私達は夢の中で溺れている その9
それからのこと、これからのこと。記憶はあやふやで、ただ自分はマグマのように煮えたぎる激情を必死の思いで堪えていたのだと思う。それでも、淡々と手際よく青春は手を動かしていく。だんだんと、料理は完成へと近づいていた。
手順を覚え、分量を間違えなければ、美味しくはなくとも食べられないレベルのものができることはない。そう思う青春の中で、料理とは、数学の問題で公式に当てはめ、解いていくようなものであった。フライパンの中でジュウジュウと音を立てるそれを見て、青春は笑い転げそうな自分がいることに気づく。
どうしてこんなものを今、作っているのだろうか。必要のないものを、過去に必要であったそれを、作ったとしても未来を取り戻せるわけではない。あったかもしれない可能性を手に入れることはない。結局、目の前にあるのはむなしさの固まりであり、ただの代替品である。そんな考えを紛らわすようにして、青春は返しで中をかき混ぜるのだ。
「美味しそうじゃないか、意外な一面ってやつだね」
キッチンをのぞき込んだ誰かが驚いた顔で言った。汗が引き、涼しげに髪を揺らす彼女は口の中で舌なめずりをする。
「それにしても、本当にご馳走になっても良かったのかな。 その、ここにはもう一人誰かが住んでいるようにも見えるけど」
「えぇ、別に構いはしないわ。 元々、二人分用意する予定であったし」
「目の前で怒ったように材料を買っているところを見てたからね、言い訳しなくとも大丈夫さ。振る舞うはずだったもう一人への当てつけだろう?」
「…………そうよ、ただちょっと怒っているからあまりそうやって言葉に出さないでもらえるかしら」
柊の察しの良さ、人の心を読みとる能力、観察眼とでも呼ぶのだろう。そうやって自分のことを、自慢げに言い当てる様を青春は気持ち悪く思わなかったが、心地いいものではなかった。だから、そっぽを向いて料理に没頭している振りをする。
その様子をみて、柊は肩をすくめながら朗らかに笑った。
「ちょっとじゃなくてだいぶ怒っているようだね」
あのホテルの前での一瞬を経て、青春たちはマンションにいた。何かの見間違いで彼女が「遅いよ」と頬を膨らませながらでてきてくれたらなと思っていた。だけれども、青春と柊を出迎えてくれたのは温度のない空間と、沈黙だけであった。
無理矢理連れてきたにもかかわらず、柊は嫌な顔一つしなかったので、そこだけは青春にとってありがたいことである。
「ごめんね、今日は帰れなくなった」
そう残されたメモが机の上には置いてあった。彼女の可愛らしい文字が走り書きで残っているのを見て、青春の心に大きな嵐が吹く。
もし、なにも知らずにこれを見つけたならば、仕方ないと笑って、寂しい気持ちになれただろう。だけれども、あの瞬間を見てしまった青春には素直に受け取ることは難しいのだ。
だから、手のひらでくしゃくしゃに丸め込む。そうしたところで気分は晴れないが、形を無くした彼女の温度は今この場からは失われる。これ以上、自分の心が乱されないように青春はゴミ箱の中にそれを放り込む。青春は無性に叫びたくなっていた。
物珍しそうにきょろきょろしている柊を見て、連れてきて良かったと青春は思っていた。もし、自分一人だったならば叫び、暴れ、物に当たっていたのが目に見えている。きっと、ヒステリックに泣いていただろう。信じていたのにと、まるで物語の中のような悲劇のヒロインになれただろう。しかし、青春にそれを許さないのは、ちっぽけなプライドで、柊にこれ以上隙を作りたくないからだ。
これ以上、柊に心を許してしまえばきっと、本当の意味で友達と化してしまいそうで、青春はそれが怖かった。彼女以外の誰か、それがとても怖かったのだ。しかし、彼女が失われてしまった今、頼れるのは柊しかいない。
少なくとも今、こうやって彼女以外の誰かと二人でいることは、青春に彼女のことをいくらかは忘れさせるのだ。それは少ない、心の平穏であるのも事実だった。
「オムライス、だね。 僕は好きだよ」
誰が見ても分かるレベルになってから、柊は自慢げにそれを言い当てる。そういう物言いが鼻につかないのは彼女の美徳であろう。しかし、青春は苛つきからか、口をでるのはいつもの毒のような言葉である。
「女の子が作ってくれる物なら何でも、でしょ?」
「そんなことはないさ、好き嫌いだってあるもの。それは食べ物でも、人間でも、ね」
「いまいち信じられないけどね」
「別に君は私のことをたくさんは知らないだろう? イメージだけで私を語っている」
「学校が始まって半年足らずでなにを知ればいいというの? そんな薄いつながり、どうでもーー」
そう言ったところで青春は言葉を区切った。考えてみれば、彼女と過ごしていたのも半年足らずのことなのだ。衣食住を共にするという濃密な時間ではあったが、やはり、彼女のことをなにも知らないのだ。
