私達は夢の中で溺れている その8
たくさんの人が自由気ままに泳いでいる。まるで自分たちがその中にとけ込んできてしまったみたいな、息ができない感覚。青春は人混みに入ると、いつもそれを思う。しかし、今はそれがない。青春の隣を歩く柊もまた、人混みが苦手だと言った割に飄々としている。
このことになにか原因を持たせるのだとしたら、やはり、それは今二人が手をつないでいることになるのだろう。しかし、この前、彼女と手をつないでいたときのような高揚は感じられない。青春の手のひらと共に包み込むのは偏に安心感、のみであった。
ゆっくりと、人の流れに逆らわず、二人は歩く。そうして何度か横断歩道で立ち止まる。
いつからか、柊がこちらを見つめていて青春は苦笑を漏らすと、柊もまたクスリと笑った。
「なんで、手をつないでいるんだろうね、私たち」
「そんなこと、僕に聞かれても困るね。 そうだね、強いて言うなら神様のいたずら、かな」
「……本当に臭い台詞を吐くのがお好きなようで」
「みんな喜んでくれるからね」
「みんな、ね。 自分が喜べなきゃ意味がないんじゃないの?」
「ときどき君はキツいことを言うよね。 僕はそんなところが好きなんだけど」
「気持ち悪いからやめて、その言葉」
「好きってことがかい?」
「そうよ、悪い?」
手のひらを分離させようと、手に力を入れると、柊のものは吸いつくように離れない。そのことがさらに嫌悪感を加速させるかと思った。しかし、そんなことはなく、もはや彼女に対して何も思わなくなっていた。慣れか、もしくはこの状況下で自分もまた、手を離したくないと言うことだろうか、青春は自身に問う。
しかし、その答えは出ない。きっと分からないからでないのだと、青春は思った。
「誰にでも言ってるくせに」
「そんなことないさ、褒めるときは本心でしか褒めないよ、僕は」
「……うそつき、みんなが喜ぶ嘘ばっかついているくせに」
青春は続けて毒づく。柊はまじめな顔をしてそれを聴いていた。
「みんな嘘つきばっかしだわ」
「それは君が嘘つきだからさ」
「私が? いつ嘘をついたって言うの?」
柊の手を握る力が強くなる。きっと、今から彼女は自分に踏み込んでくるであろうことが青春には理解できた。
彼女が何の目的で私に近づいてきているのかもわからなかったが、それでも手を離さずにいた。柊の言葉を聞いてみたくなった。
ずっと胸の中にあるもやもやを彼女は言い当ててくれるかもしれないと期待していたからであった。
夕焼けに黒髪が透かされて、オレンジが瞳に広がる。彼女の血色のいい唇が開いて、空気が漏れる。青春はぐっとそのことばに耳を傾ける。
柊は揃えて切られた前髪を揺らし、そして青春の心もまた揺らし始める。
「自分に、ずっと嘘をついている」
青春は柊が言ったその言葉を嘲笑した。そして足を止めて、彼女の腕を振り払う。
「私が、私にどんな嘘をついたって言うの!?」
そう声を荒げるも、柊は落ち着き保ち、口をつぐんだままだった。
「ねぇ、答えてよ。 あなたなら、私の気持ちを代弁できるって言うの?」
通り行く人たちが二人を不思議そうに眺める。人の流れを止め、その中でまとわりついてくる視線がひどく、気持ち悪かったのを青春は覚えている。
そして、柊が言った言葉もまたーー
「ずっと、自分の気持ちに嘘をついている」
まっすぐな瞳が柊に投げかけられていた。そのアーモンド型の目はキラキラと輝いていて、星の瞬きのようで、吸い込まれそうで、青春は視線を逸らす。
そして、彼女の顔がなぜだか頭に浮かび上がった。彼女のたばこを吸っている時の姿が、瞼から離れなくなっていた。
「君には好きな人がいる、でもそれに気付かないようにしている」
「……ずっと言ってるけど、そんなことあなたにわかるはずがないわ」
「そんなことないさ、人は君が思っている以上に君をみている」
「私は見られたくないし、ずっと一人で生きていきたい」
「それこそ嘘さ、君のことを僕はほとんど知らないけど、これだけはわかるよ。 そして人を好きなる気持ちだって分かる。君が今、辛いこともわかる」
「わかった風に言わないで!」
目の前で勝手知ったるように語る柊に対して青春は叫んだ。それを柊は黙って受け入れる。
「私のことは私が決める。 私の気持ちも私が決めなくちゃならない」
「……そう上手く行かないのが、恋って話だよ」
柊のことばは嫌なぐらいに腑に落ちた。
「自分でコントロールでできない感情なのさ、だから辛いんだよ君は」
否定しても、否定しても、奥底へと潜り込んでくるのが嫌で、青春は押し黙る。そんな彼女に関わらず、柊は口を動かし続けた。
「その相手が誰で、どんな人かまでは僕は知らない」
「そりゃそうよ、そこまでわかったらエスパーじゃない」
「やっと、認めてくれるんだね」
「認めてないし、今でも適当を言っているだけだと思っている」
「じゃあ、どうすればいいんだろうね」
「もうどうもしないでいいわ」
青春は鋭く言い放つ。その瞳には怒りの色が見えた。そして、肩を震わせ、唇を荒げながら彼女はキッと眉に皺を寄せる。
「私に関わらないで」
その言葉に、柊はあまり驚く様子を見せず、ただ息を小さく吐くだけで、それが青春の神経を逆撫でる。
「残念だよ、僕は君と友達になりたいと思っていたのに」
「今更だけど、友達の好きで安心したわ」
「君は本当、遠慮なし出ことばを放つね、ま、そんなところが気になったんだけどね」
