私達は夢の中で溺れている その4
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食後のコーヒーを啜りながら、青春はぽつりと漏らした。
「家族ってこんな感じなのかな・・・・・・」
その言葉に返答はなく、彼女はジッと青春を見つめていた。蛍光灯の明かりは白く、二人を照らし、手元の液体を奥まで透かす。青春は、たどたどしくも、唇を動かし、彼女へと笑いかける。
「ずっと、一人だったんだ」
「一人って?」
「家に帰っても、父親も母親もいつもいない。 無駄に広い部屋はいつも寒かった」
湯気を立てるカップに口を付け、思い出した寒さを誤魔化す。彼女は眉をひそめながら、目を逸らしながら、恐る恐ると訪ねた。
「・・・・・・ご飯は、どうしていたの」
「月のはじめにさ、十万円渡されるんだ。 小学校の頃からずっと。 給食費や遠足の時のお金、体操服や制服代だって、全部そこからだしたの」
「学校側はなにも言わなかったの? それにおじいちゃんやおばあちゃんは?」
「いないし、学校は親の言いなり。 中学までは優等生の大人しい子だったからね。 よくここまでグレずに育ったと思わない?」
くすりと、青春は笑い、口の端をつり上げる。濁った目の真ん中で、微妙な顔をした彼女を捉えていた。
「かわいそうって思う?」
青春は、別に同情や哀れみが欲しいわけではなかった。それでもこんなことを言うのは、ただのイタズラじみた心だと青春自身は思っていた。彼女のリアクションを見たかったのだ。
目の前の彼女は苦く笑って、コーヒーを啜って頷いた。
「そりゃね」
「こんなに自分のこと話したのは初めてかも」
ため息をついた青春は思い描いた通りの顔をした彼女を見て、満足気に息をついた。しかし、その次の言葉までは予想していなかった。
彼女は一転して、激しさを持って青春に迫った。
「誰かに相談しようと思ったこと、なかったの? 力になってくれる人だってきっとどこかには」
その言葉は青春にとってあまり嬉しいものではなく、しかし、自分から切り出した話を自分から終わらせるのもどうかと思った。だからササクレた気持ちを抑えながら青春は自虐じみた笑みを浮かべる。
「助けってどうやって助けてくれるんだろうね。 ドラマやマンガみたいに熱血の先生が現れて家庭環境を変えてくれるとか? それで、私は父親と母親と幸せに暮らせるようになりました、めでたしめでたし・・・・・・ってなるのかな?」
そう言って見せても、彼女の曇りのない瞳が、喉に刺さった棘のように苦しかった。彼女の言葉は青春の心に凍てついた激しい嵐を吹かせていたのだ。
「もう、期待するのはやめたよ、疲れたし、それに私の家はすでに壊れているから。 壊れたものは二度と元には戻らない」
いつの間にか、足は震えていた。青春はその貧乏揺すりを手で押さえ、無理矢理に表情を作って彼女に向かって笑う。
「それに、私は今のこの生活が気に入っているから。 綺麗なお姉さんと二人で暮らしている今の生活が、ね」
取り繕っても彼女の表情は変わらない。悲しさと、哀れみと、何かを含んだその顔はとても混じり気のない、邪気のないその顔は、年上だというのに、まるで子供のように見えた。そして、彼女の感情は段々と勢いを持って青春に襲いかかってくる。
「・・・・・・ごめんね」
涙を浮かべ、それを手で抑えてそう唱えた彼女のことが青春には分からなかった。
「何で謝るの?」
「ううん、ただ、悲しくなって。 謝りたくなって。 気づいてあげられないのが申し訳なくて」
「関係ないことじゃない、それに私はこうやって親から離れられて。そして来てくれて良かったっておもってる」
そう拒絶しても彼女は繰り返し唱える。頬に跡を作りながら、それは止まらない。
「・・・・・・ごめん、ごめんね」
その言葉は広く感じる部屋に響きわたったような気がして、青春の耳から離れなかった。その気持ち悪さだけが鼓膜の中で残響する。青春は耐えきれず小さな声で呟いた。
「だから、謝らないでよ」
彼女が落ち着いた頃を見計らって、今度は青春がコーヒーをカップに注ぐ。そして彼女の分も持って隣に座った。
「落ち着いた?」
「うん、なんかさっきと逆みたいだね」
涙の跡が頬に残っていた。青春はどうして他人のことでそんなに泣けるのかが分からず、それをずっと、見つめていた。すると、目に光を取り戻した彼女がこんなことを言った。
「お父さんやお母さんと話したことってある?」
「どうしたの急に」
そこまで食いつかれるとは青春は微塵も思っていなかった。だから戸惑う。しかし、勢いと激しさを持ちながら、今度は希望をその瞳に宿し、彼女は追求を止めない。
