* Three Seconds After
授業に出る気にならなくて、五時限目開始のベルが鳴っても教室には戻らず、ひとり第一校舎の四階へと向かった。デスクが乱雑に積まれた、一ヶ月前、アゼルとアホなことをした場所だ。
壁にすり寄るように座り、目を閉じた。左頬が触れる白い壁は、あいつの視線と同じくらい冷たい。
でもここ、いいな。サボるのにぴったりな場所だ。物置きにしかなっていないし、階段をあがるところを誰かに見られさえしなければ、ばれないだろう。三階まで来るヒトはいても、そこからさらにここまで来るヒトなど、いないだろう。黙っていれば、見つからないだろう。
学校に来たはいいものの、来てよかったのかどうか、よくわからない。
会えた。距離はあったけれど。髪の色は変わっていなかった。眼は冷たいままだったけれど。
なんだろう。試されているような、観察されているような、そんな気もする。よくわからない。
人間というのは、あんなに変わるものなのか。知ってはいたけれど、この歳になって、改めて目の当たりにした気がする。
両親の時はよくわからなかった。ただもう、怖くて怖くて。
アゼルとここで、なんの話をしたっけ。
卒業が寂しいという話。
卒業していなくても、今は寂しい。
第二ボタン。
欲しいと言えばよかったのかもしれない。なんならまるごと、くれればいい。学ランまるごと、くれればいい。ボタンもぜんぶつけたまま、くれればいいのに。
花道でキス。みんなの前で。
すごい当てつけだ。それであいつが私のものだと証明できるのなら、そうするけれど。
でも意味はない。学校の外で女つくられたら、意味がない。わからない。どうせ学生。どうせ子供。中途半端で、自己中で、不器用で、大切にしたいものすら、大切にできない。
少し前のことが、楽しかった時間が、夢だったように思える。一瞬で崩れ落ちたのか、それともゆっくり崩れ落ちていったのかさえ、よくわからない。
眠い。寝て起きたらぜんぶ元通り、という魔法が、なぜこの世界にないんだろう。
夢をみた。
「そのまま目閉じてろ」
そう言われ、私は従った。
声の主は、アゼルだった。声でわかる。私はわかる。
目を開けたら消えてしまいそうで、離れたくなくて、目を閉じたまま、キスをした。
何度も何度も、深くて深いキスをした。
温度が、吐息が、記憶にある彼そのもので、せつないほどにリアルだった。
“三秒経ったら目開けていい”
そう言われ、ゆっくり三秒数えてから、目を開けた。
そこには、誰もいなかった。
私の目からは、涙が流れていた。
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放課後。
どうでもいい文化祭の準備につきあったあと、同じく文化祭のための練習をしていたリーズとニコラと一緒に帰ることになった。
ニコラとの別れ道は正門を出て右に曲がってすぐの十字路なので、私とリーズは少し遠回りをし、歩きながらなにがあったかをそれなりに話して、次の十字路の、歩道とは言えないような歩道に並んで腰をおろした。
私の左隣、あぐらをかいたリーズは口を尖らせた。「マジでムカつく、アゼルのアホ」
あほ。
「自分がいちばんテリトリーぐちゃぐちゃにしてんじゃんかって話だよね」右隣、ニコラも溜め息混じりに言った。「なに考えてるかマジでわかんないわ、あのアホ」
あほ。
私は笑った。
「っていうかたぶん、私自身がそのテリトリーってのに入ってなかったんじゃない? みんなはともかく、あいつは一ヶ月くらいズレあるわけだし」
眉を寄せ、口を尖らせたままの表情をリーズがこちらに向ける。
「怒ってねえの?」
「んー。最初、つらいってのがすぐに怒りに変わった。私はたぶん、特殊なの。怒りがいいほうに向くことがある。闘争心に変わることがある。今日の朝は、学校を途中までサボッてるあいだに友達からの電話もあったりで、どん底状態から一気にそこまでいった。性悪女の本領発揮。お前なんかにボロボロにされてたまるかっていう」
ニコラが苦笑う。「強いな」
それはどうだろう。「でも四時限目の授業受けてたら、それもすぐ冷めた。けっきょく会いたくなって、昼休憩中に友達連れて、二.五階の渡り廊下に出た。どんな顔してんのか、見られないかなと思って。そしたらブルが下から体育館シューズ投げてきて、気づいて。目も合ったけど、ものすごーく冷たい視線向けられた」
リーズは立てた両脚を抱えこんだ。まだ眉を寄せている。
「──ベラ、まだ好きなの? 許せんの?」
許すという意味が、よくわからない。