青春には柊が何を考えているかわからなかったし、自分が何にこんなに怒っているのかも深くわからなかった。
彼女はただ仲良くなりたいと話していた。邪険に扱ってはいても、柊と話しているのは青春にとって悪くはない気分にさせた。青春は、他人が自分をどう見ても構わないと思っていたし、何か誤解のようなものをされても、きちんと話してそれを解くか、放っておけばいいと思っていた。
それでも、何か怒りにふれる一線があったのだ。
「……さよなら」
小さくつぶやいた青春のことばに、柊は首を横に振る。
「サヨナラじゃない、またね、だよ」
「ううん、さよならで合ってるわ。 もう絡んでこないで」
「それは、未来の僕と相談だね」
「きっと私たちはわかりあえないし、友達にもなれない」
「わかりあえないなんてありふれているもの、求めたって仕方がないじゃないか、僕は、わかりあえないからこそ、恋は楽しいっておもってる」
「恋なんて、そんな話してないし、これかもする予定はない」
「うそつきだね、君は」
「あなたは正直ものすぎるわ、私に対して」
「友達になりたい人に嘘をついても仕方がない、そう思わない?」
「偽りでも、それでも、私は何だっていいの」
「なんだっていい? それこそ嘘だよ」
柊がクスっと笑う。それが最後の引き金となったのか、青春は彼女に背を向ける。そしてなにも言わずに歩き出すのだ。
「待ってよ!」
「待たない」
後をついてくる柊を置いていこうと早歩きになっていく。青春は人の吐く空気の中、どこか分からないところへ進もうとしていく。それは当初目指していたスーパーでも、彼女が待っている家でもどこでもなかった。どこか一人になれる場所。誰もいない、静かな場所。
この駅前もある意味、一人でしかなかったが、彼女にとってうるさすぎた。だから逆に、より一層どうしようもない孤独感が青春を襲うのだ。
手をふれても、なにをしても、話し合っても、結局は人間一人である。そのことが青春は苦痛でしかなかった。心がこんなにも熱いのに、体が邪魔で仕方ないのだ。
「本当に待ちなよ」
腕を捕まれ、青春は立ち止まる。振り返ると、顔を赤らめ、肩で息をしている柊がしかめ面でそこにはいた。その表情に青春は、なにか胸にこみ上げるものを感じる。
そして、今いるところが駅裏のいかがわしい店や、ホテルなどのあるあまり青少年によくない所の近くにいることも理解できた。
青春が周りを見渡したのを確認し、息を整えた彼女は首を振って強く腕を握る。
「こっから先は一人じゃだめだって」
「二人ならいいの?」
「二人でも良くないけど」
「だったらとめないでよ」
「止めるさ、止めなかったら僕が嫌な気持ちになる。」
柊が時折見せる、瞳の中の強い光を見ると青春は思う。
柊愛梨という人間は、なにか、私とは違うものを信じているのだと。それはたとえば愛や恋や、正義や正しさなんてもの。それはたとえば、家にいるはずの彼女もまた、信じていること。
青春は自身がそれを信じられない人間であることを知っていた。その上、どちらかというとそれが嫌いであることも。曖昧模糊で多くの人間が信じているそれは彼女にとってはあまりにも輝きすぎている。眩しすぎるのだ。
青春はそれでも構わないと思っていた。そこから発せられる二次作用のような人の優しさはありがたいときもあった。おせっかいのような言葉が助けてくれたときも思い返せばあったような気がする。
少なくとも、人がそれを信じている分には構わないのだ。自分自身がそれを信じるのがばからしく思えるのだった。
青春は柊に向き直り、暗く、沈んだ瞳で視線を投げかける。彼女はこういうとき、ひどく自分のことを嫌悪しているのだ。だから、人を巻き込んでもっと自分を傷つけようとする。ずっと昔からの青春の悪い癖だ。
「好きって何か分かるの? 私はそれを信じていないし、わからない。 だから自分が誰かを好きになっていることがわからない」
柊は苦しそうに眉をひそめ、唇を強くかんだ。それは沈黙であったし、柊にとっての思考の時間である。しかし、恋の定義については考えてはいなかった。ただ、どうすれば青春がそれを認め、信じてくれるか、そういう願いについて考えていたのだ。
そして、柊が口を開こうとしたときのことである。それは青春が車の音に一瞬、視線を逸らしたときでもあった。
そういう男女や恋人同士の二人がはいるようなホテルだった。そこに車が入ろうとしているのが目に飛び込んできたのだ。しかし、青春が見たのは車ではなかった。正確に言うとするならばその助手席である。
青春はその光景をニワカには信じられなかったし、どうしてそんなことになっているのかも分からなかった。ただ、目を見開いて、唖然としてそれを見送ることしかできなかった。心臓が痛いほど脈打っていて、柊の言葉は何も耳に入ってこなかった。
そして、彼女があの日、行っていた言葉を思い出した。
「私も青春ちゃんが好きだよ」
なんてことを思い出すのだ。好きだよ、と自分では分からないその言葉を投げたら返ってきたそんな言葉を。
どうしてそんななことを思い出すのか。どうしてこんな悲しい気持ちになっているのか。どうして、こんなにも胸が痛いのか。その理由は明白だった。
それは、今ホテルに入っていった車の助手席にいたのが、その言葉を言った彼女であり、家で待っているはずの彼女だったからだ。




