* Drown At The Midnight
リビングのソファ──コーナー部分に両脚を立てて座り、テレビの上部にある壁掛け時計が小さな音を立てて秒を数えるのを、ひとり聞いていた。
真っ暗だ。目は開いているはずなのに、ほとんどなにも見えない。見たくないだけかもしれない。それとも、実は目を閉じているのか。
時刻はすでに午前二時をまわっている。眠れなかったわけではない。アゼルが続けざまに二回もして、散々疲れさせてくれたおかげで、すぐに眠った。
だけど、夢をみた。
厳密にいえば、私の夢ではない。すごくすごく怖い夢。
おそらく──アゼルの記憶。それも、幼い頃の。
夢は、いきなりそれだったわけではない。
最初は、海だった。
数メートル先に、見覚えのあるうしろ姿があった。それと手をつなぎ、幼い女の子が立っていた。二人は真冬のビーチに立ち、海を眺めていた。なぜ真冬だとわかるのかって、雪が降っていたからだ。
女の子おそらく──二歳か三歳くらい。だが、髪は黒っぽかった。私ではないようだった。
それでも、見覚えのあるそのうしろ姿は、母親のような気がした。なぜかはわからない。もしかすると違っているかもしれない。わからない。
“それ”が、女の子に言った。
「雪が降ったら海を見なさい」
「海はいつだってそばにあるから」
女の子がなにかを言おうとしたところで、背後から声がした。
振り返ると、顔は見えなかったけれど──二人の若い男女がこちらに近づいた。
そして、私を追い越した。
視線を戻すと、いたのは女の子だけで、その子の足元にプレゼントがふたつ、置いてあった。
私が声をかけようとしたところで突然、背後から怒鳴り声がした。
また振り返った。
景色が変わっていた。
ブラウンの家具が多いらしい、昼間なのに薄暗い部屋の中にいた。
逆光でシルエットだけしか見えなかったけれど、なにかを大声で怒鳴っているのは大人の男なのだとわかった。
その足元に、身体をまるめるようにして床に倒れ、両手で頭を抱える子供がいた。
怒鳴り散らす男が、その子供を何度も蹴っていた。
何度も何度も蹴っていた。
私は、動けなかった。声も出せなかった。
だけど、ものすごく怖かった。その子が蹴られるたび、自分の身体にひどい激痛が走った。
その子の感情が、感覚が、痛みが、恐怖が、私の中に流れ込んでくるようだった。
目を開いて見ているはずなのに、“目を開かなきゃ”と思った。
必死に目を開けた。
そして、起きた。
息を切らしていたわけではない。けれど、動悸が激しかった。目を開けられてほっとした。汗をかいたわけではなかったけれど、大量の汗をかいたあとのような、奇妙な感覚に襲われた。
隣で眠っていたアゼルを起こさないようベッドを出て、落ち着かない気持ちでレストルームに行って、ここに座った。
これだけ怖い夢をみたのはひさしぶりだった。オールド・キャッスルに引っ越してきてから、怖いと思うような夢はあまり、みていなかった気がする。
今まで、真夜中の──過去にあった現実の夢をみたことは何度もあった。
夢の中ではたいてい、感覚が過去の自分に戻っているから──確かに怖い夢ではあるものの、今はもう、それには慣れてしまっていて、それほど怖いとは思わない。起きれば、“またか”と思うだけだ。
だけど、これは──。
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「ソファで寝る気かよ」
はっとして顔を上げた。奥の部屋のドアが開いていて、アゼルが戸口に立っている。奥の部屋のナイトスタンドの小さな明かりをつけているらしく、シルエットは見えるものの、表情は見えない。
「ごめん、起こした?」
「いや」彼は腕を組んで戸口にもたれた。「まだ足りなかったか」
「なにが?」
「お前、夜中に起きるタイプ? っつーか、睡眠浅いタイプ?」
「──昔は、よく起きることがあった。今はそうでもないけど──睡眠は浅い。寝る時は寝るけど、起きる時は、ちょっとした物音でもすぐ起きる」
「俺もそれ。夜中は特に」一度玄関のほうにうつした視線を、すぐこちらに戻した。「飲むか、酒」
起こしてしまったということか。「遠慮する」
立ち上がると、なぜかふらついた。身体が変だ。寒くも暑くもなくて、まだあの──大量の汗をかいたあとのような感覚が、全身に残っている。動悸がするわけではないけれど、その感覚が残っている。全身がそわそわしている。イヤな感覚。
どうにかテーブルにもソファにもぶつからず、アゼルのほうへと歩いた。
彼が訊く。「寒くねえの?」
私は部屋着に格下げしたワンピース一枚しか着ていない。思わず苦笑った。
「それが、ぜんぜん」腕をおろした彼の腰に両腕をまわし、彼に頬を寄せて目を閉じた。温かいのはベッドに入っていたからか、スウェットだからかはわからない。「寝る」
彼も私の背中に腕をまわす。
「なんならもう一回ヤるか?」
「元気すぎだよね」
「ナメんな」
意味がわからない。「──ナイフ、持ってんだっけ」
「なにする気だ」
平気なはずがないのに、平気だと言う。ただの見栄なのか、時間が経っているからか。それとも、強さなのか。
