神様ごっこ
「あのね、今日からぼくがかみさまなの。」
突然、息子の翔太が言い出した。
「声が聞こえたんだよ。」
私は微笑みを浮かべながら翔太を抱き上げる。
「声? どこから?」
ママも聞きたいなー、なんて安易に受け流していると、翔太は私の腕の中でちょっと考えるようなそぶりをする。
「ん、とねー……。」と一生懸命言葉を選ぶ様子が可愛らしい。
けれど……――
「地獄」
元気な声は5歳の幼稚園児らしい清々しいものだった。
ただ、ほんの一瞬目を細めたそのどこか不穏な表情が、私の胸にどくりと微かな不安の芽を生んだ……。
§§§
私は田辺あきこ。34歳の専業主婦だ。
夫の和久とは職場で知り合い、29歳の時に結婚した。そして、その年に授かったのが一人息子の翔太だった。
翔太を身籠っていることがわかった時、私は仕事をやめる決意をした。和久の希望だった。幸い和久の稼ぎは良かったし、彼は「こどもは2人以上欲しい」と言っていたから、私も甘んじて専業主婦になる道を選んだのだ。
午後2時過ぎ。
わが家のマンションの少し先で、翔太の幼稚園のバスが来るのを待つ。
7月の暑さの中、汗を流しつつ、同じマンションに住む藤原さんと一緒に「近頃はお米が高くて困るわねー。」なんて話をしながら。
最近の物価高はなかなかに痛い。卵だってほんの何年か前までは100円で売っていたというのに、今は300円近くするし、こどものお菓子代だってじわじわと値上げを繰り返している。
こんなことなら、仕事をやめなければ良かったのか。翔太も来年には小学生になるし、いっそのこと仕事を探そうか。
そんな思いを巡らせているうちに、明るい水色のバスが見えてくる。
「ママー! ただいまー。」
にこにこ笑顔で降車してきた翔太に、私は屈んで軽くハグをする。
「翔太、おかえりー!」
翔太に続いて降りてきた隆之介君を、藤原さんが抱き上げる。
「田辺さん、これから翔太君とお出かけ?」
私の肩にかけられたハンドバッグに視線をやりながら、藤原さんが言った。
「はい。ちょっと私、歯医者で。いつもはもっと早い時間に行くんですけど、今日は予約が埋まってて。」
「あらー。大変ねえ……。」などと話し込んでいると、藤原さんの腕の中から、抗議の声が聞こえる。
「ママー、早くー! おれ、Switchやりたい。」
痺れを切らしたような隆之介君の声に、藤原さんは「はいはい」と答えた。
「それじゃあ、またね」
「はい。また。」
藤原さんと別れると、私は翔太の手を引きながら近所の歯医者に向かった。
セミの声がやけに煩い。
私が診察台に座ると、隣で見ていた翔太が言う。
「ママ、こわくない? 先生、ころす?」
「こら。そんなこと言わないの! ママは怖くないから大丈夫。」
「はーい。」
翔太の口から殺す、だなんて物騒な言葉が出てきたのは初めてで、少し驚いたけれど、所詮こどもの言うことだ。何気ない会話のつもりだった。この時はまだ……。
§
翌日。
帰宅後の翔太がお絵描きをしている横で、私はぼんやりとワイドショーを見ていた。
ちょうど先日あった未成年誘拐事件の犯人が逮捕されたという速報が流れた。犯人が警察官に連れられ、パトカーに乗り込む様子がテレビ画面に映し出されている。
ふとお絵描きの手を止めて。翔太がテレビをじっと見つめだす。
「ママ、あれ、わるいひと?」
手にしていた赤いクレヨンを置いて、翔太の小さな指が犯人の顔を指し示す。
「そうね、悪い人だから、警察に捕まっちゃったのよ」
答えながら、翔太の方に目をやると、翔太はこどもらしいキャッキャとした様子で、まるで遊びの一環のようにこう言う。
「わるいひと、しね!」
すると――
画面の中に、どよめきが走った。
私は思わず画面に釘付けになる。
画面がスタジオへと切り替わり、司会者が慌てたように口を開く。
「えー、先程逮捕された大川容疑者ですが、突然血を吐いて倒れたとのことで、現在、救急車が呼ばれているとのことです。えー、繰り返します。今、大川容疑者が倒れたという……――」
ひやりと、背筋に嫌な汗が伝う。
「ま、まさかね……。」
たまたまだ。それに、まだ亡くなったわけではないし……。
そう納得しようとしていた時、司会者が続報が伝え始めた。
「えー、先程救急車が到着したとの情報が入ってきましたが、大川容疑者の死亡が確認されたとのことで――」
「……っ!」
