透明な嵐は私に慟哭を促す その3
手に入らないものを手に入れたいと思っても仕方ない事だろう。
幼いころから欲しいものは自身の行いの報酬として手中に収めてきた私にとっては、手に入らないものなんてほとんどなかった。
教育熱心なように見えて、その実世間体を気にするだけの父。お手伝いさんにすべてを任せて育児放棄をし、夜な夜な遊びに繰り出す母。笑顔が張り付いた世話係。私はそんな環境の中で、周りに望まれるように生きてきた。
まるで人形の家みたいだな。幼い私はそう思った。役割だけのキャラクターは他人様から見るにはずいぶんと美しく羨ましい事だろう。上流家庭の家族像として私の家は良いモデルだ。
実態を伴わないスカスカだけの家。そこでどれだけ望まれるように努力しても『愛』と言う名の報酬はもらえなかった。
私は弱い人間だ。手に入らない愛と言うものなんて幻想、なんてまるで酸っぱいブドウじゃないか。そんな私が星の王子様のキツネを演じるだなんて無理がある。彼は大事なものを知っていた。彼には本当に大切なものが何なのかわかるのだろう。
だから私なんて、どちらかと言えばイソップ童話のキツネなのだ。
欲しくて欲しくてたまらないブドウ、だけれども手に入らないそれを酸っぱいブドウだと決めつける。目の前にそれがあっても、手を伸ばしても届かない。ただ指をくわえているしかできないのだ。
それは、それはすごく辛い。
もし私にもチャンスがあるなら、そのチャンスを作ることができるなら。私もブドウを触れてみてもいいのだろうか。もし私の言う通り幻想のまやかしだとしても、触れて味わうことが出来るならば、私は満足できるのだろうか。
風に揺れるブドウは私の方を向かない。そのことはずっと昔から知っていた。でも、それでも、私はブドウに手を伸ばし続けるのだ。
ホームルームが終わってから、少しだけ時間が経った。生憎の曇り空、夕日はどこにも差し込まない。まるで私の胸の中みたい、だなんてちょっと感傷的過ぎるか。
私は薄雪奏が好きなのだろう。きっと、春に初めて出会った時からずっとずっと。彼女はあの始まりの事を忘れてしまっているのだろうけど、私は今でも覚えている。
一階に向かうためのこの階段にだってハナズオウと、桜の木を思い浮かべることが出来る。そして、一緒にいた彼女の面影も。
誰もいない下足室。薄暗くジメジメとした空間。私は、彼女の面影と共に自分の下駄箱へと向かう。そして、開けた。
私が、自分の下駄箱に異変があったのに気が付いたのその時だ。『異変』と言っても可愛いもので、私の靴の上にピンク色の可愛らしい手紙が置かれていた。ただそれだけの異変。
もちろん、宛先は私。そして、差出人はあの子だ。私をいつも見ているあの子。薄雪奏が自分の身をささげるほどに好きで、女の子女の子した、可愛らしい彼女。
その子の名前は空澄メイ。その名前がちらつくだけで、奏の面影や桜の花弁、ハナズオウの色は私の周りから消え失せる。
果たして、私はこのラブレターをどうしたらいいのだろうか。ゴミ箱に捨てる? それとも奏の前で燃やしてしまう? もし、そんなことをしたら、空澄メイはいったいどんな顔をするのだろうか。可愛い可愛いあの顔が醜く歪んでいくのだろうか。
私はたぶん、空澄メイのことが嫌いで、ぶりっ子した彼女のことが嫌いで、きっとそれは薄雪奏が空澄メイのことを好いているからだというジェラシーから来ているもので、私はそうやって客観視できている辺りがどことなくおかしくて、笑った。
「や、奏ちゃんよ、今日もいるんだ」
校舎裏に回ると、そこにはやはり彼女の姿があった。
煙を吐いて物憂げに空を眺める彼女はこの前とは打って変わってかなり様になっていて、まるで映画の一シーンのようだった。最近は爽やかさの代わりに、憂鬱げな雰囲気を醸し出しているからだろうか。
私も、奏と同じように壁にもたれかかって空を見上げた。
「最近、彼女と一緒に帰ってないじゃん?」
「別に、先輩には関係ないですよ」
ポケットからライターを取り出して、私は煙草に火をつける。
煙草の匂いはかなり簡単に服に付く。私は良いとして、奏はいったいそれをどうやって誤魔化しているのだろうか。ふと、頭によぎった。
煙草の匂いや、あの時のキス。外在的であれ、内在的であれ、何かしらのきっかけがあれば人間関係なんて脆いものだ。
きっと匂いのせいか、付き合いが悪くなったせいか、はたまた私のせいか、彼女は空澄メイと上手くいっていないのだ。
煙をひとしきり吐き彼女は黙りこくる。何も話さない奏を横目でチラリと見て、私は意地悪く笑ってみせた。
「それが関係ないこともないんだよなぁ」
「どういうことですか?」
「どういうもこういうもさ、ラブレター、貰っちゃってさ」
胸元からピンク色のかわいらしい封筒を取り出す。その端っこのほうには、几帳面な文字で空澄メイと書いてあって、私はそれを見せつける。
「ほとんど話したこともないのにね、こんなのくれちゃってさ。 恋って怖いね。 それに今時期、ラブレターなんてさ」
曇り空にすかしても、その中身は見えない。きっと私は中を読んでみても、その中に込められた思いを見ることはできないだろう。
話したことのない下級生、空澄メイの思いなんて、私は感じることできない。このラブレターは形だけのものだ。好きという形だけをとった空っぽの感情だ。
奏なら、きっと形だけのものでも欲しいのだろう。
私を、いや私の手の中を見つめる彼女の眼は、とても鋭く、暗い目をしていた。
奏は私の手に、そのラブレターに触れるように手を伸ばした。
ゆっくりと私の手がさすられる、くすぐったい感触に私は思わずラブレターを手から放した。その代わりに奏の指が私の指に絡みついてくる。
はらりと落ちるラブレターを尻目に、奏に迫った。
目と鼻の先に目と鼻がある状況。心臓が一瞬だけ高鳴りを見せた。彼女の長い睫が二度、上下に動く。それを合図としてか血色のいい唇から、形だけの言葉が溢れはじめる。
「ねぇ、先輩。 私、今夜一人なんですよ」
暗い目をした彼女。その口を閉じさせたいから、私はキスをするのかもしれない。聞きたくないのだ、感じたくないのだ。
奏の言葉は私を傷つける。形だけの関係を彼女は求めるのだ。




