私達は夢の中で溺れている その3
その日は特別、何もない日であった。学校は休みで、友達も少ない青春は手持ちぶさたで、ただ、座って雑誌を読んでいた。彼女も彼女で黙ったまま携帯をいじっていた。二人の間に会話が少ないわけではなかったし、両者とも、沈黙が嫌いなわけではなかった。青春はむしろ心地のいい沈黙もあったもだと考えているほどだった。
部屋にはもうすぐ茜色に染まっていきそうな日が射していて、少しだけ冷えた。無機質で殺風景な部屋で、ソファーに深く身を沈めていた青春は、ふと、二人で何か家具や部屋における雑貨を買いに行くのも楽しそうだな、と雑誌に載っていた可愛いページを見て一人はにかんだ。それから、ちらりと視線を移して彼女に向かって聞いてみた。
きちんとした言葉を覚えているわけではないが、それを聞いたとき、彼女の表情は普段見たこともないもだった。少し寂しそうな、怒っているような、冷たいような、色んな感情を内包した、悲しい、顔をしていた。
聞いたことは漠然とした疑問で、自身にとっては取るに足らないものだった。ただ、少しでも会話の足しにでもなるかな、と思ったのだ。だから、彼女がそんな気まずいような微妙な顔を浮かべるとは青春は微塵も思っていなかったのだ。だから、その表情が、胸に突き刺さった。
青春は慌ててその言葉を取り替えようとした。が、フォローも気の利いた言葉も、別の会話の種も頭には浮かばない。ただ、申し訳なさそうに彼女に向き合うことしかできなかった。
「ごめん、聞いちゃいけないことだった?」
「別に、そんなことはないんだけど」
そう言うものの、いつもの朗らかな笑顔はそこにはない。空気が、止まったのを彼女は感じた。
「・・・・・・なんでこんな仕事に就いたのか、だっけ?」
彼女の視線が痛く感じた。自分の家であるのに居心地が悪かった。青春は目を逸らしながら、うなずいてみせる。
「そう、だけど。 別にそんなに気になることでもなっかた、かも」
「いいのよ、それになんでもないことなのだから」
言葉ではなにもないように見えた。しかし、その声音はやはり違和感があった。
「・・・・・・話したくないことだった?」
「何でもないことっていったじゃない」
おそるおそる、彼女の顔を青春は盗み見る。子供がイタズラをしてばれていないかを確認するかのように、ゆっくりと、でも確実に。
初めて見た彼女の明るい以外の空気に、青春は心臓が冷えつくほどアテられていた。
「そんなに顔色をうかがわなくたっていいじゃない」
「私ね、地雷ってあると思うの」
苦笑してみせる彼女に青春もギコチナく笑って返した。まだ、空気が肌に刺さって痛かった。
「私、そんなに動揺していた?」
「なんか、変だったかも」
「変か、変ねぇ・・・・・・」
時計の針はさほど進んでいないと言うのに、時間が永遠にさえ遠い。早くこの話題を終わらせたいような、踏み込んでみたいような、青春は彼女の言葉から、表情から目を離せない。別に体は痛くもないのに、苦しさだけが重く彼女の体には降り積もっていた。
カラカラに乾いた喉をごまかすためにつばを飲み込んだ。
「何か、考えていたの?」
「夕食、なににしようかって。 食べたいものある?」
すでに彼女は元の華やかで明るい形に戻っていた。というのに、青春は未だに緊張から抜け出せない。気持ちがまだ、追いついていない。
「作ってくれるものなら、なんでも」
「それが一番困るんだけどなぁ」
「なに作っても美味しいんだもん」
会話をいくらやりとりしても直らない。青春は思う。空気が張り付いているのだ。肌に、心に張り付いているのだ。だから、ごまかさなくてはいけない。
「ねぇ、煙草」
「吸わせないわよ」
彼女はぎょっとした顔で驚く。だから、首を横に振って
みせた。
「違うの、吸ってほしくて」
「・・・・・・なにそれ」
呆れた顔をして彼女が吹き出す。ケラケラと笑う彼女に吊られて、青春も笑ってみせる。張り付いた空気は、まだ剥がれてはいない。
「煙草の匂い、好きなっちゃったかもだから」
「そんなもの好きにならなくてもいいのに、臭いだけよ?」
「大丈夫だって、大人になるまでは吸わないから」
「怪しいわね、この家出少女め」
茶化した彼女が窓を開ける。ベランダから風が入ってきて髪を撫でる。ビル群に映し出された夕焼けは大きく、そしてまぶしかった。