私は震える手でテレビのリモコンを何とか掴むと、慌ててテレビを消した。
怯える私をよそに、翔太が楽しそうな声で言う。
「ママ―、おえかき、できたー。みてみてー!」
弾んだ声音の翔太とは対照的に、まだひきつった表情が張り付いたままの私は、できるだけ平静を装って翔太の方へ向き直る。
「!!」
その絵を見て、私に再び戦慄が走る。
悲鳴をあげそうになる口元を抑えながら、私は無邪気な息子に声をかける。
「……し、翔太。これ、なんの絵?」
尋ねた声が上ずる。震えが止まらなかった。
「ん、とねー。かみさま!」
白い画用紙に書かれていたのは、赤と黒で書かれた無数の目。びっしりと並んだたくさんの目が、私をじっと見つめていた……。
午後10時過ぎ。
夫の和久が仕事から帰ってきた。
「おかえりなさい。」
「おう。」
答えながら、和久はネクタイを緩め、外していく。
「翔太は?」
「もう寝たわ。」
私は昼間の出来事を思い出し、表情が曇っていくのを自覚した。
そんな私を横目で見ながら、和久はスーツのジャケットを脱いでハンガーにかける。
「……何? 翔太、なんかあった?」
私は話すべきかどうか少し悩んでから、ゆっくりと口を開く。
「実は……。」
私は昼間の出来事を和久に話して聞かせながら、あのおぞましい絵を差し出した。
「気にしすぎだよ。そんな、偶然だろ。これだって、ある意味芸術的とも言えるかもしれないし。」
「そうよね……。」
なんとも煮え切れない気持ちのまま、私は和久の晩酌の準備を始めた。
§
それから数日は特に変わった様子もなく、翔太はいつも通りの人懐っこい様子で私に甘えたり、幼児向け番組を見たり、ゲームで遊んだりしていた。
もしかしたら、最近買ってやった新しいゲームに目玉のキャラクターがいたのかもしれない。買い与えるゲームの内容をもっとしっかり確認すべきだった、と少し反省もした。
先生からの連絡帳を読んでみても、幼稚園での様子も特におかしなところはないらしいし、なにより最近友達が増えたみたいで、あまり聞き覚えのない名前の子たちからも、ビー玉やセミの抜け殻、折り紙で作った王冠、お絵描きの時間に描いてもらったという翔太の似顔絵なんかももらってきていた。
「和久の言う通り、私の考えすぎだったのよ。」
そんなつぶやきを落として、マンションのエレベータに乗り込む。
午後2時過ぎ。
今日もマンションの少し先で、幼稚園バスの到着を待つ。
今日は藤原さんがいない。隆之介君も発熱だろうか。
ここ数日、翔太のクラスでは熱を出す子が立て続いて出ているらしい。翔太は大丈夫だといいけれど……。
考えているうちに幼稚園バスが来て、降りてきた翔太が明るい声で「ただいま」と言う。
良かった。元気そうだ。
私は「おかえり」と言って、翔太の手を引き、自宅マンションへと向かった。
帰宅して、ふたりとも手洗い、うがいを済ませてからリビングに向かう。
「隆之介君、今日お休みだった?」
私は何気ない気持ちで翔太に聞いた。
すると、思いもよらない答えが返ってくる。
「うん。ぼくに『くもつ』をくれなかったからだって。」
「くもつ……?」
どきり、と心臓が跳ねる。くもつ、供物……?
私は屈んで翔太に視線を合わせると、その小さな両肩を掴んで、真剣なトーンで尋ねた。
「ねえ、翔太。供物って何? そんなこと、誰に言われたの?」
「んー。わかんない。でも、かみさまが言ってたんだ!」
ぞくりとした。
心臓が早鐘を打つ。神様……? 神様って一体……。
供物を捧げないこどもには熱を出させる……? そんな神なんて、もはや神ではない。まるで悪魔だ。
私は翔太の肩を掴んでいる手を離すと、愕然と肩を落とした。
§
真っ暗だ。
誰もいない。
セミの声だけがやけに頭に響いて煩わしい、まるで脳みその中にセミが張り付いているみたいな、不快さだった。
苛立ちと焦燥に駆られながらも、私は翔太の姿を探して歩く。
――翔太、どこなの? こんなところ、早く帰りましょう。ねえ、翔太……。
暗闇の中をぐるぐると歩き続ける。
翔太、翔太、翔太、翔太。翔太がいない。翔太。翔太。
ふと、暗がりの中にぼうっと小さな背中が浮かび上がる。
――ああ、翔太……!
やっと翔太を見つけ、慌てて駆け寄ろうとする。
その瞬間、翔太の身体からどす黒いどろりとした液体が噴出して、彼を包み込んでしまった。
――翔太!翔太!
