私達は夢の中で溺れている その終
彼女は、いつも通りの彼女であった。何事もなかったかのように、何もしてこなかったように、平然と玄関に立っていた。青春にはそれが気持ち悪くて、もし、彼女が自分の姿を見て、ごめんね、なんてことを笑って謝ってくれたなら、受け止めることもできたかもしれない。けれども、そんな現実は存在せず、ただ彼女は朝早く起きている青春を見て、何の弁解もせず、少しだけ驚いたような表情を浮かべるだけだった。
「どうしたの、青春ちゃん。 もしかしてお姉さんが恋しくて眠れなかった?」
茶目っ気と笑顔と、底抜けに明るい声が青春の耳の奥で弾ける。すぐ横を通り抜け、ベランダへと出た彼女は煙草を一本取りだして口でくわえる。嗅いだことのない石鹸の香りが、いやに漂ってきて、青春のものではない彼女の温度が部屋へと染み出していた。
「……もしかして、煙草吸った?」
眉をひそめ、咎めるように見つめてくる彼女は、何も知らなければ、いつもの彼女であっただろう。明るくて、風のように心の中に入り込んでくる、少し夢見がちな年上の女の人、そうにしか映らなかったであろう。しかし、青春はそんな彼女の態度が気に食わなかった。
「……そんなことより、夜、何してたの?」
火蓋を落としてみせるのは、いつも青春からで、彼女は自分のことを話そうとしない。はぐらかされて、良いようにからかわれて、それでいつの間にか話しは終わっている。そのくせ、自分の心の中にはどんどんと深入りしていこようとするのだ。それはある種、青春にとって新鮮な感覚であったが、今日、この瞬間だけはそれが許せなかった。
だけれども、彼女はいつものように、青春のことへと話をシフトさせていって、夕飯の約束まで破って強行した自らのプライベートに関して、何も話そうとしないように青春には見えた。
だから、昨日の夜について聞き返すも、彼女が話すのは青春の憧れへの咎めだけである。
「そんなことって! 未成年が煙草を吸っていいと思っているの!? 自分の体のことちゃんと考えているの?」
「……私のことはどうでもいいよ、煙草を吸っていたって、なんだって関係ないじゃん!」
「関係あるよ! 今の私は青春ちゃんの保護者みたいなものなんだから!」
「本当の私の保護者だったら、私に何も言わないよ。そんな風に興味持ってくれない……」
「そんなこと、ないよ」
彼女の持っていた煙草がぽとりと地面に落ちた。風に吹かれてコロコロと転がっていくそれは、青春の足下で止まる。彼女はとても真剣な表情で、それでも、青春はもう、聞き返すことしかできなかった。
お互いの一方通行に見えた口論は、そこで終わる。彼女は困惑していたし、青春もまた、戸惑いを覚えていた。
「どうしてそんなこと言えるの?」
思い返せば、いつも彼女が両親の肩を持っていることに青春は気づいていた。それを、青春は彼女が持つ夢見がちなところや、自分との価値観の違いだと思っていた。いや、思っていたかったのだ。何の関係性もないと、彼女と自分の両親や、自分について何の繋がりのない赤の他人だと思っていたかった。赤の他人に優しくされたからこそ、それは輝くと、青春は思っており、打算や何か違うもののための優しさは吐き気がするほど嫌いであった。
彼女と目があっても、考えていることなんて想像もできない。だから、青春は言葉をただ静かに待つしかできない。その時間は、死刑宣告を待つ囚人のような気分であり、答え合わせを待つ子供のような気分だろうか。止まってしまった二人の間は、温度差の違う二人の間は、幾ばくかの距離であるのに、とても遠い。
ベランダから風が吹くと、誰かの黒髪が宙で儚く舞う。彼女のたれ目が、大きく黒い瞳がずっと青春を映している。唇は開く。そして喉が震え、言葉を生み出すのだ。他人の意志も、気持ちも、願いも関係せず、生み出されていくのだ。