つまり、青春もまた、柊だけではなく彼女のことさえもイメージだけしか知らないのだ。
青ざめてしまった青春のことを柊は心配そうにのぞき込む。大きい黒目がジッとこちらを見つめていた。
「どうしたんだい?」
「なんでもないわ、もうできるから食べましょう」
「うん、いい匂いだね。 僕好みだ」
「あなたの言葉、ほんとう薄っぺらく感じるわね」
口をつくのはやはり毒であり、彼女が張らなくてはいけない見栄と虚勢であった。
一つの言葉から膨らんで、またも心は荒れ始める。食卓に運ばれた皿を見ても、どこかぼーっとしたままで、青春はスプーンすら手に取らなかった。それどころか、焦点の合っていない目で、向かいに座った柊の方を向いているので、不思議そうに尋ねられる。
「……どうしたんだい、君は食べないのかい?」
「えっ、食べるけど」
「そんなに見つめられると、僕だって照れるよ」
「味、一応気になって」
もちろん、嘘であり、本当はここにはいない彼女のことを考えてた。途切れさせようにも、心の奥底から溢れだし、蓋をしてあった何かが、欠けているのだと青春は思う。それどころか、世界の中心が急にぶれていった感じがして、おぼつかない感覚、一本通っていた芯がなくなった感じであった。
「僕は毒味のために呼ばれたんだね」
「人の意見って物は自分の物より信じられるのよ」
「へぇ、君もそう思うんだね。 常識ってやつかな。 もしくは大多数によって作られる数の正義」
「……そんな話だったかしら」
「詰まるところはね、そういう話になるのさ」
会話にあわせて、口に運んだオムライスは味がしなかった。拭いがたい胸のざわつきが、青春の神経を蝕んでいる。かろうじて残った聴覚は柊の言葉に傾けられ、残ったわずかなプライドを守るために話を続けるのだ。
口をティッシュで拭い、一気に水をあおった柊は、にこにこしながら続ける。
「僕たちは自分が不確かだから、誰かを求めるのさ。 意見や評価や、モノサシをね」
「じゃあ、自分が確かな存在だと信じられたら人なんてどうでもよくなるってことになるわ」
「その通りだよ、僕は君がそういう人間だと思ってた」
「思ってた、ね。 過去形なのね」
すとんと、心半ばで聞いていた柊の言葉が胸に落ちる。青春はへらっと笑い、目を濁らせていく。
「不満かい?」
「いえ、なにも。 私も、自分のことそう思っていたもの」
誰かのことを信じていた。彼女のことを、とても信じていた。隣にいてくれると信じていた。可哀想な私を可哀想だからと、構ってくれる人間だと思っていた。きっと手を引いて、明るいところまで連れていってくれると思っていた。
青春は昔の自分と比べ、変わったんだと思った。結局のとっころ、根底は変わっていないと言うのに。
「ーーでも、今は一人の人間にこんなにも引っ張られてる」
「そう、なんだね」
濁りきった目に映る物は存在せず、薄ら笑いだけが青春の顔に張り付く。蛍光灯の明るさが彼女の顔を照らし、白い肌を反射させる。
ふつふつとわき起こっていた怒りも、嵐のような激情も、青春の中では過去の物となり、ただ、始めて一人でこの家にきたときのような、悟りのような諦観と悲しさだけが残っていた。
もくもくと運んだスプーンで味わうオムライスは、寂しい味がしていた。それ以上、二人に会話はなく。静かな時間が流れていた。青春が黙って入れたコーヒーも柊は美味しそうに飲んでいた。
「美味しかったよ。カメラだけじゃなく料理の腕もあったんだね」
そうからかうように言うので、青春も少し、おかしくなって笑みを漏らした。それを見た柊は満足げに微笑む。青春は自分が彼女に気を許し始めているのかもしれないと思った。
だから、試すように、救いを求めるように彼女に尋ねる。
「ね、今日泊まっていかない?」
少し紅潮した肌に、潤んだ瞳。柊は、飲み込まれそうになる自分を誤魔化すように目を逸らす。
「どうしたんだい、イヤに甘えん坊じゃないか」
「そうね、誰かにすがりたいんだわ、きっと」
「君にすがられるのは悪くない気分だね。 でも、やめておくよ」
柊の言葉に青春は、嫌よと首を振る。蛍光灯の光はどこまでも無機質で、とても明るいというのに、やけに頼りなく彼女には思えた。
「どうして? 別に予定もなにもないんでしょ?」
「そうだね、特にないよ」
「だったらーー」
そう追ってみたところで、柊の答えは変わらない。ただ、顔を横に振って、否定を示すのみであった。
「どうして?」
「きっと、ここで泊まってしまったら僕は君の友達じゃなくなる。 そんな気がする」
「なにになるって言うの? 私はあなたが望むなら……、いいわよ?」
「まるで、捨てられている子犬の目だよ。 君を見ていると、助けてしまいそうになる。 その黒い瞳に吸い込まれていきそうになる。 でも、きっとそれを許してしまったら、僕たちは友達でいられないだろう」
