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ユダツリーは花を咲かせない。  作者: ゆりーいか
第三部
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壊されたいほど壊れている4

 できるならば、このままどこか遠くに行ってしまいたい。彼女の前から今すぐ消え去りたい。林道はそう戦慄する。目の前に立つ日嗣青春の黒く濁る瞳は、まるで自分の全てを見透かしてしまいそうで、とても、とても嫌悪感を感じていた。

 レンズ越しに目が合うだけで、林道は体が底冷えするかのような感覚に陥る。それは、カエルが蛇に睨まれた時のようだ。つまり、今の彼女には日嗣の脇を通り、足早に駆けていくことも、何か文句を言ってやることもできなかった。時間が止まってしまったかのように、ただ立ち尽くすしかなかったのだ。


 林道は後悔していた。こんな所でいじけている場合ではなかったのだ。一人でセンチメンタルに浸っている場合ではなかったのだ。いつも通りへらへらした態度で、薄雪奏と共に教室に戻っていればよかったのだ。なぜ、彼女が来るかもしれないと想像できなかったのだ。

 薄雪奏に何かアクションを起こせば、日嗣青春がやってくることは簡単に考えられる。それぐらい、今の彼女はイかれているのだ。

 薄雪奏に、イかれているのだ。


 日嗣青春の厚い唇が動いた。そこからの言葉が林道の耳にまとわりつく。彼女は震える手を抑えて、キッと目の前を睨みつける。

「林道ちゃん、名前を知っててくれたのね」

「そりゃそうっすよ、いっぱいお世話になりましたから」

 にやにやと笑いながら日嗣は髪を掻き上げる。林道は彼女を見るたびにその髪の毛を邪魔だなと考える。もともとは髪の長さにあこがれていたとしても、許容量がある。

 白い歯が日嗣青春の口から見え、チロリと赤い舌が覗いた。なんてことないその光景でも、林道の背筋をゾクリとさせるには充分だった。

「私は何もしていないけれどね、あなたが勝手にお世話になっただけ」

 死んだように生気を灯していない瞳。まるで人形のようなそれに私が映る。

 自分を奮い起こすように、ニヤリと口角を吊り上げてから私は詰まりそうな言葉を吐き出した。

「……先輩こそ、私の名前知ってたんすね」

「色々と林道ちゃんのことは聞いたからね」

 彼女は今、何を見ている? 何を思っている?

