透明な嵐は私に慟哭を促す その5
「久しぶりだね」と彼女が声をかけてきたのは翌日の昼休み、温室でのことだった。振り向くと同時に、パシャリと撮影音がした。
一眼レフのレンズが私を覗き込み、キラリと反射する。
「どうしたのさ、愛梨」
「別に、見かけたから声をかけたのさ」
カメラの向こうから、彼女がほほ笑む。その姿に私は息をのんだ。
「……髪、切っちゃって」
背中ほどまであった髪が、肩までのおかっぱになっていた。切りそろえられた前髪に、黒い目がこちらを覗く。
「ちょっとした気分転換。 君にはあんまり関係ないよ」
「奏を意識した?」
私がそうやって卑屈に笑うと、愛梨は少しだけ眉をひそめる。
「そう、かもね」
「肯定するのね」
「まぁ、否定しても意味ないしね」
「否定しても事実は変わらない。 振られたっていうね」
そんな軽口を言って愛梨を困らせたがるのは、一種の自己嫌悪だろうか。
私はポケットから煙草を取り出して、口にくわえた。
「そっちこそ、なんかアンニュイな雰囲気を醸し出してさ。 元からダウナー系なのはわかるけど、今日はそれが一層磨きがかかっているというか、なんというか」
愛梨は私の軽口を流し、短くなった髪を撫でた。まだ、その感触に慣れていないのか首のあたりを良くさすった。
私はライターの歯車を回し、火をつける。
「恋をしたのさ」
「それは僕と同じだ」
「同じだった、でしょ?」
煙を宙に霧散させながら燃えるそれを私は肺へと取り込んでいく。口元を歪めながら愛梨に言うそれは自己嫌悪よりも八つ当たりに近いものか。
愛梨はアーモンド形の瞳をパチクリさせながら楽しそうに笑った。
「まさか日嗣が恋をするなんてね、僕もびっくりだよ」
まぁ、当然と言えば当然だ。私の普段の行いを知っている者なら皆同じような反応をするだろう。
「で、お相手は誰だい? もしかして……、いや、よそう」
「どうして止めちゃうのよ」
「笑えないからさ」
「笑ってよ」
少しだけ、愛梨は眉に皺を寄せる。それでも私は彼女に縋るように懇願した。
馬鹿みたいで、自分の感情一つ上手く操縦できない私。わかったふりをしているだけで、本当は何もわかっていない私。そんな私を誰かに笑って欲しかった。
どこまでも被虐趣味な私を、私自身はいつものように笑い嘲ることができない。自分を笑い飛ばすことが出来ない。矮小で、醜い自己承認欲求であるその願いを私は否定することが出来なかった。
「煙草、止めた方がいいんじゃないの?」
「いまさら、だよ」
「きっと、煙草をやめることは私の今の生き方を否定するみたいなものだから……」
そうだ、今では慣れてしまったこの煙も、ずっと昔は咳き込みながら吸っていた。煙草を吸うことになったきっかけ。数年前の出来事に私は思いをはせる。
ある人に憧れた。その人が煙草を吸っていた。そして、その人に振られた。
あの時抱いた感情は恋だ。そして、今抱いている者も恋だ。それが偽りの感情でも、そうでなくてしても。彼女のことが欲しくて欲しくてたまらない。それを言葉に直すと恋以外に名前はない。
「君は世界を難しく考えすぎなんだよ」
「愛梨は世界がわかりやすいように見えているんだね」
「どうかな、難しいところだね。 少なくとも日嗣のことは全然わからないや」
愛梨はヘラリと笑ってそう答えた。
私にも、昨日からの私のことがわからない。嫌いだ、本当に。
煙草の灰が落ちる。吸っていないまま零れ落ちたそれは地面に当たって砕ける。
「わからないよ」
愛梨は短く切った髪を手で撫でつけた。伏せた目に、キュッと噛み締められた唇。彼女が繰り返して言ったその言葉にはどんな意味が含まれていたのか、それを私は考えることもなく呟いた。
「わかりっこないから」
乾いた口は塞がることなく、私は再び、激しさを増して言う。
「愛梨なんかに私の事なんてわかりっこないから」
「日嗣……」
戸惑うように、愛梨はスカートの裾を掴む。
「私には何もないから、私はないから。 何もないモノのことなんてわかるわけないでしょ」
「だったら、どうしてそんなに苦しんでいるの?」