彼女が煙草を吸う前に青春は新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。それから、ピンク色した唇が煙草をくわえるのをジッと見ていた。
「そんなに見られたら吸いづらいって」
「変に似合うなぁって思ってね」
「そうかなぁ、友達には似合ってないって言われるよ?」
ライターで火をつけて、困ったように微笑んだ彼女に向かってニヤリと笑い返す。
確かに、彼女と煙草はミスマッチである。一見清楚そうに見える綺麗な彼女の外面と比べれば誰だって思うだろう。だけど、青春はそんな彼女が好きだったのだ。まるで世界の裏側を見たような、のぞいてはいけない何かを見つけてしまったときのような、煙草を吸っている彼女を見る度にそんな気分になるのだ。
「きっと・・・・・・」
なにげなくそうつぶやいた青春に彼女は煙草の煙を吹きかける。
「きっと、なに?」
そういわれて、自分がなにをつぶやこうとしたのかわからないことに、青春は気づいた。言葉を胸の中に探してみても、どうやら逃してしまったみたいでなにも見つからない。消えてしまったそれの代わりに、へらりと笑って彼女に向かい合う。
「きっと、いいお嫁さんになるよ」
すると、彼女は少しだけ煙草を吸って、またもや困ったように笑うのだ。その表情を見て、ずきりと青春の胸は痛む。
「・・・・・・だったら、煙草をやめないとね」
「やめれるの?」
とっさに返したそんな言葉に彼女は目を細めて猫のような笑みを浮かべる。良かったと青春は煙モスっていないのに、息を吹き出す。
彼女が困ったように笑うのは、好きではないのだと、青春は思った。いつもの朗らかで明るい彼女が好きなのだと、思ったのだ。
煙草は灰皿で押しつぶされる。赤くなっていた空も、同じように黒に染まっていく。
「ここに煙草を好きな女子高生がいるもんねぇ」
「私のことなんて気にしなくていいのに」
彼女の袖をそっと摘んだ青春は、部屋に戻りたくないことを暗に伝えていた。その手は暖かい手でさらに上から包まれる。
「本当に気にしなくていいの?」
間近で聞かれたその問い、彼女の体温に青春はドキリとした。きっと、顔が赤くなっていたらそれは夕日のせいだと思っていたかった。
自分のことを気にしなくていいか、なんて聞かれて
どう答えるべきかがわからなかった。ずっと誰にも気にされてこなかった青春にとってその確認は未知に等しかった。彼女はまだ、自分と繋がっている、そのことだけが理解できた。
考え込んで無言になってしまった青春の髪を撫でて、彼女は笑った。
「かわいいね、青春は」
無言は肯定になってしまい、体は熱くなってしまう。彼女の手や体温は未だに暖かいと言うのに、顔から火がでてしまいそうな感じがしていた。
「そんなこと、ないよ」
必死に、俯きながら、かろうじて返したその言葉はとても小さく、蚊の泣くような声で、そんな音しか出せない自分がなぜか恥ずかしく、ますます青春を困惑させた。
「私の顔色なんて、見るほどもないからさ。 そりゃ聞かれたくないことはあるけど、今は同じ屋根の下にすんでいるんだから、気にしないでよ」
彼女の声音は優しく、青春にとっては年の違いを感じさせられているような気がして、悪い気はしなかった。だから、無言でうなずいて、彼女が髪を撫でる手つきを夢中で堪能した。
思えば、いつぶりに頭や髪を撫でられただろうか。こんなに近くに人がいただろうかと、青春は思い返す。産まれたとき、周りは笑っていただろうか。優しく、抱き上げられただろうか。いつから、私は要らなくなったのだろうか。いくら思い出そうとしてみても、真っ直ぐな愛みたいな陳腐なそれは、脳味噌の中に入っていないのだ。
しかし、だけれども、彼女にとって、今はそんなことどうでも良かった。うれしかった。こんなにも甘えさせてくれる、優しくしてくれる大人の人が、隣にいて、それだけで、青春は十分だったのだ。
「そろそろ、部屋に戻ろっか?」
彼女は優しかった。だから、青春は初めて、子供じみた欲求を口に出してみたいと思ったのだ。
「・・・・・・ばーぐ」
「何かいった?」
「ハンバーグ」
そんな単語を口にする青春に、彼女は首を傾げながら聞き返す。
「それがどうしたの?」
見つめられ、答えを求められた青春は、少しだけ、ほんの少しだけ罰が悪そうに、照れくさそうに、はにかみ笑いを含めながら、彼女に返す。
「ハンバーグが食べたいの」
彼女は笑う。青春もまた、笑った。
「うん、了解」