「いいから、気になったのよ」
「いつも家にいないから、それは母親もだけど。 だから、物心ついてから腰を据えてちゃんと話した子取ってないと思う。 それなら、まだ母親の方が会う回数多いから連絡ごとだけ伝えていたし」
「そう、なんだ」
「何が気になったの?」
「ううん、これは、私の勝手な考えなんだけどね。でも、話してしまったら青春にとって嫌なことになるかもしれない。 それでも、言ってもいいのかな」
そう前置いた彼女に、青春は頷いた。
「いいよ、何だって聞くよ。 考えていること、知りたい」
「強いね、青春は・・・・・・」
彼女は微笑んで、それから一息ついてから語り始める。
「私さ、ぜんぜん青春みたいな家庭環境とかじゃないの。 それでも、家族だって、自分の親兄弟とだってすれ違うことがある。 喧嘩したりもする。 それで、話してみたらわかってもらえることもある。 わかることだってあるんだよ。 だからーー」
その言葉を聞いても、わからない。彼女がなにを考えているのか分からない。
青春の足は再び震え初め、カップの表面にさざ波を作る。彼女の言葉を遮って青春は暗い色をした瞳のまま、笑顔と誰かの願いを言う。
「私が両親と話せば何か変わるって?」
「そう、言いたいんだけどね、嫌だよね」
「別に私ね、嫌いじゃないんだよ。 産んでくれてありがとうって気持ちも少なからずあるわけで。 だけどね、うちの家族って言うのは世間一般のそれとは違うんだって。 ただの張りぼての、二人にとっての隠れ蓑なんだって思うの」
未だに震えは止まらない。まるで体が冷えているように青春は思った。
「もし、私が2人と話さなければいけないんだったら、虐待防止センターみたいなところにでもいくよ。 でも私がそうしてこなかったのは。そんな所に行ったら、他の子供とまとめて共同で一緒に生活しないといけないかもしれない。 私、それだけは嫌だから。 他人の中に紛れ込むのも、大人のキレイゴトを聞くのも、だいっきらい」
そこまでも一息で言って、彼女の様子を伺う。また泣かせてしまってはイヤだと、青春は願った。どうしていいか分からないから、イヤだと願った。
コーヒーの湯気は次第に薄れていく。彼女の視線はカップに沈んだままだった。だけれども、その味にふさわしくない塩気は含まれていなかった。ただ、一言こう呟いた。
「これも、キレイゴトだったかな」
それは青春の胸を抉るような言葉だった。まるで、おまえは正しくない、世の中からずれていると言われているような気がする一言だった。青春は足の代わりに震える喉から声を絞り出す。
「・・・・・・そうかもね、でも正しいとは思う。 私たちが出会えば、きっと何かは変わる。 話し合って万が一にでもいい方向に転がるかもしれない。 それでも、悪い方向に捻れていくのが私には目に見えてる。 そうしたら、今度こそ私は・・・・・・」
「それでも、お父さんは!」
彼女がそう両親を引き合いに叫ぶから、青春もまた声を荒げた。
「なにを知っているの? 私はなにも知らないけど、だからこそ、知らないもの同士だからこそ、私はわかるよ、幻想は通じない相手だって」
そこまで言って、青春はようやく理解した。彼女と自分自身もまた知らないもの同士だと言うことを。自分とは違う、考え方をした、違うものを信じている、生き物だと、青春は思ったのだ。
だけれども、それでも、彼女のことを肯定できる自分がいることに青春は気づいた。しかし、それと同時に何かが、気持ち悪い何かが胸の内を蝕んでいることも感じていた。
その二つの気持ちに踏ん切りがつかないまま、青春は彼女の肩に額を当てる。
「でも、そういう考え方好きだよ。 私にはなくてすばらしいものだと思う」
「・・・・・・ごめんね」
彼女もまた、青春の後頭部に首を傾け、頭を乗せる。目の前に垂れる黒い髪と彼女の匂いにつつまれながら、青春は目を閉じる。
「いいよ、同情なんて好きじゃない」
もう、彼女はなにも言わなかった。諦めか、理解か、そのどちらでもないか、無言では判断材料に欠けていて分からないが、今日の青春にはそれでよかった。ここでそれを聞いても、すで溜まりつつある疲労感を増やすだけのことになるのは目に見えていた。
だから、絶好のチャンスとばかりに青春は話題を変える。
「そんなことよりね、今度、買い物に行かない? この部屋も、ちょっと殺風景すぎると思うんだけど」
「うん、今度の日曜日、行こっか」
きっと、彼女は笑った。見えないから本当のところはわからないけど、今、彼女が笑顔であったらいいなと、青春はそう願った。