私が叫ぶように彼女も感情をあらわにして言う。きっとそれは苛立ちと、嫌悪だ。
「日嗣にわからなくても、僕ならはっきり言える」
「……言って見せてよ」
「汚く、穢れようとして来て生きていたのに、恋をしてしまった。 だから苦しいのさ」
それは私の言葉をもう一度持ち出しただけだ。そうだ、それは私の言葉だ。
「初めに言ったじゃん……、そんなこと。 知ったからぶらないでよ」
「君が苦しんでいるのは、恋をしたせいで穢れていた自分を本当に否定しているからだ」
愛梨は真っ直ぐに私の眼を見つめる。彼女のその瞳に一瞬、奏の姿が重なった。
「……知ってる」
そうだ、本当は知っていた。気づかないふりをしていた。
「本当に?」
「知ってる!」
私は自分で気づいて、自分で気づかないふりをしていた。本当、面倒くさい人間である。弱い人間である。醜い人間である。似たようなやり取りを散々交わして、逃げられない事、現実は、過去は変えられないことに気づいたふりをしていたのだ。
そうだ、変えられない。
私の醜さは変えられない。
「じゃあ、どうするつもりなの?」
愛梨は静かに、溢れそうになる何かを抑えるように私に聞いた。
「手に入らないものが目の前にあって、どうしてもそれが欲しかった。 君ならどうする?」
彼女の目に映っているのは本当に私なのだろうか。私の方を向いているにもかかわらず、彼女の視線は虚空へと釘付けになっていた。
「……僕は失ったよ。 僕には僕しか見えてなかったから失敗したのさ」
どこか微笑みながら彼女は呟いた。それに合わせて私も笑みを浮かべる。
「愛梨は、愛梨は本当に良い奴だよね、私と違って、ね」
柊愛梨は良い人間だ。真面目で、等身大で、素直で――
「どうするのかって愛梨は聞いたよね。 私は決めたわ。 壊すのよ、私は全部。 まるで子供が癇癪を起したみたいに。 手に入らないなら、いっそ全部壊してしまえばいい。 ぐちゃぐちゃのドロドロにしてしまってその中で、一生溶け合って入れればいい」
ベッドの上で交わした彼女との会話もだいぶ前に思える。私は彼女に解いた私への問いに今なら答えられる。
「この前話したこと、覚えてる? ……それが私の思う、本当の愛よ」
陰り。愛梨と私を影が飲み込む。暗くて、酷い顔をしているのだろう私は。
「と言っても、直接壊したりはしないから安心してね」
私が壊したいのは肉体や精神やそんなものではない。そう、もっと抽象的で絶対的なそれだ。
「それじゃ、ここで君を止めるのが僕の役目なのかな」
愛梨がそっと私を抱きしめた。バニラのように甘い匂いがした。
「止めるだなんて。 もう歯車は全部狂っているんだよ。 狂いながら、がっちりと噛み合っている。 だから、いつか壊れるまでそれは回り続ける」
私は泣きそうな顔になっている愛梨に笑いかけた。
「止めることなんてできやしない」
そうだ、出会ってしまった以上。そこに何かが芽生えてしまう以上。私達は止まることなんてできない。
「……君はブレないね」
髪の毛に、私の肩に顔をうずめた愛梨は蚊のような声でそういった。それを聞いて私は笑う。
「愛梨が何を語りたかったのかは知らなかったけどさ、立ち直らせたのは君のおかげさ」
――だから、これはお返し
私は彼女の短くなった髪の毛をゆっくりと撫でる。風が吹く。校舎裏に落ちている枯れ葉や記憶を攫って行く。チャイムが聞こえた。だけれども、私たちは動かない。抱きしめる。私はつむじに顔をうずめて、そっと接吻をした。
もう冬だ。透明な嵐は私の周りを絶えず吹いている。だけど、今の私は寒くなかった。形や方法や、思いは違っていても、私に触れてくれる人がいたからだ。友情でも愛情でもなんでもない、ただ少しの憐れみと同情だ。
本当の愛情とはいったいどんな定義をされるのだろう。今でも私はそんなものは存在しないと思っている。信じられないものを無理に信じる必要はない。
嫉妬心と独占欲、所有欲と自己承認欲求だ。それが私の愛の形だ。それを偽物だと呼ぶのなら、好きにすればいいのだ、私。




