壊されたいほど焦がれている その終
扉を開き、中へと歩き出す。
冷たい秋風が吹き、林道のフワフワのボブを揺らした。
部室の中は冷え切っていて、そして暗かった。
電気をつけると、そこには窓から遠くの方を見ていてる彼女の姿があった。
肩までで切りそろえられた髪の毛にアーモンド形の瞳。
その顔がこちらを振り返る。
「……林道君、久しぶりのように感じるよ」
「そんなに日はたってないんですけどね」
林道は震えそうになる手を抑えながら、ヘラリと笑った。
「そうじゃなくて、憑き物が落ちたような君の顔を見るのが、さ」
「柊先輩はなんでもお見通しっすね」
「これくらい見ればわかるさ」
柊もまた薄く微笑み、その優しい空気に、林道は涙しそうになる。
「先輩は、私のこと、怒ってないんですか?」
「何のことをだい?」
「全部ですよ、全部」
林道はその先のことを言うのを少し躊躇ってしまう。このまま何も言わなくても彼女が許してくれることを知っているからだ。
柊愛梨が菩薩のように慈悲深いことを嫌と言うほど実感しているからだ。
少し困ったような笑顔。何度も見てきたその表情を、林道は今また目にしている。
きっと、何も言わなくても、前のようにふざけたり、笑い合ったりできる。
ずっと柊は林道に対して、微笑んでくれる。だけれども、それはやはり林道の望みとは程遠いのだ。
「――全部口にしてたら長くなりますよ?」
かすれた声が林道の喉を震わせる。目はうるみ、それが夕日の色を浴びてオレンジ色に輝いた。
「うん」
柊はやはり困ったように笑いながら、そう一言だけを口にした。
「……私は、先輩と薄雪が上手くいかなければいいと思いました。 先輩が薄雪のことを好きなのはすぐに気づきました。 だって、あのころの先輩はずっと薄雪のことばかり撮っていましたから」
「そう言えばそうだったね。 もう半年も前のことかな? 君も入学したばかりだった」
「……だから、私はなんとか先輩と薄雪のことを引き離せないかを考えていたんです」
林道は思い出す。昼下がりの温室で、草むしりをしていた時のこと。横目で、柊に被写体を頼まれている薄雪の姿を恨めしく見ていた。思えばそのころから、薄雪奏のことが嫌いだったのだと思う。
「そこで使ったのが日嗣先輩が偶然撮影した写真でした。 上手いこと角度によって二人がキスしているように写真。 それをとりあえず先輩たちのファンの間にばらまいたんです」
部室でこれ見よがしに置かれていたその写真は林道にとってはまるで急性のカギのように思えた。ただ、現像して先輩をからかうために置いたものだろうけれども、結局柊先輩はそれを見つけることはなかった。その写真は全校生徒の間で噂になって、ようやく見たんだった。
「驚かないんですね」
「……まぁ、ね」
いつの間にか、柊の顔から微笑みは消えていた。
ただ、林道の話に聞き入っていたからか、怒りの線に触れていたからか、彼女には判別不可能だった。
ただ、柊の真剣なまなざしは林道の心を引き締まらせた。
「僕はね、林道怒っているんわけじゃないんだ」
「……知ってますよ、先輩優しいですものね」
「優しい、ね」
「だから薄雪奏だった」
そう、林道は空気を掻き切るように言葉を発する。それに柊は八っとしたような表情を浮かべた。
「驚いたな、林道は何でも知ってる」
「だてに先輩のこと、ずっと見てませんよ」
「それはそれは、先輩思いな後輩を僕は得たもんだ――おっと、林道と僕は違う部活だったね」
「違う部活でも同じ部室だった」
「そうだね、そう考えると接点はたくさんあったんだろうね」
「あったんじゃないんですよ、先輩の場合は」
「どういうこと?」
「先輩の場合は皆が接点を持ちたくて寄ってくるんです」
そして、私もそのうちの一人だった、と林道はそっと心のうちで付け加えた。
