クリスの恐慌
クリスは放心していた。
それはもう、口から魂が抜け出そうなほどに。
無事に崖の下までたどり着いたのは奇跡だと思った。
ありえない出来事を無事に切り抜けたその強運に、思わず日頃の行いの良さに感謝した。
近くではナナがはしゃぎ回っている。崖を降りた時の興奮が抜けきらないのだろう。
クリスは放心していた。
何も考えられなかった。
頭の中では崖から飛び降りたに見えた光景がフラッシュバックしている。
耳元では崖から飛び降りている最中の獰猛な風の頤までも鳴り響いている。
ナナが近寄ってきた。
けれどもクリスは放心していたからそんな事には気がつかない。
クリスは放心していた。
心は恐怖に支配されていた。
身体は興奮して痙攣していた。
ナナがクリスの手を取り、握った手をぶんぶんと上下に振った。
興奮冷めやらない状態のようで、その仕種には攻撃性のものが含まれていた。
クリスは反射的にナナの手を振り解き、ナナの頬を思い切り張り倒した。
自分が何をやっているのか分からなかった。
頭が働かなかった。
恐怖に心を縛られていた。
欠如しているはずの闘争心が防衛本能の名を借りて爆発しそうだった。
クリスはナナの顔を見た。
酷く傷ついたような顔をしていた。
その顔を見て、クリスは泣きそうになった。
傷ついたのはこっちだ。
何でそんな顔をされなくてはならないの!
「ナナのバカァー!」
だから逆にこっちが傷ついて、堪えきれなくなって、クリスはナナの胸に顔をうずめ、その胸を叩きながら泣き出した。
何で傷ついたのか、何で泣いているのか、さっぱり分からない。
クリスはナナの胸の中で泣いた。
いつのまにか、ナナもクリスを抱きながら泣いていた。
だからクリスもナナを抱き返して泣き続けた。
朝日が照らし出す崖の下で、二人は一緒に泣き続けた。