 そう目の前の相手を冷静に分析しようにも、彼女の脳はショートを起こしたように同じ問いがループし続けた。

 自身の息遣いがやけに聞こえて、焦っているのだと言うことを自覚させられた。


 少しだけ間をおいて、日嗣青春はまた口を開く。

「――私たちのことで色々と暗躍しているってね」

 それは林道が行ってきたこと全てを指している。

 きっとこの人は始まりから今までの罪について、全部わかっているのだ。そう悟り、林道は泣きそうな目で彼女を睨みつけた。

「そりゃどうも……っすね」

 止まりそうになる思考をフル回転させ、しどろもどろになりながらも林道は答える。

 そもそも日嗣がこれまでのことをわかっている、と言うのは自分の中での仮定である。林道には日嗣青春のことを過大評価している傾向があった。それを彼女もわかっていた。

 だがしかし、彼女が何を知っていようが知っていなかろうがこちらから語らないに越したことはない。

 だから、余計なことは言ってはいけない。彼女は決意し、唾を飲み込んで日嗣青春をきちんと、眼鏡のフレーム越しに捉える。

 乗り切らなくてはいけない。彼女は私にとっての壁だ。

 そう意気込みを新たにすると同時に、日嗣青春は口角を吊り上げた。


「何をそんなに怖がっているの?」


 そこまで真っ黒な瞳が林道を覗いていた。まるで嘲笑するように、まるで微笑むように彼女は問う。『何が怖いの?』と。

 心中を全て暴かれるような気持ち。薄雪奏はこんな人と長く一緒にいたのか。林道は驚愕する。

 そして、覗き込まれた心は少しずつ感情をあらわにするのだ。

「……私が怖いのは、大切な人に忘れられることです」

「それは、柊愛梨さんのことかしら?」

 穏やかな、余裕を感じさせる顔つきのまま、日嗣青春はその名前を口にする。その瞬間、林道の瞳に炎が燃え盛る。

「先輩は愛梨と仲良かったですよね!?」

「……愛梨。 そうね、かなり深くまで、ね?」

 彼女の頭は沸騰しそうな熱い。肥大化する気持ちに脳が追いついていない。心ばかりが先行して、本当に大事なものは潜航する。

 眉間に皺が寄っているのが林道自身もわかっていた。無意識のうちに、先程より強く、日嗣青春を睨みつけていた。

 だけれども、彼女は微動だにしない。叫びそうになっている林道とは打って変わって静かなままだった。

「別にあなたをとって食べてしまおうなんて思っていないわ」

「空澄メイにも手を出したくせに、信じられないっすね」

 クラスメイトのあの子。この化け物に思いを寄せる迷える子羊。純粋で無垢なあの子にいつか添えられる牙を思うと、少しだけ林道の胸は痛む。

 だけれども、返ってきた答えは少し違っていた。

「あの子を食べるなんて論外よ、だって私には毒だもの」

 日嗣青春の眉が少しだけ歪み、目と目の間に皺が寄せられた。

「あくまで、私にとって目的は奏。 薄雪奏以外は何も見えていない」

 林道にとって薄雪奏が毒である様に、日嗣青春にとって空澄メイは毒。

 林道にとって空澄メイが道具であるように、彼女にとってもあくまで道具に収まる。

 日嗣青春が言いたいのはそういうことなのだろうと林道は推測する。しかしそうだとしても、彼女の中にも疑問が残る。

「だったら私の前になんで現れた? 私があいつを泣かせたから?」

「そうね、それもあるわ。 だから、あなたをここで折檻しても構わないのだけれども、そんなことをしても意味がないでしょう?」

 日嗣青春による折檻、考えるだけで林道は吐き気を感じた。


「……私を汚せば少しは意味があるんじゃないっすかね」

「あなたに少しは興味があればね、でも、私はあなたに一切興味がない」

「じゃあさっさと去ってくださいよ。 ずっとここでお話ししていても仕方がないでしょう?」

「私はいろいろ知っているのよ、あなたが空澄をけしかけたことも――奏を私にけしかけたことも」

 やはり、彼女は知っている。林道の知られたくない、とても罪深い行いを。

「何処から知ったんっすかね。 私誰にも言ってないんですが」

「見ていればわかるわ」

 彼女のその深い黒色の瞳はずっと林道を見つめていた。長い睫が上下しても、途切れることなく彼女を捉え続けていた。

 白い歯がむき出しになって、赤い舌が唇を舐める。

「だから、私と奏をくっつけてくれたことに関してね、お礼をしたいのよ。 極上のお礼をね」

「……私があいつに何か言わなくとも、いずれはこうなってたすよ」

 結局、林道がしたことは時期を早めただった。

 いずれ、薄雪奏は日嗣青春と出会っていたし、空澄メイは日嗣青春に思いを伝えていた。

 ただ時期が遅いか早いかの話だ。きっと彼女にもそれがわかっている、わかっていてなお、林道に提案しているのだ。

「私はお礼なんて欲しくないっす。 それも、あなたからのなんて」

「いいえ、林道ちゃんには受け取ってもらわないとね、気が気でないわ」

 受けないと言う方法や逃げると言うことはやはりできそうにない。日嗣には裏があると林道は睨んでいた。裏の裏は表だと言うがそんなことはない。裏の裏にはもっとえげつないものが潜んでいるものだ。