「どうしてって、今日だって、あなたのお父さんは……」
「今日? お父さん?」
青春の目は見開かれ、口はまるで穴があいたようにふさがらなかった。そして言葉の意味を理解したとき、それは嫌悪と失望へと変換される。
久しく顔を見ていないたった一人の肉親、血を通わせている片割れ、自分自身に興味のない近い他人。その名前がこのタイミングで現れるのは、青春にとって、とても汚らわしく、言の葉とともに心に嵐をもたらす。激しく吹き荒れる風は、怒りでも悲しみでもないただ辛いだけの感情を胸の内に一杯にさせ、溢れさせるのだ。
「……そっか、私の父とホテル、行ってたんだ! だから、そうやって味方するんだ!」
「……どうしてそれを」
「どうしてもこうしても、見ちゃったんだからしょうがないじゃん! 見なかったら――見なかったらこんな気持ちにならずにも済んだのに」
涙が一つ、床に落ちた。それを追うようにもう一つ、滑り落ちていったが手で覆われて濡れるのみであった。
「ごめんね、ごめんね」
そう繰り返して泣いてみせる彼女を、青春は涙を拭いもせずただ見つめていた。前も、こんなことがあった。前も、あんな風に泣いていた。それを思い返した青春は無性に苛立ってきて、激しく罵りたい気持ちになっていた。
「私のお守りだって、父から頼まれたんでしょ? それとも、新しい母役の練習? 私に慣れておいてほしいの?」
「そんなこと……」
「そうだよね、私と仲良くしてたら離婚した後もスムーズにいくよね」
「そんなこと――」
「微塵も考えたことないなんて言える? 不倫相手の子供と一緒に生活しておいてそんな夢を見たことないなんて言えるの?」
その問いに、彼女はただ黙っているだけだった。それはそうだと青春は思う。
夢を見たことないなんてどんな人も言えない。そのことは青春はよくわかっていた。ありもしない理想を求めなかったことなんてなかった。今、目の前にいる彼女に対してもそれを求めていたから、だからこそ、今がとても辛かったのだ。
「ほら、考えたことあるんじゃん。 もういいよ、もう何でも」
「どうやったら、許してくれる?」
そう涙を流しながら言った彼女の髪や服はいつの間にか乱れていた。好きだという感情と気持ち悪いと感じる心が青春の中ではごちゃ混ぜになって、もうどちらが強いのか自身にも分からなかった。好きだというのに、触れたいと思っていたのに、今はもうわからない。そのわからなさは青春をさらに混乱させて、瞳の色を濁らせていく。どうすれば彼女と上手くいくのか、そんなありもしない夢ばかりが頭の中に浮かんでいた。
だから、そのごちゃ混ぜになった思いは、目的も夢も置き去りにしたまま突風のように青春を動かす。
「じゃあ、抱かれてよ。 父に抱かれて帰ってきたんでしょ? じゃあ、私に抱かれたっていいよね?」
そう言って、彼女の肩に手を置いた。ゆっくりと顔を近づける。彼女の髪からはいつもとは違う香りがしていた。それは裏切りのような気がして、さらに心に火を点ける。
「私、あなたのことが好きだったんだよ、初めて人に優しくしてもらえて、心を許せて、それで、この人と愛し合えたらどんなに幸せだろうか、って思ってた」
彼女の体は軽く、簡単に押し倒せた。自分の髪が彼女の髪にかかる。困っていて、そして戸惑っているような彼女の表情が胸に刺さっていた。それでも、今の青春には続ける以外の選択肢しかなかった。
そっと手を彼女の体に添わしていく。性別は一緒だと言うのに、とても柔らかく、そして暖かかった。自分の息づかいと彼女の呼吸が混ざっていく。じっとりと体が濡れていくのがわかって、青春は耳元で囁くのだ。
「だから、いいよね?」