急いで近づこうとしたけれど、足がもつれて転んでしまう。地面がぐにゃぐにゃして、立ち上がれない。
その違和感に視線を落としてみると、地面は赤黒く、青い血管の通った肉壁のようになっていて、翔太を呼ぶけれど、もはや声にならない。
恐怖で固まる身体を、どうにか動かして、翔太の方へ手を伸ばす。けれども翔太の身体は黒い液体とどんどん混ざり合っていく一方だった。
黒い液体と同化した翔太の身体はだんだんと形を変えてく。
――ああ、翔太が翔太でなくなってしまう!
けれどもに私はどうすることも出来ない。何もできない無力感に苛まれる。
視線を逸らすことさえ赦されずに、ただ翔太だったものを見つめ続ける。
やがて赤黒い肉塊と化したそれが、おびただしい数の目を見開いて、ぎょろりと私を見つめる――
§
「……きこ! ……あきこ!」
名前を呼ばれて目を開けると、そこにはスーツを着た和久の姿。
「なんか青い顔して寝てたから、ふたりで適当に朝飯済ませといたけど。俺もう行くから、翔太のこと頼むな。」
「あなた……。」
急に現実に引き戻された私は、うまく状況が呑み込めず、ただじーっと和久の顔を見つめる。
「なんだ、まだ寝惚けてるのか? もう8時前だぞ。幼稚園、9時からだろ? しっかりしてくれよな。」
「ごめんなさい……。」
「じゃ、俺は行くから。」
「ええ……。」
私は汗に濡れた重い身体をなんとか起こして、のろのろと着替え始めた。
午前8時45分ごろ。
マンションを出た私は、翔太の手を引いて、幼稚園バスの留まる場所へまでゆっくりと歩く。
あれは夢よ。
そう、ただの悪い夢……。
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も考える。
すると、不意に聞こえる翔太の声。
「痛っ!」
はっと我に返って、私は右手を繋いだままの翔太へと視線を落とす。
「どうしたの?」
見ると、翔太の左手に摘ままれている、大きなカマキリの姿。
カマキリは威嚇するように鎌を振り上げている。
「カマキリ、ばくはつしてしね!」
翔太が怒ったようにつぶやいた。
すると、カマキリの腹がゆっくりと膨らみ始める。
――ぷちっ……、ぱあん。
カマキリの腹が爆ぜる。中から細長い針金のような寄生虫ががにょろにょろと出てきた。
「いやあ……!」
私は咄嗟に翔太の手を振り払い、後ずさった。
「カマキリが悪いんだ!」
翔太が、むすっとした様子で叫んだ
私はなんとか呼吸を落ち着かせて、冷静になるよう努めた。
――きっと翔太が力を入れて握ったからよね……?
「む、虫さんだって生きてるんだからそんなことしたらかわいそうよ」
絞り出すようにそう言ってみるも、翔太は不満げな表情を浮かべている。
「えー……。」
どうにか送迎バスを見送って、マンションに戻ろうとすると、藤原さんに声を掛けられる。
「どうしたの? ぼーっとして。具合でも悪い?」
声をかけられてやっと藤原さんの存在に気が付く。
挨拶をしたかどうかさえ定かではない。
「あ、すみません……。なんだかちょっと、体調が優れなくて。」
私は相当変な顔をしていたのだろう。藤原さんが心配そうな瞳で私を見つめる。
「なにかあった? 良かったら、話聞くよ。」
「ありがとうございます。実は翔太のことで、ちょっと……、」
どこまで話すか思い悩んで、私は結局、翔太が自分のことを神様だと言って、死ねという言葉をよく使うようになったということだけ話してみた。
すると藤原さんは顎に手を添えて、うーん、と少し考えるようなそぶりをした。
「……あー、そう言えばうちの子もそんなこと言ってたわー」
その言葉に、心臓が跳ね上がった。
「え? 隆之介君が……?」
慌てる私をよそに、藤原さんは何でもない様子であっけらかんと答える。
「ええ。今は翔太くんが神様だからー、とかって。」
「そうなんですか?」
「うん。翔太君は『カミヤドリ』だからって」
「カミヤドリ? なんですか、それ?」
「さあ? どうせアニメかなんかを真似た、ただのごっこ遊びでしょ」
そっけなく言い放たれた言葉に、私は背筋が凍る思いだった。
§
家に戻った私は、スマートフォンで「カミヤドリ」と検索してみる。
最初に出てきたのは、「神宿り(かんやどり)《武神である八幡神の宿る所の意》兜の頂。八幡座。」
――違う。これじゃない。
やっぱり、ただのこどもの遊びで、そんなもの実在しないのだろうか……。
それでも、やはり腑に落ちなかった私は、ざっとページをスクロールしていく。
すると、あるオカルト掲示板に「神宿り」と記載されているのを見つけた。
「神宿り……。これだ。」
ひとりきりのリビングで、思わず言葉を漏らしながら、私は吸い込まれるようにスレッドを開いた。
0012 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:22:37.57
ここの住民は神宿りって知ってる?
