私達は夢の中で溺れている
柊愛梨と林道ハルがお互いを認め、笑顔になったところで青春は観察を切り上げた。踵を返すように、部室から遠ざかり、なんとなく足を進め、いつもの校舎裏へとたどり着いていた。後ろにはお供が一人、妙に激しい足取りでついてきていたが、両者の間に言葉はなかった。
林道ハルについて、青春は落胆を感じ、反対に薄雪奏はどこかスッキリしたような顔をしていた。それが、彼女たちにとってお互い気に入らなく、ぎこちない雰囲気がそこには佇んでいた。
ブレザーのポケットから煙草を取り出して、火をつける。甘い香りをしたそれを吸うのは日嗣青春しかいない。今の奏からは煙草の匂いがしなかった。
火のついたそれを一気に吸い込み、ため息をつくかのように吐き出す。そして、日嗣青春はへらっと笑い、赤い口を開いた。
「もっとひどいことになると思ってた」
「ひどいことって?」
「言い難いほど、彼女が絶望する姿が見たかったの」
煙草をふかしながら、遠くを見つめている青春の姿は絵になる。
だけれども、奏はそれを認めたくはなかった。なぜなら、誰かがその姿が好きだと言っていたから。苦虫を噛み潰したような顔で彼女は呟く。
「……相変わらず、趣味の悪い奴」
「あら、だったらあなた自身が趣味の悪い何かってことになるけどそれでいいの?」
「それで満足だよ」
「また謙遜しちゃって」
そう言いながら青春は奏との距離を詰める。彼女の切れ長で透き通った眼が青春はとても好きだった。
背の高い彼女と横並びになると、青春の顔は首筋に近いところにあることになる。だから、そっと、その白くてきめ細かい肌にくちづけをするのだ。
「私はあなたに会いたくなかった」
「嘘、気が気でなかったくせに。 私が空澄メイと付き合いだしたって聞いて、あんなに怒ってたじゃない」
「……あなたに期待していた私がばかだったってこと」
「そう」
結局のところ、彼女たちはあの夜から一回も顔を合わせていなかった。合わせるどころか連絡さえも取っていなかったのだ。青春にとってそれは苦痛であったし、奏にとってはそれが焦燥であった。
「何か、何か聞きたいことはないの?」
暗い目に期待を宿して、彼女は奏を見上げた。
しかし、奏は黙ったまま突っ立ったままのつっけんどんで、青春が期待したような何かは一つも寄越さない。
「いけずな女の子ね、本当」
「それ、私のことを言っているの?」
「奏以外に誰がいるのかしら?」
「もし私が意地の悪い女なら、きっとそれは誰かに移されたせいだわ」
ヘラリと口元を歪めたのを見て、青春はどこか悲しくなった。
好きだったものが移ろい行く様、好きだったインディーズのバンドがメジャーに行ってしまうことでどこか熱が冷めるみたいな感覚。依然変わらず好きなはずなのに、どこかねじが一本外れてしまったような、そんな――
「私は青春が何を考えているかがわからない」
「私だってわからない」
「何が好きで何が嫌いかのかも」
「奏が好きよ」
「知ってる、私は嫌いだけど」
「……私はそれを知らないふりをしているけどね」
煙草の煙が風に揺られて、まるで夏の終わりの再来だった。違うのは二人の位置と、どちらが主導権を握っているのか。青春がメイと付き合い始めたことによって、奏には彼女と一緒にいる意味を損なわせてしまった。
二人の隙間で、冷たい風が息をする。凍えてしまった地面には草の根一つも見つけられない。花蘇芳の木が、そこを見下ろし、咳ばらいをするかのように枯れた葉を散らす。
「どうして私だったの? 私を好きになったの?」
そう奏が尋ねると、青春は口から煙を、天に唾するかのように吐き出した。
何も答えない彼女に対し、奏は繰り返し尋ねる。
「ただ、そこにあったから?」
ゆっくりと、だけど確実に、奏は青春を追い詰めていく。壁に手をつき、逃げ場を失わせる。どうしていいのかわからず、彼女は煙草を地面に捨て、足で火を消した。
「それだったら、あの柊でもよかった、林道でもよかった」
「柊は違ったし、林道は好きじゃなかった」
暗い目をのまま、青春は奏を見上げる。すると、そこにはただ泣きそうになっている女の子が一人、いるだけだった。