拒んでほしいのか、そうじゃないのか。父と同じことをして気が晴れるのか、そうすれば、彼女をつなぎ止められるのか。どうすればいいのか、青春にもわからなくて、自身の体を彼女に預けて、預けられて、心を――
――通わせることができたなら
全てを伝えても、全て返ってくることなど少ない。それどころか、返ってこないことだって多い。それでも、汚い心まで伝えて、それで返ってきたならば、それで、受け入れてもらえたならばそれ以上幸せなんてことないだろう。気持ち悪いと感じるそれも、全て伝えてしまったら。
青春には彼女しかいない。柊のことをいい人だと思っているが、それは友達としてである。肉親も捨て、捨てられた。だから、彼女しかいないのだ。心の底まで晒してしまいたいのは彼女しかいないのだ。
自らの服を脱ぎ、彼女の体に覆い被さる。そしてありのままの自分のまま、カノジョに自らの悪心をぶつけるのだ。
「母から親権なんていくらでも奪えるだろうしね、未来の子供に抱かれるってどんな気分なんだろうね」
彼女は目をつぶっていた。閉じた隙間から、涙がこぼれていた。体は震え、息を止めているようにも見えた。そうやって、ただ、我慢しているかのような彼女が動き出すのも時間の問題だった。
「…………やめてよ!」
青春の体は上体へと起こされ、そして彼女から引きはがされる。髪が舞って、泣いている彼女がそこにはいた。
それは明確な拒絶で、そして青春への嫌悪であった。
「こんなのだめだよ、青春ちゃん」
「なんで、だめなの」
「なんででも、どうしても」
いつの間にか泣いている人間は変わっていて、青春は口をへの時に曲げて、ぎゅっと嗚咽をかみ殺す。そして、息を飲んで、彼女へと問うのだ。
「私じゃ、だめなの?」
それを聞いた彼女は、少しだけうなずいて、それから首を横に振る。含みを持たせるように、泣いている青春をあやすように。
「……もし、もっと早く、別の形で出会っていたらダメじゃなかったかもしれない」
「そんなこと言うの、ずるいよ!」
青春は叫んでいた。彼女がひたすら恨めしかった。
そうやって希望を、夢を煽ってくる彼女がとても憎らしかった。
「だから、私は正しい関係でいられたら」
「そんなのただの夢だよ!」
「だって、青春ちゃん、私のこと――」
「好きだよ! 好きだからこそ!」
そこで途切れた言葉は、青春を現実に押し戻して、そして一番弱く、そして強い部分を引き出すのだ。青春が青春であるためのそれがこじれた今の関係を続けることを、由としないのだ。
だから、今度は青春が拒絶する。
「……好きだからこそ、そんな甘い夢は語れないよ」
彼女は黙って、青春の言葉に耳を傾ける。青春にとって今のこのやりとりは彼女との決別である。初めて好きになったからこその意地であった。
「私の好きは、その好きじゃない。 母親みたいに思えない」
「でも――」
「でもじゃないよ、どうしてそんな残酷なこと言えるの? それはただのワガママだよ、ただの夢だよ」
きっと、彼女は変わらない。今でも、自分の胸の奥に彼女を憎からず望んでいる心があるように、きっと好きであるという感情を前に誰も変われないのだ。
彼女は父のことが好きで、それでこうやってここに来た。きっと自分との繋がりは父との繋がりであるのだ。
そう思った青春は、彼女を誰の者でもなくなるよう願う。
「それを私に強いるのは、優しさなんかじゃない」
「……青春ちゃん」
「気安く呼ばないでよ、そうやって、私にささやいてこないでよ、気持ち悪いよ」
願いは彼女への嫌悪のように映り、そして別れへと移ろう。
「ごめんね、ごめんね……」
「出てって! 出てってよっ!」
たとえ、謝っても、今から何かが起こっても、もう青春は誤らない。間違えるわけには行かないのだ。
「ずっと、父の所にいたらいいじゃない! もう私を巻き込まないでよ! 帰ってこないでよ!」
