高尾の苦悩・その四
保護者が帰った後、僕は一昼夜かけて悩み続けていた。
僕は治療を受けるべきなのだろうか? それとも受けないべきなのだろうか?
いくら考えても答えは出てこない。
治療を受けなければ、僕は殺される事になるだろう。
けれども、治療を受けなければこれ以上、余計な感情に惑わされる心配はない。
暴力的な本能に心を支配され、人を傷つける事になるかもしれないなんて、考えずに済むのだ。
治療を受ければ僕が死ぬ事は無いだろう。
意外にも平穏で、満ち足りた人生が送れるようになるかもしれない。
けれども、治療を受ければ僕の中からいくつかのものが失われる事になる。
僕はこれまで生きてきた十四年間の人生を否定したくは無いのだ。
僕は悩み、苦しんでいた。一見、保護者の言葉は救いの言葉にも見えた。
迷う事は無い。
治療を受けてしまえと。
治療を受ければ全てが上手くいく。治療を受けずに死を選ぶなんて意味が無い。
迷う必要などは無いのだと。
でも、保護者は口にこそ出さなかったものの、間接的にこうも伝えていたのだ。
つまり、治療を受ければ、もうそれは自分ではなくなるのだと。
僕達は、どうやら亜人間という種族に属するらしい。
治療を受ければ僕らは亜人間ではなくなり、違う種である人間になるのだ。
僕には決められなかった。決められるはずが無かった。
それはそうだ。偽りの生か、真実の死かなんて、決められるわけが無いじゃないか!
僕は悩み、苦しんでいた。
そんな僕の前にクリスは現れた。
クリスが家の中に入ってきた事に、僕は気がつかなかった。
クリスはいつも玄関を叩かずに入ってくるけれども、どたばたと玄関を乱暴に開けて入ってくるから、音を立てずにこの家に入ってきた事なんて無いのだ。
けど、今日のクリスはいつもと様子が違っていた。静かに玄関を開けて、僕が気づくまでの間、ずっと僕の前に立っていたのだろう。
だから僕はふと視線を上げてそこを見るまで、クリスがそこに立っていた事に気がつかなかった。
クリスは暗い顔をしていた。
恐らく保護者の話を聞いてしまったのだろう。
クリスは跪いて椅子に座っている僕の膝の上に上半身を預けてきた。
甘えてくるクリスを僕はいつも邪険に扱ってきたが、でも、今の震えるクリスの身体を足に感じると、今はそんな事はできなかった。
「サンタは治療を受けるの?」
僕はクリスの言葉に答える事ができなかった。
「クリスはどうなの?」
だから、代わりに質問を返して言葉を濁した。
「サンタが受けるならクリスも受ける」
予想通りの答え。
その答えが僕をつらくする事にクリスは気がついていないのだろうか。
僕が治療を受ければクリスも治療を受けて二人とも死ぬ事は無い。
けれども、僕が治療を受けなければ僕はクリスを道連れにする事になる。
つまり、クリスのその答えは、僕の答えは僕だけではなく、クリスの運命さえも決めてしまう事になるのだ。
けど、クリスのその言葉もわからない事は無い。
僕もケイがいて、ケイがどちらにするかを決めたのならば、それに従っただろう。
だからこそケイに相談したかったのだけれども、ケイはどこかに消えてしまった。
クリスは僕を愛しているのだろう。
僕はケイを愛している。
愛している人と同じ道を進みたいというのは、多分、自然な欲求なんだと思う。
けど、僕が自分の運命を預けられる人間は消えてしまった。
僕は自分自身で答えを出さなくてはならないのだ。
自分だけではなく、もう一人の運命をも抱えたその問いかけに、僕は一人では答えを出せなそうにもなかった。
そんな時、ふと思いついた事があった。
「クリス、キスをしよう」
僕はクリスにそう言った。
僕は、クリスにも答えを出す事を手伝ってもらおうと思いついたのだ。
僕には一人で答えを決められない。
だから、クリスにも答えを出す事を手伝ってもらおうと思ったのだ。
「キスって?」
「キスって言うのは、唇と唇を合わせる行為の事だよ。これは愛を確かめ合う儀式なんだ」
それを聞いて、クリスは驚いたけれども嬉しそうだった。
罪悪感が胸を締め付ける。
僕はクリスの事が好きでも、クリスを愛してはいない。
クリスには愛を確かめ合う儀式でも、僕にはこれは検査なのだ。
自分の心を知るための検査なのだ。
クリスが目を閉じて顔を近づけてくる。
僕も、クリスのそれに動きをあわせた。
僕はクリスとキスをした。
キスをして、クリスは幸せそうだった。
けれども、僕は何も感じなかった。
唇を合わせても、何も感じなかった。
これが僕の現実。そう、現実なのだ。
涙が出そうだった。
けど、必死で我慢した。
クリスを愛せない事はつらい。
でも、それが僕なのだ。
答えは出てしまった。
僕は、そのままの自分を失いたくは無い。
例え死ぬ事になっても、違うものにまでなって生きていく自分を許す事はできない。
「クリス。僕は治療を受けない」
僕は、努めて穏やかな顔でクリスに僕の答えを話した。
「……じゃあ、クリスも治療を受けない」
クリスは僕の膝の上に腰を下ろして、僕の胸に顔をうずめながらそう答えた。
クリスは震えていた。
クリスの震える身体を僕は抱きしめた。
僕は、クリスの命を奪ってしまった。
僕のわがままでクリスを死なせる事になってしまったのだ。
僕は罪を負った。
その罪を贖う事はできそうにもない。
だから、せめて僕に生がある限り、僕はクリスを愛していこうと思った。
愛する努力をしようと思った。
それができなくても、せめて愛する演技をしようと思った。
クリスが幸せでいられるように願った。
クリスに幸せでいて欲しかった。
それが、僕の罪であり、贖罪なのだから。