1ID:qtyJ5S12840(1/2)
0013 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:22:46.62
>>12
なにそれ、しらねw
ID:xW4lKxy7670(1/5)
0014 本当にあった怖い名無し2019/07/31(水) 22:23:22.85
知ってる。昔婆ちゃんに聞いたんだけどさ、マジでやばいやつ。
1ID:qtyJ512S160(1/2)
0015 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:24:54.12
>>14
kwsk
ID:xW4lKxy70(1/5)
0016 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:27:22.74
婆ちゃんがこどもの頃、なんか、ひとりの子に悪霊?みたいなのが憑いて、その子が死ねって言うと、みんな死んじゃったんだってさ。
んで、周りの子はソレが何なのかわかってるみたいで、その憑りつかれた子を神としてあつかって、プレゼントとかしまくったんだってさ。どうやらご機嫌が必要みたいでね。
その子の様子はいつもどおりで、最初は、誰も信じてなかったんだけど、あまりに続くんでこれはまずいってことになって、村の寺の和尚さんに見てもらったんだって。
1ID:qtyJ512S160(1/2)
0017 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:27:46.61
>>16
こy
神宿りっていうからにはやっぱ神様なんかな?
その後どうなったん?
ID:xW4lKxy70(1/5)
0018 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:30:32.14
和尚さんが言うには、ほんとに神様なのかどうかわからないけど、とにかく自分の手には負えないってことだったらしい。
で、村の偉い人らが集まってなんか決めたみたいだけど、次の日からその子行方不明になって。警察が調べたら崖の下でタヒン出たんだってさ。
婆ちゃん、当時中学生くらいだったから、村の偉い人が何を決めたのかは知らないそうだけど、たぶん。。。
それからその話はタブーになって、真相は謎のままだってさ。
1ID:qtyJ512S160(1/2)
0019 本当にあった怖い名無し 2019/07/31(水) 22:31:44.44
>>16
まじかよ……。
俺の娘がこれまで全然仲良くなかった子に俺が買ってやったリカちゃん人形あげたって言うから、なんでって聞いたら「神宿りの供物だから」とかって言ってたんだが……。
1ID:qtyJ5S12840(1/2)
――ああ。なんてことなの。
そこまで読んで、愕然とした。
この話が本当なら、私はどうすればいいというのだろうか……。
私は何か解決策はないかと、その後もオカルト掲示板を読み漁ったけれど、結局それ以上の情報は何も見つけられなかった。
§
そうこうしている間に、すっかり時間が経ってしまって、私は慌ててマンションを出る。
もう少しで、翔太の幼稚園の送迎バスが来るころだった。
小走りでやってきた私に、藤原さんが声をかける。
「バス、もう来ちゃったから、翔太君預かっといたよ。……体調、まだ悪いの?」
見ると、藤原さんの足元には隆之介君と――泣いている翔太の姿があった。
「いえ……、ありがとうございます。すみません……。」
藤原さんに頭を下げてから、私は屈んで翔太を見つめる。
「翔太……、どうして泣いてるの?」
私が問いかけると、代わりに隆之介君が答えてくれた。
「あのね、翔太くんね、真凛ちゃんに告白したんだ。でもね、真凛ちゃん、かみさまぐちょぐちょで、おめめいっぱいで、きもちわるいから翔太くんはいやって言ったんだよ。」
その言葉に、頭を金槌で殴られたような気がした。
神様……——悪霊? そんなおぞましいものが本当に翔太に……?
「……うえぇーん。真凛ちゃんなんて、ぐちゃぐちゃになって死んじゃえ!」
「翔太! そんなこと言わないの!」
もう手遅れだとわかりながらも、私は咄嗟に翔太の口をふさいだ。
そんな私の様子を見兼ねたのか、藤原さんが口をはさむ。
「ちょっと田辺さん、そんなに怒らなくても……。こどもの言うことだし、ちょっと落ち着きなよ。」
「……何も知らないくせに!」
思わず、藤原さんに食ってかかる。
そんなことをしても、どうにもならないというのに。
「……なによ。人が親切で言ってあげてるのに。隆之介、帰ろっか。」
そう言って、藤原さんはマンションへと帰っていった。
なすすべもなく、私は翔太を連れて近くのスーパーまで買い物に向かう。
踏切にさしかかったとき、向こうから真凛ちゃんとそのお母さんとすれ違った。
「あら、田辺さん。こんにちは!」
真凛ちゃんのお母さん――皆川さんがにこにこと声をかけてきた。
「こ、こんにちは……。……行こう、翔太。」
私はこみ上げる恐怖に蓋をして、そそくさと皆川親子から離れようとしていた。
翔太はさっきまで泣いていたのが噓のように、けろっとした態度で真凛ちゃんに声をかける。
「バイバイ、真凛ちゃん。」
――真凛ちゃんなんて、ぐちゃぐちゃになって死んじゃえ!
