壊されたいほど焦がれてる 3
彼女はかつて煙草を一本吸ってみた事がある。それは親からくすねた一本だった。それは彼女にとってとても苦く、煙たくて、何度も咳き込んでしまった。
そんな出来事を脳裏に蘇らせながら、林道は苦笑した。ーーどうしてこんなことを思い出してしまったのか、大嫌いな煙草のことなのに。
彼女はよく同じ夢を見る。それは胸に大きな穴が空いている夢。ハートの形をした穴はそこにあるのが当たり前のように存在していて、夢の中での林道はは当たり前のように過ごしている。そして大嫌いな煙草を吸うのだ。さらに時折、夢の中で風が吹くと、穴がびゅうびゅうと鳴く。彼女はその音が嫌いだった。
だけれども、夢の中での彼女はそれに合わして歌うのだ。
『マリア様の心、それは白百合』
夢の中で口ずさむ歌の中に、そんな一節がある。白百合、純潔と無垢が花言葉。薄雪奏が聞けば、真っ先にあの子のことを思い出しそうな、そんな花だ。
だけれども林道ははその花を聴くたびに柊愛梨のことを思い出した。純潔で真っさらに無垢で、そしてお茶目で一途。
純潔故に私は近寄れなくて、無垢故に私は否定される。
どうして私は思い出したのだろう、そんな具合に林道はいつも夢のことを思い出すたびに後悔した。思い出してしまうと、それに伴って今だに体からタバコの臭いがするような気がしてならない。髪にこびりついた不潔。服にこびりついた不潔。心に染み付いた不潔。だけれども、純潔の彼女はその不潔を求めているのだと林道は知っていた。
彼女はいつもこう思う。胸の穴は現実世界でも空いている。目には見えないが確かに空いている、と。
そして、またこんな疑問を自分に投げかける。空いているのだとしたら、そこにあったもの、あるべきものはなにだったの?
風が吹くたびに、胸の穴が鳴いている。彼女はそんな錯覚に陥って、夢の中にいるような気分になる。
林道が胸の穴に対して言えるたった一つの確実なこと、それは胸を埋めるのはタバコの煙ではなかったということだ。
煙はどんな隙間からでも漏れ出してしまう。
暗くてジメジメした一階のトイレ。薄雪と柊が去った後、林道だけが残っていた。授業はとっくに始まっていたが、彼女にとってはそんな気分ではなかった。
薄雪奏は怒っていた。柊も怒っていた。きっと全てを聞いたなら空澄メイも怒るだろう。彼女の心は罪悪感に囚われる。
「マリア様の心、それは白百合……か」
きっとマリア様はどこにもいない。神様もお釈迦様も存在しない。存在しているのは人だけだ。彼女は声には出さず笑った。薄く作られたその笑顔は寒々しい。
ふと、彼女の眼に地面を這っていたよくわからない虫が目に留まった。それを何の躊躇もなく踏みつぶして、今度は声に出して笑うのだ。その虫の体液は靴について、地面に飛び散っていて、残骸は見事にひしゃげていた。彼女はヒステリックに笑いながら思う。この虫はきっと未来の私だ。死んで、なおピクピクと手足を動かしているのはこの私なのだ。
誰かの足音がした。間違いなくこの場所に向かっているが、授業中にこのトイレに来るような生徒はいないはずである。だとしたら、先生以外考えられない。隠れるために林道はそっと個室に入り、鍵を閉めた。
四方を塞ぐ無機質な壁がどこか彼女を落ち着かせるが、冷静になったその頭で見えてくるものもある。
扉を閉め、鍵を閉めたということは、ここに近づいてくる足音に誰かがこの個室にいるぞ、という証明になってしまうのではないか、と。
足音の主は、彼女の想像通りにトイレの中に入ってくる。そして、コンコン、とカギのかかった個室の扉をたたくのだった。。
誰かが林道を呼んでいた。だけれども、彼女はその音に何かを返すつもりはなかった。
沈黙は金だと、このまま黙っていたらきっと諦めて帰るだろうと、林道ハルタマはそう思ったのだ。
しかし、その予想と反して音の主が去る様子もなく、数分間が過ぎた。
もう一度扉がノックされる。薄い隔たりの向こうにいる人はどんな表情をしているのだろうかと、彼女はうっすらとした恐怖を覚えた。トイレに入りたくて急いでいる、なんてことはないだろう。今この場所にいるのは彼女と、扉の向こうにいる誰かないしは誰か達しかいないのだから。
彼女は少しだけ覚悟を決めてそっとノックをする。静寂が破られて無機質な音が残響する。薄い煙草の匂いが林道の鼻を嗅ぐわした。
彼女の目の前で閉めたはず鍵がゆっくりと回る。新しい設備とも言えない内掛け式のそれは独りでに回り始めて、彼女に混乱を与える。彼女の脳みその中で赤信号が鳴り響いた。
音を立てて扉が開き、目の前に黒が迸る
「ねぇ、知っていたかしら。 こういうタイプのドアって十円玉で簡単に開けられるのよ」
。
長い黒髪、生気のない黒く濁った瞳。グラマラスな体。黒いストッキング。そんな身体的情報が視界になだれ込む。
林道ハルタマはその女性の名を知っていた。今回の騒動の原因になったうちの一人の、その女性の名を。
「……日嗣青春」