「でも、薄雪奏は違った。 彼女は先輩のことはどうでもよかった。 特に他愛のない上級生の一部でしかなかった」
「……そうだね、彼女はずっと遠くの方を見ている変わった女の子だった」
「だから恋をした」
林道は素早く柊の言葉に続けた。
柊は彼女がそう言ったことに何の驚きも見せず、ただ穏やかな微笑みを浮かべているだけだった。その事が林道にとって気に食わなくて、たぎるような悪心を抑えて話をつづけた。
「薄雪奏は先輩にとって珍しかった。 先輩にとって都合が良かった。 薄雪奏はちらほら噂がありましたからね、一年にカッコいい子がいるって。 先輩はそうは思っていなくてもみんな思いますよ、一年の美少女と二年の人気者、あぁ、お似合いだ、だったら私には無理なんだって諦めてくれる。 だから先輩は薄雪奏と仲良くしようと思った。 そのうちに好きになったのかもしれないですね」
「違うよ林道」
小さく柊はそう呟いた。聞こえてはいた、しかし、林道はそれを無視し、言葉を発し続ける。
「でも、先輩は振られてしまった。 その上、写真もばらまかれ、校内はその噂で持ち切りになる。 もちろん先輩は被害者で、薄雪奏は加害者で、先輩は傷心中として周りから距離を置こうとした。 それでもそれももう使えなくなる。 するとどうでしょう、先輩はまたちやほやの渦の中に戻っちゃいます」
「違うんだ林道」
「先輩は嫌だったんでしょう? 今の自分が、今の周りが、だから薄雪奏を使って、恋することを使って、周りから離れようとした! でももうそれも終わりだ、だから、だから私が――」
「林道!」
鋭く、だけど怒気を感じさせず柊は林道を遮った。その空気に林道は言おうとしていたことすらいえず、ただ蚊の鳴くような声で柊に投げかけることしかできなかった。
「……どうしてですか?」
沈黙が部室の中を包んだ。オレンジ色の光が床に差し込んでいるのを林道は見つめることしかできなかった。ただ、目の前にいる最愛の人が話し始めるのを待つだけだった。
「熱くなったら止まることが出来ない、それは悪い癖だよ」
幼児をあやすように、もしくはたしなめるような優しい表情だった。
それを見て林道はやはり、彼女は落胆した。怒ってほしかった。なんてこと言うんだ、とぶつけて欲しかった、せめて図星であってほしかった。
「何が違うんですか、先輩」
「そうだね、林道の話していること、話そうとしていること、全部だよ。 林道、僕にとって理由はどうでもいいんだ。 僕が彼女に恋をして、振られた。 それだけのことで、周りはこれぽっちも関係ないんだ」
「優しいですね」
「優しくなんかないさ、ただ――」
「困っているだけ?」
「そうだね、それがぴったりだ、やっぱり君は僕のことを善く見ている」
柊は嬉しそうな顔でニッコリと笑顔を作る。
林道もそれに釣られて笑顔を作ろうとした。
「先輩は、今も好きなんですね」
笑えない。林道は自分の顔が泣きそうになっていることに気づいた。肩を震わせ、吐息は荒く、瞳はうるんでいて、みっともない自分が窓に反射して、そこにいた。
「うん、僕は彼女のことが好きだ」
それを聞いて、そしてそれを聞いてなお、未だ自分の気持ちが変わらないことに対して、林道は涙した。
「どうしてですか……」
独り言だった。これは独り言で、林道にとって目の前にいる柊は関係ない事だった。
自分に問いかけるように林道は言葉する。
「どうして、先輩の中からあいつが消えないの?」
「……林道」
「どうして! 愛梨さんのこと、嫌いになれないの?」
どうせ叶わないなら嫌いにりたかった。色々、彼女のことを深読みして、嫌いになる理由を作ってもそれでも、それでも林道は柊のことが好きだった。
どうしようもなく好きだったのだ。
柊がゆっくりと歩み、林道を抱きしめる。