翔太の言葉を思い出して、嫌な予感に胸がざわざわと音を立てた。
踏切を通り過ぎた時、ちょうどカンカンと音が鳴り始めて、遮断機がゆっくりと下りてくる。
不意に翔太が立ち止まって、後ろを振り返る。
「し、翔太……?」
翔太に倣って振り返ると、真凛ちゃんがぎこちない、まるで操り人形にでもなったかのような奇妙な動きで線路に向かって走り出す。
皆川さんが何か叫びながら、慌てて真凛ちゃんの後を追う。
刹那……——
電車が通り過ぎ、ぐちゃっという肉のひしゃげるような嫌な音。
ばらばらと飛び散る、赤い肉片。
びちゃりと音を立てて、そのひとつが、私の右頬にこびりつく。
右頬に生暖かい感触。
咄嗟に右手で頬を擦ると、ぬめりとした不快な感触。
指先に付着したそれを見つめて、私は思わず声をあげる。
「きゃあーー!」
「バイバイ……。」
無表情でつぶやく翔太に、強い恐怖が押し寄せる。
肉片にまみれた翔太を抱きかかえ、慄きながらも私は近所のお寺へと走った。
どれくらいの時間走っただろうか。
ミンミンと泣き続ける蝉の声が頭に響いて離れない。
息が切れ、ひゅうひゅうと呼吸の乱れる音がうるさい。
全身にびっしょりと汗をかき、身体に張り付いた服が不快だった。
大きな墓地に併設されているお寺の門をくぐろうとしたとき、腕に抱えた翔太が急に暴れ始める。
「いやー。かみさまがおこってるから、ぼく、いかない!」
泣き叫び暴れる翔太をどうにか押さえつけながら、私はお寺の門をくぐった。
墓地の真ん中にある本堂への道を、暴れる翔太を抑え込みながら無理やり進む私を、すれ違ったお爺さんがいぶかしげな眼でじろじろと見つめていたけれど、そんなことは気にしていられなかった。
私は本堂の左下にある、寺務所のような小さな受付窓口の戸を開けて中へと入る。
「すみません、ご住職はいませんか……!」
半狂乱になりながら叫ぶ私の声に、怪訝そうな顔をした住職が、奥からのっそりと姿を現した。
「いきなりすみません……、あの、む、息子が……息子が……!」
息も切れ切れに必死で言葉を紡ごうとする私を見下ろし、住職はこわばった表情で言葉を遮った。
「私にはどうすることも出来ない。……帰ってくれ!」
「そんな……! でも……!」
縋りつくようなまなざしで住職を見つめる。
その時、翔太が、一層大きな声で鳴き始めた。
「あぁぁん……! 帰るーー!!」
すると、開け放ったままの寺務所の戸の向こうで、風もないのに無数の卒塔婆がカタカタと音を立て始める。
音は翔太の泣き声に呼応するように、だんだんと大きくなっていく。
「帰れ! 帰ってくれ!」
住職が私を寺務所から押し出そうとする。
「ちょっと待って……! せめて話だけでも……!」
押し合っているうちに翔太が叫んだ
「あああああ! お坊さん、死んじゃえー!」
すると、住職の動きが止まり、口元からつうっと一筋の血が流れる。
瞬間、ごぼっと音を立てて、住職が吐血する。
声にならない悲鳴が、私の口から洩れ落ちる。
倒れこんでくる住職の身体を押しのけて、後ずさり、逃げるようにして家へと帰った。
それから、どうやってマンションまで帰ったのかよく覚えていない。
気が付くと私は翔太を抱きかかえたまま、リビングにへたり込んでいた。
「ママ―、べたべた、きもちわるい……。」
翔太の声に、はっとする。見下ろすと、翔太の顔に、いくつもの真凛ちゃんだった肉片がこびりついている。
「ひっ……!」
私は咄嗟に翔太から手を放す。
「ぼく、おふろ入りたい……。」
言われるまま、私は翔太とふたり、洗面所へと向かい、服を脱ぐ。
ふと顔を上げ、鏡を見やると、右頬にカピカピに乾いた真凛ちゃんの肉片がへばりつい置ているのが見えた。
私は慌てて鏡から目を逸らすと、翔太を連れて風呂場へと入った。
§
シャワーを浴び終えるとほんのわずかに心が落ち着いてきた。
私は「晩ご飯、作らなくちゃ……。」と、うわごとのようにつぶやいた。
けれど、もうとても買い物に出かける気力はなかった。
仕方なく、冷蔵庫の中のあり合わせで、なんとか3人分の食事を作る。こんな時に食事の支度なんて、と思ったけれど、何かしていないと心がおかしくなってしまいそうだった。
翔太とふたりで、食事を済ませる。
ぼんやりとして頭が働かず、食事は味がしなかった。
気が付くともう午後10時前になっていた。
眠たそうに眼を擦る翔太を連れて、寝室へと向かう。
隣に添い寝しながら、翔太の身体を布団の上からそっとさする。
その寝顔は、いつもどおりで愛らしい。こんなに無垢であどけない顔した、この子が、まさか……——
