* Prologue
深夜零時すぎ──オフホワイトのアンティーク家具一式が揃った、薄暗い部屋の中。少女はキャノピーベッドの上でうずくまり、白いシーツを頭までかぶって強く目を閉じていた。シーツの端を握りしめた両手は同時に、彼女の耳も塞いでいる。
もう三十分くらいはこうしてるかもしれない。
もういい? もうだいじょうぶ?
少女は両手の力をゆるめ、ゆっくりと目を開けた。不安げな表情のまま、おそるおそるシーツから頭を出す。上半身を起こすと、月明かりを頼りに、室内に誰もいないことを確認した。
ゆっくりと静かにベッドからおり、廊下へと繋がる白いドアに近づくと、息を止めて右耳をそこにあてた。
自分の心臓の音が大きすぎて、よく聞こえない。
冷たく白いドアから耳を離した少女は左手でドアノブに手をかけ、音をたてないようゆっくりとそれを開けた。ドアの向こうは廊下だが、左隣はリビング・ダイニングになっていて、三センチほどの隙間からリビングの明かりが漏れてくる。
かと思えば大声が聞こえ、少女は瞬時にぎゅっと目を閉じた。
それでも声はやまない。言い返される大声は一段と険しいものになった。
どうしていいかわからず、少女は全身を小さく震わせた。
そして次に繰り出された言葉に、少女は自分の耳を疑った。
一瞬のことではあったが少女には、自分の心臓の音が聞こえなくなった。
だが声はまだ続く。次の言葉は、少女の身体を完全に凍りつかせた。
おそらく、ほんの数秒のことだった。
まだ続く大声で、少女ははっとした。
声は聞こえなくなったと思ったのに、まだ終わっていなかった。
場所が変わっただけだった。
再び静かに、それでも急いでドアを閉めると、少女は走ってベッドに飛び乗り、再び頭までシーツをかぶった。
かたく目を閉じ、震える手でシーツを握りしめ、必死になにかに懇願した。
誰か止めて。
聞きたくない。
もうやめて。
もうやめて。
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ある日の朝、少女はいつもどおり学校の教室にいた。すでにベルは鳴っていて、今はクラスメイト全員が席につき、朝のHRを迎えている。
南向きの窓際、前から二番目の席。、机に右肘をついて手にあごを置き、カーテンの隙間から外を眺めていると、女担任がクラスメイトのひとりのラストネームを呼んだ。
少女が視線を担任のほうへとうつすと、呼ばれたクラスメイトは担任と並び、教卓の脇に立った。
「みんなにひとつ、お知らせがあります」担任が言った。「家庭の事情により、今日から彼女のラストネームが、“ワイゲルト”から“フルスト”になります」
教室内は一気にざわついた。だが担任は気づきもしていないのか、彼女の新しいラストネームを、白いチョークを使ってブラックボードに書きはじめた。
なにを言うわけでもなく、彼女はただ、恥ずかしそうにうつむいている。
ラストネームが変わる理由は想像がつく。けど、いちいちみんなの前で言わなくてもいいじゃない。バカじゃないの?
