* Meaningless
翌日。
起きてリビングに行くと、祖母は朝食を作ってくれた。傍らにはミルクティー。彼女に伝えてはいないけれど、私はそのミルクティーが好きだった。というより、祖母の作るものはほとんどが好きになっていた。でも直接言えるのは、愛想のない“おいしいです”だけだ。
「今日はなにか予定が?」
朝食のあと、キッチンカウンターのななめ向かいの席に座った祖母が訊いた。
考えるまでもなく口が勝手に答える。「友達と遊ぶ約束が」豪快な嘘だ。
「そう。私は九時半頃に家を出て、友人のところに行かなきゃいけないの。何時に帰れるかわからないんだけど、夜は遅くなるかもしれないわ。なにか作っていくから、先に夕食を済ませておいてくれる?」
今は朝の八時すぎ。「じゃあ友達のところで食べさせてもらうか、そうじゃなくてもなにか買って食べます」アニタのところなら食べさせてもらえる。「友達のところに泊まってもいいなら、そうします」
「ああ、じゃあその親御さんに連絡しましょうか」
連絡?
「だいじょうぶ」と言って、私は席を立った。「小学校の時からの友達で、その子の親も知ってるし、いつでも泊まりにきていいって言ってくれてます。うちのことも知ってるから」
事実を述べただけなのに一瞬、祖母の顔が曇った。けれどすぐ、いつものように微笑んだ。
「じゃあそうしてちょうだい。一応あとでここにお金置いていくから、それを持って行ってね。よろしく伝えて。戸締まりは私も確認して出るけど、あなたの部屋と玄関だけはしっかりお願い」
「はい」
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ひとりになってからシャワーを浴び、アニタに電話しようかと思ったものの、とりあえず夕方前まではここにいればいいかと思ってやめた。
ふと、マスティに“なんかあったときのために”と、たまり場の合鍵をもらっていたことを思い出した。先月末のことだ。他の人間を連れてくる以外なら、好きに使っていいと。あれは基本的にあのメンバー専用らしく、他の誰も入れないらしい。行く時はいつもリーズたちと一緒にいるし、使ったことはない。
ついでに“気が向いたらリビングの掃除でもしろ”と言われたことも思い出した。あの部屋、ニコラとインミがたまに床を掃除する程度だ。なのでわりと汚い。これでいい。今日の夕方までの予定が出来た。
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午前十時頃。
掃除用に汚れてもいい服に着替え、着替えと家にあったお菓子を適当にスポーツバッグに詰め込んで持ち、掃除道具を適当に買ってからたまり場へと向かった。
みんなといると狭いと思うものの、ひとりだとそうでもない。テーブルの上にはビールやジュースの空き缶がそのままになってる。大きな灰皿には吸殻が山盛りてんこ盛り。みんな、実はわりと煙草を吸う。特に男三人は、気がつけばいつも煙草に手を伸ばしている。服は散らかっているし、コミックスは散乱しているし、ゲーム機もゲームソフトも出しっぱなしで、棚の上にはホコリが乗っていた。
時間帯というのもあるのだろうが、改めてじっくり見ていると、思わず顔が引きつった。
それでもジョンアの家よりはマシなのだろう。入ったことはないものの、あの家は強烈すぎる。以前彼女が玄関の引き戸を少し開けた時、私の目に飛び込んできたのは、明かりもつけていない室内に、布団だか服だかよくわからない布ものが大量に積み重なり、玄関にまで溢れているといった光景だった。その奥には中身がいっぱいになった大量の黒いトラッシュバッグがいくつもあって、どこからか、ヒステリックに叫ぶ母親の声も聞こえた。なにが起きていたのかはよくわからない。詳しいことはわからないが彼女の母親は、洗剤でお米を研いでそれを食卓に出したことがあるという伝説持ちだ。
とりあえず窓を開け、洗濯機が空なことを確認、クッションカバーを洗いはじめた。服は知らないから一箇所にまとめ、テーブルの上のゴミをしっかり分別しながら片づけていく。散らかったコミックスを集め、ついでに棚にあるコミックも一度すべて出し、棚を拭いてから順番に並べた。