信じたくない気持ちが胸を覆う。
けれども、昼間の出来事が頭の中から離れない。
しばらくそのまま翔太の顔を見つめていると、玄関のほうから、カチャリと音がした。
私は重い身体を起こして、リビングへと向かう。
「ただいま。」と言って、和久がネクタイを緩め始めた。
和久がジャケットをハンガーにかけ終えるのを見届けてから、私は「話があるの」と切り出して、和久と並んでソファーに腰を下ろす。
そして、せつせつと、昼間の出来事を和久に話して聞かせた。
「そんなこと、あるわけないって。さっき翔太と一緒に居眠りして、夢でも見てたんじゃない?」
「夢なんかじゃない! 私は確かに……!」
むきになって言い返す私の話を遮るようにして、和久が私にのしかかる。
「そんなことよりさあ、二人目作ろうぜ。そろそろ翔太の為にも……、さ。」
和久に組み敷かれた私は、必死に抵抗を試みる。
「ちょっと、私は真剣に……。」
言いかけた私の唇を、和久の唇が塞ぐ。
口内に和久の舌が差し込まれ、右から左にゆっくりと歯列をなぞられる。
同時に和久の右手が私の服をめくりあげ、その手が胸の上を這い、やがて背中を撫でて、そっとブラジャーのホックを外そうとした、その時……——
「パパ、なにしてるの?」
リビングの入り口に、翔太の姿。その先の廊下には、ほの暗い闇が広がっている。
「……プ、プロレスっごっこ……、かな?」
眠たげに立ち尽くす翔太に、和久は慌ててそう告げると、いそいそと私の上から身を起こす。
そんな和久を見て、翔太は何を思ったのだろう。
突然、大きな声をあげてこう告げる。
「ママをいじめるな! パパなんてどろどろになって死んじゃえ!」
途端に、和久が胸を押さえて苦しみだす。
「……っ、あなた! あなた!」
必死に和久の背をさするけれど、彼は苦悶の表情を浮かべて嘔吐した。
急いでスマートフォンを探して、救急車を呼ぶ。
「あの……、夫が……、夫が急に苦しみ出して……!」
私が電話を課kぇている間に、和久は床に転がり込んでうめき声を上げながらのたうち回る。
どうすることも出来ずに、ただ和久の横に座りこんで動揺しているうちに、和久は大量の血を吐きだして、やがて動かなくなった。
その後、救急車が着て、私は動かなくなった和久と、うとうとしている翔太と共に、救急車に乗り込んだ。
救急隊員が和久の様子を確認して、どこかの病院とやり取りをしている。
やっと病院についた頃には、和久はもう、すっかり冷たくなっていた。
病院のベッドに横たわる、物言わぬ和久。
苦痛に歪みきったその顔に、白い布がそっとかけられる。
「——午前1時13分、ご臨終です。」
静かに告げられた声に、思考が現実へと引き戻される。
――……死んでしまった。和久が、死んでしまった。私を遺して。逝ってしまった。
翔太とふたり、私は、これから一体、どうすれば……。
私は和久の遺体に縋りつくと、声を上げて泣き崩れた。
§
それからどうしたのか、あまりよく覚えていない。
和久を診た医師が、険しい表情で「これは医学的に説明がつかない……。」と言っていたことだけ、うっすらと覚えている。
医学的に説明できないことが、現実としておこったのか……。
翔太を連れてマンションに戻ると、エレベーターの前で、藤原さんと隆之介君に出くわした。
……もう、登園の時間か。ぼんやりした頭で考える。
藤原さんはこちらを見るなり、隆之介君を大事そうに抱き上げ、ぎゅっと抱きしめたまま、私を睨みつけた。
「……あんた、こどもに何させてんのよ? 他のママさんたちから聞いたわよ。最近じゃ、クラスのみんなが翔太君の言いなりだって。それに、供物とか言ってみんなからおもちゃを取り上げたり、他の子たちに木の枝なんかを咥えさせて、自分の周りをぐるぐる回らせたりもしてるらしいじゃない。一体、どういう教育してるわけ?」
矢継ぎ早にそう凄まれて、私は翔太の手を引いて、逃げるようにエレベーターに駆け込んだ。
リビングに入ると、私は翔太の前に屈みこむ。
そっと翔太を抱きしめて、考えていると、ふいにスマートフォンが鳴る。……幼稚園からの電話だった。
「……はい。田辺です。」
「あ、おはようございます。翔太君のお母さんですね。××幼稚園の……、翔太君の担任の、谷園です。今ちょっとお時間よろしいですか?」
「はい、大丈夫です。なんでしょうか……?」