そう思いながら、少女は再び窓の外へと視線をうつした。
「みんなも今後はこの名前で呼ぶように」
そう言うと、担任は席に戻るよう彼女を促した。簡単な連絡事項をいくつか伝え、ブラックボードに書いたばかりの文字をイレーザーで素早く消すと、出席簿を手にした。
「それじゃ、朝のHRはこれで終わりです。授業開始のベルが鳴る前に、ちゃんと席についてね」
担任が教室を出ると、少女の右ふたつ隣の席にいた彼女は、少女のうしろの席にいる友人のところに歩いてきた。
それを確認した数人の男子が、一斉に彼女のところへ向かってくる。
「ワイゲルト!」ひとりの男子が彼女を呼んだ。「なんで名前変わったわけ?」
「それは──」彼女は答えづらそうに言葉を濁した。
「バカ」それを掻き消すようにもうひとりの男子が言った。「変わったって言ってたじゃん。もうワイゲルトじゃないよ。で、新しいラストネームってなんだったっけ?」
「フロスト? フルスト?」またべつの男子が言った。
「だったっけ? っていうか、なんで名前変わったんだよ?」
「だから──」
「うるさい」
少女は机についていた腕をおろして右に向きなおった。男子たちとうしろの席の友人、そしてその友人の隣に立った彼女の視線が一気に集まったが、構わず男子たちを睨みつけた。
「理由なんかどうでもいいじゃん。あんたたちに関係ないし、あんたたちに言ったところで理解できるわけない。このコのファーストネームが変わったわけじゃないんだし、騒ぐことじゃないじゃないでしょ。新しいラストネームが覚えられないならファーストネームで呼びなよ。それ以上からかうなら先生に言って、あんたたちの親に注意してもらうから」
少し早口だがきっぱりと言われたその言葉に、そばにいた男子たちが黙るどころか教室中が数秒、しんと静まり返った。
そしていち早く我に返った一人の男子が、隣にいた男子の腕を肘でつついた。
「おい、行こうぜ」
「ああ、だな」
「ちょっと」少女は立ち去ろうとする男子たちを呼び止めた。「彼女にあやまりなさいよ」
男子たちは少し困惑した表情でお互いに視線を交わしあい、小さく「ごめん」とつぶやきながら離れて行った。教室内はすぐにざわつきを取り戻した。
少女はわかっていた。自分の家がそうなれば、自分だってラストネームが変わるかもしれない。
彼女は控えめに、少女に向かって微笑んだ。
「ありがとう」
「あんなの気にしなくていいよ。バカは放っておけばいい」
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数ヵ月が経ち、夜中のあれは一時期に比べれば少し、頻度が落ちたようだった。
事態が好転したわけではない。悪化だった。顔を合わせたくない気持ちが争いの頻度を減らしたのだろうと、十歳になった彼女にもわかった。
それでもときどき起こるあれに、決して慣れたわけではなかった。今でも、イヤでイヤで仕方ない。
もうひとついえば、その影響は少女自身にも向けられるようになっていた。
あったはずの会話が少しずつ減っていくのを、少女は身に染みて感じていた。
かつて幸せを感じさせてくれていた笑顔からどんどん感情が失われていくのを、どうすればいいのかわからず、ただ見ていた。
自分も同じような表情を返すしかなかったが、来年になったら、再来年になったら、どうなってしまうのだろうと考えていた。
考えたくはなかったが、日毎そんな不安は募っていった。
答えのない疑問。
どうなるのかわからない未来。
いつまたあれが起こるのだろうと考えると、思い出したくない、数ヶ月前のあの言葉の意味を考えようとすると、心臓が締めつけられる気がして、息苦しくなった。
それをごまかすためか、それともあの言葉を忘れるためか、少女の脳裏には、ある映像が再生されるようになった。他にどうすればいいかわからないからだ。
もちろん現実にできるわけがない。だから映像の中だけだった。リアルなものでもないだろう。そんな場面は現実に見たことがないし、そんな映画を観せてもらったこともない。あんなことをして、実際はなにがどうなるのかもよくわからない、かなりぼやけた映像だ。
だがときどき、その映像があの人たちのあいだで巻き起こるのではないかという不安もあった。
そうなったらどうすればいいのだろう。逃げられるのかがわからない。逃げていいのかもわからない。でも逃げなければいけないような気がする。
なにも考えたくなかった。どうでもいいと思いたかった。
その映像は、孤独な夜に自分を呑み込もうとする、真っ暗な闇から逃れる唯一の方法だった。
その映像を頭の中で再生するたびに記憶が薄れ、代わりに、ふたつの感情が芽生えていった。
真っ赤な怒り。
真っ赤な憎しみ。
やがて少女は怒りと憎しみ、そして疑問だけを自分の中に残し、思い出したくない言葉を忘れた──。