高尾の苦悩・その一
ケイナの話を聞いた後、僕とハチは自宅に帰った。
家の中にナナの姿が見当たらないのが気になったが、今の僕は探しに行く気にもならなかった。
それに、ケイナの話を聞く限りでは、ナナもまたハチからのテレパシーで自我を得て、人間として生まれようとしているらしい。
それならば、ナナはもはや一人の個人というわけだ。
ナナがどこに行こうと僕が口を出す事ではないだろう。
僕は椅子に座り、読みかけで開いたまま机の上に置いてあった本を閉じた。
こんな状況では本を読むどころではない。
頭が混乱して、何から考えていいのかすら整理する事ができない。
それはハチも同じ事で、ハチは家に帰ってきてからずっと突っ立って遠くの方に視線を泳がしている。
僕は椅子にふんぞり返り、目を閉じた。いつもなら目を閉じれば気分が落ち着き、物事を整理して考える事ができる。
けれども今は、目を閉じても意識は混沌としていて、自分が何を考えているかすら分からない。
頭に負荷がかかり過ぎているのは自分でもわかった。
こんな時は寝てしまうのが一番良い。
寝れば脳が記憶を整理してくれる。
けど、神経が興奮して寝る事などできそうに無い。
こんな時に考え事をするのは百害あって一利も無い。
けれども、僕の意識は混沌の中から今日、聞いた事を拾い上げ、あまり意味の無い事ばかり考えてしまっていた。
例えばケイナはケイとそっくりだったけれども、ケイが女になったらあんな感じになるのかなとか、ハチは元々どこかの管理区の人間だったらしいけど、元はどんな性格をしていたのかなとか、帰還者と機関車は発音が同じだなとか……
そんな意味の無い思考ばかりだったけれども、それでもずっと考えていたら、一つや二つは意味のある思考が浮かんできた。
例えばケイナの呼びかけにどれくらいの人が賛同するだろうとか、ケイナが僕を治療したら、僕はどんな人間になるのだろうとか。
ケイナが話した他の管理区の状況を聞いた限りでは、ケイナの呼びかけにはほとんどの人が応えるだろう。
他の管理区は絶望に包まれている。
もし、その現状が改善できるというのならば、ほとんどの人達は喜んでケイナの提案を受け入れるだろう。
けど、少なくとも僕は別だ。
ケイナに治療された後の僕の姿なんて、想像するのも恐ろしい。
ケイナに治療されれば、僕は怒りを覚えるようになるのだろう。
憎しみを覚えるようになるのだろう。
嫉妬を覚える事になるのだろう。
今まで感じた事も、感じる事もできない感情だけれども、話を聞く限りでは、それは破滅を招く感情だ。
破滅の感情に心を支配され、他人を傷つける自分の姿など、想像すらしたくない。
過去の記録を見る限り、確かにそれらの感情は人間の発展を支えてきたみたいだけれども、けど、この世界にはそんな感情は必要ないのだ。
この世界は完成されている。
ここでは争う必要も無いし、性の関係も全員が諦める事によって解消されている。
だからそんな感情は必要ないのだ。
でも、同時にそんな感情を抱いてみたいとも思う。
未知の感情を感じる事は、それが負の方向を向いていようとも、良い意味でも悪い意味でも自分を変え、新しい道を指し示す。
それに、性が三つから二つに戻れば、僕はクリスの思いに応える事ができて、クリスと一緒により幸福な人生を送れるかもしれない。
けど、逆にそれが怖い。
性が二つに戻ってしまえば、僕のこのケイへの気持ちはどうなってしまうのだろう?
ケイナに治療された後、ケイを見た時にこの思いが消えていたらと思うと怖くてたまらないのだ。
この気持ちが自然に消えてしまうのならそれでもいいかもしれない。
けど、人の手によってこの思いが消されてしまうのなら、それはとても恐ろしい事に感じるのだ。
結果としては同じだ。
過程には意味が無いかもしれない。
けど、この過程の差になぜか僕は抵抗を感じるのだ。
様々な思いが僕を悩ませ、苦しめる。
苦悩の果てに僕は疲れ果て、いつのまにかに眠りに落ちていた。