「……内容は?」


「あなたに、柊と仲直りをしてもら――」


「必要ないっす!!」

 聞いた瞬間、その言葉の断片を理解できた瞬間、彼女はトイレに響くほどの大きな声を出していた。

「……その場を提供してあげようって言うのよ、優しいでしょ?」

 肩で息をしながら林道は日嗣を睨む。犬歯をむき出しにして敵意を露わにする。

 やはり日嗣青春は自身に対して悪意を持っている。そう強く彼女は感じていた。いつも余裕ぶった態度で、こちらを見下していて、嘲笑していているように見えるのを、とても、とても不愉快に感じていたのだ。

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」

 日嗣青春の毒のような言葉が脳を汚染する。それは甘言であり苦言でもある。微笑みを浮かべ、悪魔のようなことを囁く日嗣青春は、林道にとって紛れもない敵だった。

 なにが折檻しても意味がない、だ。林道はため息を奥歯でかみ殺す。本当は、薄雪奏を苦しめた自分を同じように苦しめたくてたまらないのだと、気づいたのだ。


 思い返せば、林道が初めて日嗣の存在を知った時からそうだった。彼女が立ちたくて仕方がない場所に、いとも容易くいる日嗣の存在を知った時からそうだった。彼女はそれを感じるたびに重くて暗い気持ちを日嗣青春に向けるのだ。

 柊愛梨と話している。戯れている。――体を重ねている。

 そんな日嗣青春が邪魔で仕方がなかった。恋敵の薄雪奏に感じるそれとはまた違う苛立ちだ。だけれども、それは自身に対してもそうだった。

 少しでも勇気を出せば、柊先輩の横にいるのは日嗣青春ではなく、林道だったかもしれない。

 彼女を慰める名目で触れることを許されたのは林道だったかもしれない。

 心の隙間を埋めるために頼った相手が林道だったかもしれない。


 ありもしないもして貸し手を思い浮かべるたびに、林道は罪悪感と後悔で胸が押しつぶされそうになる。


 ――私は何を彼女に感じる。

 林道は真っすぐと彼女を捉える。

 視線の真ん中で、日嗣青春は軽薄な笑みを浮かべていた。

 それを睨みながら、林道は自身に問いかけた。


 ――恐怖? 罪悪感? 嫉妬? 羨望? もしくはその全てか?

 苦手な煙草を燻らせる彼女に私はなりたかったのか?