「実は、翔太君のことなんですが……。最近、周りのお友達からおもちゃを取り上げたり、乱暴な言動が多くなっていて……。その、『ぼくはかみさまだから。目のかみさまが、みんなをみてるよ!』と、口癖のように言っていて。あの、ご家庭ではどうでしょうか? なにか、その……、そういった、信仰なんかをしていらっしゃるんでしょうか……?」
「いえ、信仰といったことは、何も……。私にもわからないのですが、突然『今日からぼくがかみさまなの』と言い出して……。それから、変な絵を描いたり、その……『しんじゃえ!』というようなことをよく言うようになったりしてしまって……。」
私はすがるような思いで、谷園先生に真実を打ち明けた。
どうしたらいいのか、相談に乗ってほしい。そんな気持ちでいっぱいで……。
「……そうですか。あの、昨日、翔太くんは真凛ちゃんと喧嘩をしたみたいでして。その真凛ちゃんが亡くなってしまったというご連絡を受けていて……。大変申し訳ないんですけれど……、他の子の心のケアもありますし、翔太君、しばらく登園を控えてもらえないかと思いまして……。」
遠慮がちに言われたその言葉は、翔太への明確な拒絶で。次第に目に涙が浮かんできた。
「……っ、わかり……ました……。」
それだけ言って、電話を切る。
登園を控えろだなんて……。
どうしてそんなひどいことを言うの? 違う。悪いのは翔太じゃない。
みんなみんな、悪霊のせい……——
ふいに幼いころの記憶がよみがえる。
父に叱られた、あの日の記憶。
「そうじゃない!」
そう言われて、パンと右手を叩かれる。
ひりひりとした痛みに、思わず、涙があふれる。
「……あきこ、何度言ったらわかるんだ。箸の持ち方が違う。ちゃんと持てるまで練習しなさい。」
「お父さん、ごめんなさい……。」
父に叩かれるのが怖くって、口ではそう言ったけれど、あの時本当は、「お父さんなんて、死んじゃえばいいのに」と、確かにそう考えていた。
誰だって、きっと同じだろう。
誰かに、「死んでしまえばいいのに」と感じたことが一度もない人なんて、きっとどこにもいないだろう。
ましてや、それが幼いこどもともなれば、余計に短絡的にそう考えてしまう。その想いがそのまま現実になってしまうのだとしたら、それはどんなに残酷なことだろう……。
それは、いったい、誰の罪なのだろうか……?
悪いのはこの子じゃない。でも、なら、いったいどうすれば……——
「……一緒に死のうか?」
幼い我が子に問いかける。
「ママはしなないよ。ぼくがずっとまもってあげるね。だからもう、泣かないで。」
そう言って、背伸びをして私の頭をぽんぽんと優しく撫でる翔太に、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「ごめんね。ごめんね……。」
思わず、翔太の身体をぎゅうっと抱きしめると、「ママ、いたいよ」と可愛らしく身をよじった。
どのくらいそうしていただろう。
いつの間にか眠ってしまっていた翔太を寝室へと運び、リビングに戻ってふっと息をつく。
……私はどこかおかしい。精神科を受診したほうがいいだろうか? 翔太の為にも。
そう思い立ち、ソファーに腰を下ろす。
スマートフォンを取り出し、検索をしようと、画面を操作する。
すると、検索履歴が開かれて、目に映るのは、「神宿り」の文字だった。
「……っ!!」
私は思わずスマートフォンを手放した。
静まり返ったリビングに、どきどきとうるさい、心臓の音。
すると、玄関のドアからドンドンと叩く音が聞こえた。
「出てこい! 人殺し! あんたたちのせいで、真凛は……、真凛は……っ!」
ドアの外から、泣き叫ぶような声がとどろく。
私は恐ろしくなって、耳を塞いでうずくまる。
いつの間にか、あたりは暗くなっていて、皆川さんの怒鳴り声もすっかり聞こえなくなっていた。
――今、何時だろう。
何気なくテレビをつけると、そこには見慣れた景色が映し出されている。
暗い部屋の中、いやに明るい画面が目に染みた。
「えー、○○県××市の寺院で、住職が不審死したという事件について……—―」
私は慌ててテレビを消す。
一体どうすれば……——
頭を抱えていると、突然間の抜けた声が聞こえてくる。
「ママ―、おなかすいたー。」
私は何も言えず、ただただ涙を流し続けた……。
§
翌朝、インターホンの音が聞こえて、私はいつの間にか眠ってしまったことに気が付く。
ふと床に視線を下ろすと、すやすやと寝息を立てる翔太の姿。