「林道は私と同じだ、好きな人がいて、でも、それでも届かなくて、やり方は違ったけど、それでも――」
「奏は奏なんだ、他の誰かじゃいけない。 私はそこらの君をアイドル視していたような連中とは違う」
そう説いたところで、奏には青春の言葉は理解できない。奏にとって、自分に好意を寄せてくる女性は皆同じに見えた。柊も、青春も、過去の女の子達も、皆、同じだった。
奏は黙って首を振る。わからないと、それじゃあ納得できないとそう主張する。その様子はまるで駄々をこねる子供のようで、青春の嗜虐心を煽る。
「じゃあ、だったら、どうして、今日ここに来たの?」
「私は林道に頼まれたから……」
「嫌いな相手でしょ? どういった風の吹き回し?」
「嫌いな相手でも、それでもアイツはもがいていた。 変わろうともがいていた。 結局のところ、一緒なのよ、みんな。 何かを変えたくて、必死なんだよ」
青春はその言葉に対し、酷く意地の悪い笑みを浮かべる。
「私は変わりたくない。 ずっとこのままがいい」
「でも、それを変えたのはあなたよ。 青春がメイの告白を受けたから」
「……あなたが変わろうとしたから」
そう答えた青春に対し、彼女は激昂する。涙をこぼし、必死に訴え始める。
「私は青春の人形や何かじゃない! 結局、自分の思い通りになる愛玩物が欲しいだけなんだ、あなたは!」
「違うよ」
酷く、凍てついた声だった。青春は自分の喉からこんな冷たいものが出るだなんて想像もできなかった。それでも、穴の抜いた風船みたいに、二人は止まらなかった。
「違わない! だから私に執着する理由もないのよ!本当はわかっているのに、見ないふりをしている」
「……違う、全部奏の思い込みよ」
痛いところを突かれた、と青春は思った。自分自身も少なからずそう思っていたことだから、うまく言い訳も反論もできなかった。それでも、この気持ちは偽りでもない、歪な自己愛でもないと、彼女は叫びたかった。
「奏は私にとって特別よ、別に空澄メイがいなくてもきっと私は君に恋していた」
口をついて出てくるのは言い訳めいた言葉で、そんな言葉では奏も動かないと青春自身もわかっていた。
「今の私はチャンスを与えられた気になって、それにしがみついてる女よ」
「……どうでもいいよ、本当、もう」
奏はそう呟くと、青春に後ろ姿を見せる。徐々に小さくなっていく背中を、彼女はただ眺めているだけだった。完全に歩き出す前に奏が見せた冷めた瞳は、青春の心をナイフで刺したみたいに痛くさせた。そうやって、澄み切った彼女の瞳を眺めつつ、心の奥底にしまった願いを青春は口にする。
「私も本物が欲しくなっただけ、なのかな」
そうやって、ひとりごちに嘲笑し、頬をぬぐった。完全な決別だと彼女は思った。もうこれで壊れてしまったのだと、多分、奏は二度と戻ってこないんだと、そう思った。愛するつもりだった、もっとたくさんのことを言いたかった。それでも、彼女を目の前にすると、急に言葉が浮かばなくなる。酷く不器用な自分になって、結果傷つけてしまう。ヤマアラシのジレンマとはよく言ったものだと、青春は感心し、あふれ出る気持ちを拭くことをやめた。
「本当の好きってなんだろうね」
以前、誰かに問いかけ、問いかけられた言葉を思い出す。
未だ答えの出ないそれを、そっと口にすると、糸の切れたように、ひざから地面に崩れ落ちた。
夕焼けは徐々に暗く、紫色に染め上げられる。枯れ葉が巻き上げられ、空では羊が泳ぐ。今頃、彼女たちはどうしているだろうか、と青春は考えた。どうしていたら、私は嬉しいんだろうと、青春は考えた。
結局のところ、そんなこと考えたところで自分が虚しくなるだけだと青春は知っていた。それでも、あの時ああしていれば、こうなっていれば、と言う妄想を止めることはできなかった。
ただ、青春は選ばれたかったのだ。空澄メイと日嗣青春を並べて、吟味させたうえで奏に自分を選ばせたかった――そんな儚くも馬鹿な願いしか彼女には存在しなかった。知らないのだ。夢の見方も、手の取り方も、彼女にそれを忘れさせるだけの時間が流れていた。過去の、過去の話だ。