「それが好きになるってことだよ、林道」
柑橘系の爽やかな香りと頬に感じる熱い体温を林道は感じた。
嬉しいやら悲しいやら、色んな気持ちが入り混じって林道の頭はパニック寸前だった。
柊の腕の中はとても心地が良かったし、それだけで幸せな気分になれる。
「こんなことされたら……」
「林道、僕はね、誰でもいいわけじゃないんだ」
「知ってますよ、でも」
柊の首筋から感じる体温を感じながら、林道は大きく息を吸った。
「こんなことされたら、もっと好きになっちゃいます」
きっと見えないところで柊は困った顔をしているんだろうなと、林道は思った。
彼女は優しいからきっと私が傷つかないように上手く断ってくれる。
「困ってます?」
「……そうだね、困ってる」
「でも好きなんです」
でも、それでも、恋は破壊なのだ。二人の関係性を壊し、新しいものへと作り変える。そうやっても元にも戻ることはない。林道はそれを良く知っていた。
柊がふーっと大きな息を吐く。
林道にとってはそれだけで答えには十分だった。
するりと腕の中を抜けて、彼女と彼女は向かい合う。
「先輩の腕の中は名残惜しいですけど、こういうことはちゃんと目を見て言わないといけないと思うんです」
柊は何も言わなかった。それでも林道は良かった。彼女がここにいて、今から言うことを聞いてくれる。それだけで意味があった。
「柊愛梨先輩、私は先輩のことが好きです。 これからもずっと好きでいるつもりです。 付き合ってなんて言いません、今の私にはきっとそれはとても難しいからです」
涙を拭き、今できる精一杯の笑顔を作ってのラブコール。やっといつも通り、ヘラリと林道は笑った。
「だから、一つだけ」
窓から差し込むオレンジ色の光に反射して、柊の短い黒髪がキラキラと反射する。
林道の眼鏡もまた、きらりと光り、その奥の猫のような目は線を描く。
ただ一言。林道は大きく息を吸う。
「私、やっぱり先輩は髪の長かった方が可愛いと思います」
彼女は思い出した。初めて柊にあった日、その長く艶やかでサラリとした黒髪に心惹かれたことを。
始まりは本当些細な憧れだったのだ。憧れに始まり、恋に落ち、そして破れる。好きであることが幸せならば、好きだったこともいつか幸せになる。
終わることが、報われないことがわかっていることでも、いつかそれが思い出になって、笑って誰かに話せるようになるのだ。
林道はそう思いつつも、とても、とても泣きたくなった。最愛の人の穏やかな顔で優しい微笑みが目の前にあったからだ。
しかし、現実は否応もなく林道の目の前に立ちはだかる。
「……私は今の方が気に入ってるんだ」
そっと、諭すように彼女はそう言った。
あぁ、知っている。林道は心の中で呟いた。彼女がああいう優しい表情をするときは決まって困っている時なんだと、林道はすでに知っていた。
「そう、そうですよね。 先輩」
それ以上、彼女の口から言葉は出ず、ただ嗚咽と激しい吐息だけが空気を震わせる。
何も言いたくはなかったが、林道は叫びだしたい衝動に駆り立てられてる。
言葉にならないこの思いを全部晒して、笑ってもらって、素直になって、それで――それで、――
「やっぱり、君は僕のことをよく見ている」
涙はとめどなく流れる。林道の頬は絶え間なく濡れ、まるで、降ることをやめてしまった空の代わりのようだった。その一方で、柊はやはり、困ったような微笑みを残しながら、ただそこに立っているだけだった。
季節は変わり、二人の関係性もまた同じようにして変わった。だけれども決して交わることなく、触れ合うことなく、林道ハルの恋は、愛は一方通行のままそこに残されたのだった。
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