 それはきっと違う。私は私でありながら、彼女の傍に立ちたいのだ。彼女の特別になりたいのだ。

 ――たとえ、そこに越えられない壁や溝があったとしても。


 日嗣青春の、彼女のどす黒い目が林道を見つめていた。

 おびえることはないと、彼女は息をゆっくりと鼻から吸って、意識を落ち着かせる。大丈夫だと、彼女だって人間だと、私と何ら変わらない生き物なのだと、言い聞かせる。

「そうやって黙っても何も変わらないわよ?」

「別に私は仲直りしたいわけじゃないんですよ、先輩」

「知っているわ、好きな子に意地悪するようなものでしょう? 林道ちゃんのは」

「違いますよ」

 そう、彼女は知っている。

「私は、彼女に――柊愛梨に嫌われたいんです。 嫌われて嫌われて、彼女の心の一部に永久に悪意として居続けたい」

 彼女は永遠に叶わない恋の中で生き続けたかった。底の見えない深い深い海へと沈んでいきたかった。だから、ずっと遠ざけて近づけないようにしていたのだ。

「それが私の愛です」

「叶わないならせめて相手の中に居続けたい、ね」

 思うところがあるように、彼女は呟く。

「そうですよ、それの何がいけないと言うのです?」

「いけないなんて言ってないわ、ただ――」

 そうやって彼女が言葉を区切った。だから林道は聞き返す。

「ただ?」

 何を続ける気なのだろうか。林道はそれを知るのが怖かった。何の理由もない漠然とした恐怖が胸の中を渦巻いていた。

 何をどんなふうに切り替えても、この目の前にいる女性は計り知れないのだ。

「なんでもないわ。 でも、あなたには柊愛梨に会ってもらわないといけない」

 日嗣青春はお茶を濁す、まるでそこに何か重大な続きがあるかのように。

 今は、向かい合わなくてはいけない。もう何度目の意識の切り替えだ。何度この人と向かい合おうと林道は思ったのだ。 


「会うつもりだったら全然ありますよ」

 林道は嘘を口にする。そんなつもりがないことは、お互いにわかっているというのに、止めることはできなかった。

「それは、嫌われるため?」

「そうですよ、それ以外に何があるっすか? 私はそれを生きがいにしているんすから」

 また、でまかせだった。何度自分に嘘をつけば気が済むのだろう。林道は自身のふがいなさに唇を噛む。

 そして、日嗣青春の眼にはいったい何が見えているのだろうかと、ふと思った。ずっと自分を見たままで一瞬たりとも見逃さない。じっくりと隅々まで観察するその目を通して、自分がどう見えているのか、それが少し、知りたく思ったのだ。

「……別にあなたが愛梨に対して何をしても変わらないわ」

 静かに日嗣青春は言った。その言葉は林道の脳天にクリーンヒットする。 

「さっきまでと大違いですね、私に仲直りをしてもらうんじゃなかったんすか?」

「そうね、それはまぁ、嘘も方便やらなんちゃらね。 私は義理を通しただけよ」

 彼女が義理を通す相手なんてたった一人しかいないだろう。彼女に恩を売った人、そんなのは聖人の彼女しかいない。


「義理! 柊先輩に対して?」

 林道は声を大にして叫んだ。それは狭いトイレ中に響き渡る。

 頭に血が上った彼女に対して、日嗣は冷静そのままで、ため息のように小さく空気を吐き出す。

「あなたに対してよ、林道ちゃん。 今は部活も出る気ないんでしょう? 私があなたと彼女の都合、点けてあげるわ」

 彼女と話していると調子が狂う。林道にとっての隠したい気持ちや言葉が、全部さらけ出されてしまう。そんな日嗣の恐ろしさを感じて、林道は我に返る。だから、皮肉交じりに言葉を放つ。

「それはありがたいですね!」

 しかし、それは虚勢でしかない。日嗣青春はヘラリと笑った。

「自分でも気づいていると思うのだけれども、あなたのそのキャラ設定、興奮すると忘れているんじゃないの?」

 キャラ設定、偽りの仮面、自分に塗りたくったメッキ。自分を自分じゃなくすればきっとダメージは少ない。人生はきっと生きやすくなる。そんなモットーを持っていた林道は唇をかみしめた。。


「口癖? いえ、何というのかしらね。 語尾、かしら」

 日嗣青春は、ポケットからライターと煙草を取り出して口にくわえた。その行為が癖になっているからか、それが様になっていて何とも腹立たしい気持ちを覚える。

「……私のことはハルって呼んでくださいッス」

 彼女は本当に嫌な女性だと林道は眉をひそめた。もはやぐうの音も出なかった。最後の最後に出た言葉はもう蚊の鳴くような声で、きっと林道にしか聞こえていない。


「義理もすたればこの世は闇ってね。 じゃあね、林道ちゃん。 また連絡してあげるわ」

 煙と一緒にそんな言葉を残して、嵐のようなその女性はトイレの窓から去っていくのである。嫌いだ。嫌いだった。

 でも、こんな気持ちを覚えるのも仕方ないことなのだろう。


 人を本気で好きになってしまったのだから。


 鳴り響くチャイムと共に、林道は嗚咽を漏らす。頬を濡らす涙はいったい何度目の涙だろう。もう、彼女の胸が痛くて仕方なかった。本当は、柊に嫌われたくないということが浮き彫りになっていた。だから、ただ、涙を流す以外、なかったのだ。


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