「切るのよ」と、私。
「刺すんじゃねえの?」
「誰かに殺される前に殺してくれる?」
「助けるんじゃなくて殺すのか」
「助けなくていい。助けなんかいらない。BGが、その瞬間を私の死の瞬間だって決めたんなら、それには逆らわない。でも他の奴に殺されるくらいなら、あんたに殺されたほうがマシ」
「BGってなんだ」
「ブラッディ・ゴッド。血まみれの神様」
アゼルは笑った。
「ありがたそうな存在だと思われてるけど、実は奴の半分は血に染まってるからな」
「そう。っていうか、居るのかどうかすら知らないけど。居たら憎むしかないから、居なくていいけど。で、ナイフはあるの?」
「あるけど」
「貸して」
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部屋に戻ると、アゼルはクローゼットからナイフを出した。ベッドの上に向き合って座り、私はナイフを受け取った。
薄暗くてよくはわからないが、キレイなフォールディングナイフだった。七センチほどのブレードを出せば、全長は二十センチ弱。ハンドルのベースカラーはクリーム色で、黒っぽい色がついていて、焦げているのかと思ったが違った。そう見える模様だ。どの部分にも、違った模様がある。
「よくわかんねえけど、ブレードはダマスカス鋼っていうらしい」アゼルが説明した。「木目状の模様をした鋼のことをそう呼ぶんだと。それもそのひとつ。木目には見えねえけどな」
私はブレード部分をよく見た。木目だと言われれば、うなずける気もするけれど。「どっちかっていうと、血みたいな液体? が、ぽたぽた落ちてるようにも見える」
「だよな。よくわかんね」
左指でブレードを撫でた。冷たい。
「でもこのブレードの色、キレイだよね。そこらにある安物のナイフや包丁と違って、ギラギラしてない。シルバーじゃなくて、ライトグレーっていうのかな。重みのある感じ」
「まあ。──で、なにする気?」
私は口元をゆるめて視線をあげた。
「びびってんの?」
「いや、ビビるっつーか、なにするかわかんねえって言ったお前の同級生の気持ちがわかる」
「あっそ」
左手の親指、関節から少し上。真横に一センチくらいの切り込みを入れた。
「──痛い」
「いや、なにしてんだ」
思わず笑った。「わりと痛い」以前包丁で切ったときは、これほど痛くはなかったのに。そういえば親指は、他の指よりも皮が少し厚いのだったか。それとなんの関係があるのか。「ちくちくする」切れ目がゆっくりと赤くなってくる。もう少し。もう少し。
アゼルは呆れている。「殺せとか言っといて、自分切るってなんだ」
「切れ味は最高」血が雫のように浮かびあがってきた。私は、彼に親指を見せた。「私みたいにならなくていいけど、あげる」
数秒の沈黙と共にそれを見つめ、彼は口を開いた。
「──やばい」
「なにが」
「興奮してきた」
「は?」
アゼルは私の左手首を掴み、右手からナイフを取ると、慣れた手つきでブレードをしまって脇に置いた。そしてベッドを逆さに、手首を掴んだまま私を押し倒した。片腕で身体を支えて顔を近づけ、微笑む。
「どっちが狂ってんだろうな。平然と指切って血出すお前と、その血見て興奮する俺と」
「こんなちょっとの血で興奮するのはどうかと」
「確かに」
彼は顔をそむけ、肩の前で私の親指を口に含み、舌で舐めた。
──ぞくぞくする。
私の手を握ったまま視線を合わせる。「上、乗るか」
「キライなんじゃなかったっけ。支配されてる感がするから」
「お前は自分で動いたりしねえだろ」
「っていうか座った時、動いても足りないって言うじゃん」
「足りねえ。ぜんぜん。ただお前は乗って感じてればいい」
「ドキドキしてきた。ぞくぞくしてきた」
「まだどこも触ってねえよ? キスもしてねえよ?」
「いい。とりあえずいいから、つけるのもあとでいい。お願い、ちょっとだけ」
アゼルは笑った。私の下からブランケットを引き抜いて自分の背中にかけ、服を脱いだ。
私の服も脱がせると、彼はすぐ中に入ってきた。なにもしていないのに、血が少し出た指を舐められただけで、ありえないほど興奮していた。
何度か私の身体を激しく突いてから止まると、上に乗ったアゼルはまた微笑みかけた。
「とうとう変態だな」
息が、乱れる。もう──まずい。「眠いから、わけわかんない」きもちよすぎる。
「眠いとテンション上がんのか」
言いながら身体を起こし、傍らにあったナイフからブレードを出すと、彼も自分の親指に切り込みを入れた。またブレードをしまってナイフを床に放り投げると、右手で血を押し出し、それを私の口に運んだ。
私が口の中でその指を──アゼルの血を舐めた瞬間、彼がまた激しく動きはじめた。
指を口に入れられたまま、快感に声を上げ、身をよじって身体を震わせた。気を失うかと思うほどの快感だった。
避妊具をつけ、体勢を変えると、はじめて仰向けになった彼の上にまたがった。新鮮だとかいう話ではなかった。腕を捕まれてしまえば顔が隠せない。昼間は絶対にしたくないと思った。この薄暗さでも恥ずかしい。
だけど、カラダは正直だった。
どうしようもない快感に、揺るがない赤に、ふたりで溺れた。