「もし、許してくれるなら」
「許さないよ」
「もし――」
「許せないから!」
好きだからこそ、許せない。青春にとって彼女の夢も自分の夢も、もう受け入れることはできない。
それでも、彼女は悲しそうに笑いながら、こんなことを言うのだ。
「お父さんに連絡してあげて」
「最後まで、私の味方はしてくれないんだね」
「ごめんね」
「荷物まとめて! もう来ないで! 二度と!」
そうやって、彼女を追い出した後、残るのは今の自分だけである。風が一人きりになった体を撫で、涙をさらう。嫌いだった。彼女が好きで、とても嫌いだった。彼女のことをみて見ぬ振りできない自分が嫌いだった。彼女を押しつけた自分が、とても嫌いだった。
***
どうして思い出してしまったのだろうか。どうして思い出さずにはいられなかったのだろうか。どうして、今の自分と当時の自分を重ねてしまうのだろうか。青春は、目尻にたまった水分を指で拭う。
きっとそれは、今、自分が夢の中で溺れているからなのかもしれないと、青春は空を見上げて思った。彼女も、自分もまた、理想という夢の中で溺れている。現実は思い描いたように上手くいくと限らないことを知っていながらも、それに甘えてしまう。
彼女はまだ、自分が父に連絡するとでも思っているのだろうか。結局、離婚すらしていない父のことを信じているのだろうか。青春は自分に当てはめて考えてみる。
あぁ、きっと信じているのだろう。こうして自分が誰かを待っているように。来ないことを願っているように。
青春は煙草を吸おうと、ポケットの中を探るが、上手く掴めず、それは地面を転がってしまう。夕焼けに照らされた黒いパッケージを拾おうとはせず、ただ、見つめていた。濡れてボヤケた視界の中でも、色あせることなく、それは陰を作る。
雲は流れ、冷たい風が吹き、青春は身を縮こませた。吐く息は、いつの間にか白く、儚くなっていた。
時間の感覚は永遠に感じられる。陰が移ろいゆく様と、徐々に染まる空だけがそれを青春に感じさせる。校舎の中では蛍光灯の光が付いているのがわかった。
陰が夜に消えて、煙草の箱もそれに紛れていくような気がしていた。気温は下がり、身は震えるが、青春hそこを動こうとは思わない。それどころか、凍死でもすれば誰も傷つけずにすむかもしれないと自虐的なことまでも考えていたのだ。
「……いつまでそうしているの」
まだ影が残っていた。いや、縮こまった青春を包み込むように、それは現れた。慌てて顔を上げると、切れ長な瞳がこちらを向いているのに気づく。青春は、声を出そうとしたが、唇はかじかんで上手く動かせなかった。
「まるで捨てられた子猫みたい」
そう言って、彼女は箱を拾い、中をとりだして、一本くわえてみせる。その姿は似つかわしくも、似合っているような気がしていた。もしかしたら、紅潮した頬が、瞳にたまった水滴が青春をそう思わせたのかもしれない。
同じ目線までしゃがんだ彼女は青春のポケットをまさぐり、ライターを取り出す。オレンジ色の火が、静かに二人を照らした。
「――どう、して」
熱く、甘い煙が鼻をくすぐる。ようやくでた言葉は震え、とても泣きそうな声色をしていた。
「そんなの決まっているじゃない」
「でも、奏は私のこと、もう……」
言葉を紡いでいた唇は、突如としてふさがれる。彼女と同じように冷たい体温と、長い睫が眼前には広がっていて、青春は一気に感情を頬に溢れ出させる。どれだけ寒くても、それは暖かくて、火傷してしまいそうで、青春は目を閉じて、彼女とごちゃ混ぜの感情を受け止める。
「決まっているじゃない、好きだからよ」
煙の中で、そう彼女が微笑んだのを見て、青春は嗚咽を漏らした。
これは、優しい残酷だ。私を溺れさす夢の続きなのだ。甘くて優しい悪夢なのだと、そう、思ったのだ。