「……私のこと、好きなんでしょ?」
青春は唇を震えさせながら、彼女に聞く。そうしても、柊はやはり顔色を変えないまま、答えを替えなかった。
今度は、自分から彼女へと手を伸ばした。しかし、深い溝があるかのように、何か大きなものに阻まれているように届かず、柊がその手を掴むようなこともしなかった。
透明な嵐だと青春は思った。彼女も柊も、みんな離れていってしまう。嵐に遮られて、吹き飛ばされてしまうのだ。自分を中心に巻き起こる風は愛を含んでいない。愛が含まれていないから、きっと拒絶し、されてしまう。自分が今、柊に求めているものは紛れもなくただ代替品である。彼女の代わりである柊と今日をやり直したいのだ。
「君も気づいているだろう? 君が誰かに抱いていた好きと、僕の好きは違う」
彼女はあくまで友情として、青春のことが好きなのだと言うのだ。だとすると、青春が柊ではない、今日この場にはいない彼女に抱いているのは何であるのか。
もう、言われずともわかっていた。
「初めて、初めて人を好きになったの! なのに、こんなのって……」
表に出さないよう、最小限でとどまるようにしていた気持ちが青春の口から吐き出されていく。
彼女がいれば、何もいらないとまで思っていた。父や母がいなくてももう大丈夫だと、思っていた。彼女が言った通り、彼女しか青春にはいないと思っていた。
だけれども、彼女には自分以外の誰かがいるのだ。
それが、今の青春には耐えられなかった。
「あの場所に行く前に止めておけばよかったね。 もしくは、僕が付いていくなんて言い出さなければよかった」
「そんなの、空論よ。 詭弁よ。 むなしいだけよ。 あったかもしれないもしもなんて数えていたら、キリがないのよ」
「そうだね、だから僕は何もしてあげられないよ」
「……一緒にいてよ」
絞り出した声はとても小さく、か細かった。柊は困ったように微笑んで、青春の頭に手を置いた。
「僕はその誰かの代わりにはなれない、きっといても、今みたいに苦しいだけさ」
優しく、子供をあやすように撫でるその手に、青春は目を細めた。そして一筋、熱い感情が、頬を伝い、地面ではじける。
「僕はね、日嗣。 その気持ちは自分でどうにかするしかないと思ってる。 僕だって苦しいときぐらいあるさ、でも、それでも自分で決着をつけるしかないんだよ」
その言葉に青春は笑って頷いた。
「厳しいね、柊は」
「友達だからね、それと、僕のことは愛梨でいいよ」
「いい友達になれそうね、愛梨は」
「お褒めに預かれて光栄だよ」
そう言って柊とはいくらかのやりとりをした。ふざけあったり、時には笑いあったり、親しいと思える相手がいなかった青春にとってそれはとても新鮮で、楽しかった。
彼女といる時は明らかに違う、友達としての心地よさがそこにはあったのだ。
そうしたことを青春に確認させるだけの時間が過ぎて、ついには部屋にひとりぼっちになった。今夜は帰れないと残した彼女は今頃、何をしているのだろうか。
それを考える度に、青春は胸をかきむしるような激しい何かに蝕まれる。それは熱いコーヒーを飲んだとしても、誘われるようにして、彼女が買い置きしているチューハイを飲んだとしても、解消されることはない。
照明を消して、布団にくるまっても、眠気は訪れず、ただただ彼女のことばかりが青春の頭には浮かんだ。どうしてもそれは離れることはなく、いつしか夜は深くなっていく。そして、自分が彼女に抱いている、もしくは抱いていた感情が何を訴えているのかもわからないまま、青春は朝を迎えるのだ。
誰もいないベランダから、日が昇り、寝不足の頭には眩しい。ここから眺めていれば彼女が通りかかってくれるんじゃないかなんて、そんなことに期待している自分がおかしくて、青春は涙混じりに笑った。
誰も通りかからない閑静な朝の住宅街はどこか異質じみていた。
青春はポケットの中から、煙草の箱を取り出した。彼女の荷物からくすねたそれから、一本を取り出して、口にくわえた。ライターの火は熱く、そして朝日の中でも青春には眩しく思えた。
そしてゆっくりと吸い込み、吐き出す。のどに絡まって
くる煙はただただ煩わしくて、それでも、彼女のにおいに包まれているような気分を味わえた。それが心地いいのか、そうでもないのか、青春にとってはどちらでもよかった。
そうしているうちに、一台の車がこちらのマンションにやってくるのが見えた。あのときの記憶はアヤフヤだけれども、きっと彼女が乗っているんだと青春は確信と共に煙を吐き出す。ゆっくりと、でも確実に一本吸いきる頃にはは、きっと彼女は扉の前に立っているだろう。そして、今にも、鍵を差し込むのだ。
「……ただいま」
そう、消え入りそうな声が玄関の方から聞こえてきて、青春は煙草を灰皿に放り込み、へらりと唇をつり上げた。