洗濯の終わったクッションカバーを乾燥機に放り込むと、カーテンの洗濯をはじめた。リビングに戻って“パンク・ロック・ソウル”と書かれた謎のポスターに舌打ちし、TVボード付近も掃除、ゲームやCDの入った引き出しも中身を出して拭いて整理して戻した。ついでにレザーソファも拭いてやった。
洗濯が終わったカーテンをレールにつけなおし、キッチンはまともに使っていないし面倒だからとやめたものの、無我夢中で床を掃除した。十枚入りのダスト・クロスがあっという間に使い物にならなくなり、あっという間に二時間以上が過ぎた。
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「なにしてんだお前」
声がして目を開けると、ソファとテーブルのあいだにしゃがんだアゼルが私の顔を覗きこんでいた。私は手をはさんでクッションに頭を寝かせ、ソファに横になっている。
眠っていたのか、もしかして。「──昼寝?」熟睡したつもりはないものの、彼に気づかなかった。眠い。
「俺が知るかよ」そう言ったものの、彼は微笑んだ。「掃除したのか」
腕が痛い。「そう、したの。無我夢中で──っていうか、なんで居るの? みんなと一緒にセンター街に行ったんじゃないの?」
「嫌味か」床に腰をおろす。「十時から補習だ。夏休みを補習で潰すのと今補習受けるのと、どっちがいいんだっつって」
「どっちもイヤ」
「だろ。それ言ったらふざけんなって言われた。どうせ高校なんか行かねえから、意味ねえのにな」
「行かないの?」
「行かねえ。中学卒業して一年くらいは遊ぶかもしれねえけど、そのうち仕事して家出る」
家、出たいのか。同じか。「男はいいよね。高校出てなくても、仕事なんかいくらでも見つかる」
「女だって水商売がある」
笑える。「水商売をする自信はないな。そういうのを悪いとは思わないけど、私はほら、誰にでもこんな態度だから。愛想よくっていうのが苦手」
彼はまた微笑んだ。「リーズのアホイトコとか、たまごみたいなのだよな、水商売できるのは」
アホイトコ。なんだかの動物の名前みたいだ。「そう。ああいうのは無理」エデたまごは確実に出来る。眠い。
「つーか色気なさすぎなんだけど、その格好」
Tシャツにジャージ。「着替えは持ってきたけど、考えたら、シャワーも浴びずに着るのも変だよねっていう。だからまあいいかと思って。思ったより早く終わっただけで、掃除終わったら帰るつもりだったし」
「シャワー使えばいいだろ。そしたらヤれる」
私は唖然とした。意味を理解するのに数秒かかった。
なんて? ヤる? なにを? なに言ってんだこいつ。
「遠慮します」
アゼルは私から目をそらさない。「とりあえずキスするか」
「しない」かなりまずい状況なことに、いまさら気づいた。
「する」
またも勝手に右手で頬に触れ、アゼルはまたも勝手にキスをした。
最初は普通のキスだったのに、いつのまにか深いキスになった。体勢が体勢なのでまえにしたキスとは少し違う気がするものの、舌が触れた瞬間、おかしなことに、味わったことのない感覚が身体の中を走った。
彼は、キスに意味はないと言う。
唇が離れ、私は彼に訊いた。「あんた、私のこと好きなの?」
「お前、変なこと訊くな」
「なにが?」
「いや、っつーか質問が無意味」
無意味。「なんで?」
アゼルはソファの端に曲げた左腕をつき、手に頭を乗せた。
「好きって言ったらどうなんの? つきあうってこと? ヤるってこと? つきあうってことはヤるってことに直結するけど、ヤるってことがつきあうことになるかって言われたら、そうじゃねえ。ヤるってことが好きってことに直結するわけでもない」
話を必死に、理解しようとした。だけど、意味がわからない。
「好きじゃなくても、できるってこと?」
「できる」即答だった。
わかっていたはず。こいつは、そういう人間だ。
私はまた、質問を返した。「じゃああんたにとって、つきあうってなに?」
彼は悪びれる様子もなく答えを口にした。「ただの口実。口約束」
口実。口約束。
意味を理解すると、なぜか泣きそうになった。「──よく、わかんない」
「説明するのもめんどくせえ。どうせ理解されねえから」
そう言ってまた、彼は私にキスをした。私は、目を閉じられなかった。
理解。理解? できないわよ。なに言っているのかわからない。
そう思った次の瞬間には、無理やり唇を離して身体を起こしていた。