「許しはしない」よくわからないまま答えた。「許せることじゃない。って、どうせもう、どうにもなんないんだろうけど。相当嫌われたっぽいし。許すわけじゃないけど、かなりムカついたけど、それでも好きだって思ったら、もうどうでもよくなった。性格の悪さと無関心さが、ものすごく便利に働いてる気がする。すでに終わったことかなと」
これは本音だ。終わったことをどうこう言っても、しかたがない。それは誰より、私が知っている。
ニコラは苦笑い、立てていた脚を崩してあぐらをかいた。
「あたしなんか、浮気とかされたら大暴れしそーだけど。なんだろな。なんであいつ、あんなに謎が多いんだろ。自己中にしても短気にしても気まぐれにしても、なんか急に変わりすぎな気がする。あんなん、はじめて見た」
私は質問を返した。「まえに言ってたよね。アゼルは前、もっとツンツンしてたって。今ってあんな感じ?」
「ちょっと違う」リーズが答えた。「もちろんそれもあるけど、今はものすごく冷めてる気がする。もともと冷めてんだけど、もうなんか、冷たいどころか氷? んで、無口がよけいに無口。よけい笑わなくなった。うちらがたまり場行っても、キホン部屋で寝てるし。出てきても、めっちゃ不機嫌だし。なんか、今は本気で怖い」
まずい気がする。「マスティたちはなにも言わないの?」
その質問にはニコラが応じた。「あいつらはなんかわかってんだろうけど、基本、なんでもアゼルの好きにさせるんだよね。もしアゼルがひとり暴走したとしても、よっぽどじゃないと止めないらしいんだ。なんかいろいろ、約束? してるらしくて。それがなにかは教えてくれなかったんだけど」
よくわからず、めんどくさいなと思った。「まあたぶん、私が悪いんだとは思う。知らないうちになんかしたのかも。それがなにかすら、よくわかんないんだけど」だって私は、アゼルのことをなにも知らない。
リーズは申し訳なさそうな表情をした。
「ごめんね、うちらがなんかわかればいいんだけど。あいつ、未知数すぎてマジ意味わかんない」
確かに未知数だ。「あやまられることじゃない。それに基本人格が今みたいなのだとしたら、さすがの私でも引いてたかも。今のあいつなら、肩がぶつかっただけで殴りかかりそうってのは、わりとわかるんだけど。少なくとも私が知ってるあいつは、そこまで短気そうじゃなかったし」
ニコラが肩をすくませる。
「うちらもそれは思う。更生施設関係なく何度か遭遇したことあるけど──あ、ブルたちも、実はわりとすぐに喧嘩すんだけどね。喧嘩になっても、あいつらは二、三発殴って、相手が引いたらそこでやめんの。でもアゼルは無表情のまま、相手が泣くか気絶するまで殴り続ける。ひどいと、気絶しても殴り続ける。まるでサンドバックだよね。なにがいちばん怖いって、ふとそれをやめて、何事もなかったかのようにアイス食いたいとか言いだすところだよ。手に血つけたまま」
私はまた笑った。
「アイス好きなんだ、実は」
「いやいや、笑うとこじゃないし」リーズが口をはさんだ。「気絶しても殴り続けようとすんだよ? そこまでいかれたら、さすがのうちらもちと怖いよ?」
ああ、そうか。「や、私は平気。実際自分じゃめったに暴力振るうことはないけど、そうなる気持ちはわかる。無表情で殴り続けるってのも、わかるよ」
どちらかといえば私も、口より手が出るタイプだ。さすがにそれではまずいからと、今は言葉だけにしているが。それに、あの映像の中の私の眼には憎しみがこもっているけれど、そのうち無表情になるかもしれない。
ニコラがつぶやく。「──ベラも、あれだよね。本気で怒ったら絶対、怖いよね」
「どうかな」と、私。「話を聞く限りだけど、トップはアゼルでしょ。で、本気になったらもしかしたら、私はアゼルの次になるかも。もしかしたら超えるかもだけど。で、マスティとブルかな。んで姉様たちよ。勘だけど、二人もキレたらわりと、手出すでしょ」
彼女たちは顔を見合わせ、笑った。
「バレてるし」とリーズが言う。「去年はわりとモメたな、タメの奴らとか上の奴らと。なんかあの三人とつるむようになって、かなり睨まれて」
ニコラがあとを引き継ぐ。「そうそう。校舎裏とか呼び出されて、四人くらいに囲まれて。“新入りがなにイキがってんの?”、みたいな。むこうはただのツレらしいのに。別のだと、“あいつとこのコがつきあってんだから、あんたらがしゃしゃり出てくるところじゃないのよ!”、みたいな。ムカついたから引っぱたいたよね。髪掴むわ制服ぐちゃぐちゃになるわで、もう大騒ぎ」
笑える。でも楽しそうだ。「私も一歩間違ってたらそういうの、あったのかな」
「だいじょーぶ」リーズは微笑んで言った。「うちら勝ったから。っていうか、あの三人が来てくれてだけど」
「それにあれじゃん? ベラの場合、一対四でも勝てそう」
自信ありげなニコラの言葉に思わずきょとんとし、私はやっぱり笑った。
「余裕だと思う」




