輩は仲良さげだし、それについても悲しくなったんだ」
床には、水滴が落ちていく。メイの声から、涙がこぼれているのだ。奏はそれに流されてはいけないと眉にしわを寄せて、必死に堪え忍ぶ。
「でも違ったよ、先輩はやっぱり優しい先輩だった。 奏ちゃんに対してもそうだよ。 優しくしてくれないのは、私にだけ。 こんなのってないよね」
教室には彼女の声が響く。そして時を刻む短針がそれを追いかけるようにして、奏を笑うようにチクタクと音を立てた。どこかで、カラスが汚い声で鳴いていた。
「でもね、奏ちゃんの気を引くために私を使ったっては分かるけど、このまま終わっちゃうのも寂しいから。 私は奏ちゃんに対して威信表明しようと思ったんだ。 奪いに行くって。 先輩を私のものにしちゃおうって」
彼女は、震えていた。床に水滴を重ねながら、声に色を重ねながら――
「けど、きっとそれはできないんだ。 奏ちゃんと要るときの先輩、とても楽しそうで、感情がころころ変わってて、全然私の前とは違う、自然体で・・・・・・」
メイの声色に辛さが混じり、そしてその勢いは強まる。
「だから、奏ちゃん、今すぐ先輩のところに行ってよ。 私のことなんてどうでもいいから。 先輩を救ってあげてよ!」
願いが混じった彼女の声は、奏の胸にひどく突き刺さった。突き刺さって、そうして、メイの夢物語は終わり、沈黙が二人を包み込んだ。彼女はそれ以上話そうとしなかったし、奏も何も言えなかった。
しかし、顔を合わせずにとも、奏はメイが自分の言葉を待っているのだとわかっていた。彼女からの視線が痛く感じた。だから、全部正直に話そうと、そう奏は思うのだ。それでも、すべてを伝えることは自分がメイのことを思って、メイのことが好きで今に至るようなことをした、その事実抜きでは語らず、その事実こそが奏の、メイに対する告白そのものに違いないのだ。だから、奏はためらってしまう。
何秒も何秒も考えても、依然、奏の口は重かった。何も言えなかった。そうやって自分の中で踏ん切りがつかなくとも。メイは何も話そうとしなかった。奏は自分が黙っていることが肯定であるとメイに捉えられてしまうのでは思い、そこで、ようやく口を開くきっかけになるのだ。
「・・・・・・全部、メイの妄想で、違う」
ようやく奏が発したその言葉は、とても震えていて、一瞬のうちに泡となって消えていったような、そんな感覚であった。
「違うのに、どうして」
涙を光らして、夢物語を描く彼女を壊してはいけない。奏はそう思った。思ってはいたが、このままではいけないと理性が警告のように脳内で弾ける。
このままでいては、永遠に平行線で、メイと自分は交われなくなってしまうと、奏はそう思っていたのだ。だけれども――
「奏ちゃんが辛いのも分かるけど、きっと先輩を今、救えるのは奏ちゃんしかいない。 それは私じゃないんだよ。 ハルちゃんにとっての柊先輩みたいに」
メイの言葉が、奏にだけ現実を押しつける。結局のところ、メイが見ているのは青春だけで、自分のことなどどうでもいいのだと、彼女はそう思っているのだと奏は唇をかみしめる。
「私に、それを、押しつけないでよ」
「押しつけてなんかないよ、これは、ただのお願い。私のわがまま。 今のままの私じゃ、先輩を助けられないから、だから奏ちゃんに……」
どうしてメイが泣いているのだ。どうして、自分が加害者のように感じてしまうのだ。とても相手のことが好きなのに、どうしてこんなに残酷なのだ。奏は胸を締め付けられるような感覚だった。そして、泣きたいのはこちらの方だと、そう言うつもりだった。それでも、奏のメイを思う気持ちは、感情は、自分の夢を壊していく。
「そんな顔でお願いされたら、断れないじゃん。 卑怯だよ、ずるいよ」
「今回は譲ってあげるから! 早く行って仲直りして!」
始めからわかっていた。忘れていたのは奏の方であった。始めから、あのキスをしたときから、自分はもう戻れないのだ。あの夜をなかったことにできないのだ。奏はメイを守りたい気持ちで青春に近づいた。その気持ちは今も変わっていない。もう、メイが傷つかないメイのための夢物語を作ることはできないけれども、メイの考えるきっと、傷が最小限ですむような、そんな世界を演じることはできる。
奏は、そう、拳を握りしめた。
「……メイ」
「やっと、下の名前で呼んでくれたね」
メイが感じる傷が浅くなるならそうしよう。メイが青春を泣かせたくないのならそうしよう。きっと大丈夫だ、メイにはもう、私以外にも頼れる人がいる。だから、自分は、青春とともに彼女の前から消えるのだ。
奏は、息を吐いて、そして目尻にたまった夢を惜しむ気持ちを拭い、再びメイへと向かい直る。
「もう、メイに青春はあげないよ、私のものにするから、絶対にあげない」
「そんなことさせない、奪ってみせる」
奏はそう朗らかに見せた。その様子に、メイもまた嬉しそうに笑う。そんな彼女が愛らしくて、憎らしくて、奏は少しだけ本音を混ぜるのだ。
「だから、早く諦めて、深く傷つく前に、違うちゃんとした人に恋してよ」
メイはその言葉に、にっこりと、元気いっぱいに、唇をツリアゲた。そして首を振ってみせると、宙に少しだけ雨が降る。
「私の恋だから、ちゃんと私が最後までやるよ、それは奏ちゃんのよけいなお世話」
目を閉じて、少し考えて、奏はメイの横を通り抜ける。名残惜しいとは思ってはいたが、これ以上いたら、自分の決心が揺らいでしまう、そう思うと、奏の足はシゼンと足早になる。
「じゃあね、メイ。 ううん、空澄さん」
「…………ばいばい、奏ちゃん」
決して振り返らなかった。もし振り返って、メイと目があってしまったら、奏は泣いてしまう自分がいることに気づいていた。