私は音をたてないようにそっと立ち上がって、玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこには年配の警察官と、若い警察官の姿があって、年配の警察官のほうから、「昨日の件で、少し話を聞かせていただきたいのですが」と声をかけられた。
警察署に着くと、私は取調室に連れていかれ、翔太は婦警さんと一緒に別の部屋へと入っていった。
「ご主人を亡くされたばかりで、大変恐縮ですが、昨日の午後、何をしていましたか?」
「……息子と一緒に、買い物に行きました。」
「それだけですか? ○○寺には行っていない?」
そのお言葉に、思わず肩がびくりと震えた。
取調官は私の動揺を見逃さない。
「○○寺に、行ったんですね?」
「はい……。」
「その時、住職と話をした?」
「はい……。でも、その……住職が突然倒れられたので、怖くなって、そのまま帰ってしまいました。」
「……そうですか。ずいぶん大きな声で話されていたようですが、住職とは何のお話を?」
「それは、その……。」
「……答えられない? では、次は旦那さんのお話をしましょうか――?」
私は最初こそ疑われていたけれど、結局どちらの死因も他害の可能性は低いとの検視結果が出て、なんとか釈放された。
和久の司法解剖の結果は、惨憺たるものだった。
和久の内臓はまるで外側から直接酸を浴びせかけられたかのようにどろどろに焼け溶けていたそうだ。それは、たとえ劇薬を経口摂取したとしてもあり得ないような状態だったらしい。
夜。
やっとのことで、ふたり分の食事を作り、翔太と一緒に食べる。
食欲は全くなかったけれど、翔太がおなかをすかせていたから、気力を振り絞って料理をしたのだ。
少し食べたけれど、すぐに吐き気を催して、慌ててトイレに駆け込み、こみ上げてきたものを嘔吐する。
口の中に、何とも言えない不快感が残る。
朝も昼も食べていないままだったので、吐いたものは、黄色い胃液がほとんどだった。
「……ママ、だいじょうぶ?」
翔太が心配そうにトイレの前に立つ。
「……大丈夫よ。……ねえ、翔太。ママ、今日はもう疲れちゃったから、お風呂はやめて、もう寝ようか?」
「うん。」
私は洗面所で軽く口の中をゆすぐと、翔太と共に寝室へと向かった。
§
暗闇の中。無数の目に囲まれる。
目はぎょろぎょろと動いていたけれど、やがて私を捕らえて離さなくなった。
無数の目に射貫かれて、私は身動き一つとれないまま。
嬲るようなじめついた視線に、どんどん動悸が激しくなる。
胸の奥が重苦しくて、息をすることさえできなくなる。
苦しみにもがいて、和久を呼ぼうとするけれど、肺の奥まで水に浸されたようになって、口を明けても声を発することはできなかった。
だんだん周囲がざわめき始めて、呪いのような声が耳元をかすめる。
あいつも死んだ。こいつも死んだ。あいつも死んだ。こいつも死んだ。あいつも死んだ。こいつも死んだ。悪い奴は死ね。カマキリは死んだほうがいい。真凛の死は正しい。住職は死んで正解だ。和久も死んだ。悪い奴は死ね。カマキリは死んだほうがいい。真凛の死は正しい。住職は死んで正解だ。和久も死んだ。悪い奴は死ね。カマキリは死んだほうがいい。真凛の死は正しい。住職は死んで正解だ。和久も死んだ。みんな死んだ。みんな死んだ。みんな死ねばいい。お前も死ねばいい。みんな死んだ。みんな死んだ。みんな死ねばいい。お前も死ねばいい。
みんな死んだ。みんな死んだ。みんな死ねばいい。お前も死ねばいい。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ
誰のせいで死んだ?誰のせいで死んだ?お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいで死んだ。みんな死んだ。お前のせいで死んだ。次は誰が死ぬ?次はお前だ。お前のせいで死んだ。みんな死んだ。お前のせいで死んだ。次は誰が死ぬ?次はお前だ。お前のせいで死んだ。みんな死んだ。お前のせいで死んだ。次は誰が死ぬ?次はお前だ。お前のせいで死んだ。みんな死んだ。お前のせいで死んだ。次は誰が死ぬ?次はお前だ。お前のせいで死んだ。みんな死んだ。お前のせいで死んだ。次は誰が死ぬ?次はお前だ。
――……お前も死ね!!!
§
はっと目が覚める。
呼吸が荒く、ひどく汗をかいているのに、全身が凍り付いたように冷たい。
喉がからからに乾いていることに気が付いて、私は鉛のような身体を引きずって、リビングへと向かう。
――……水が飲みたい。
そう思いながら、電気をつけると、そこには翔太の姿がある。
背筋に悪寒が走るのを感じながら、私は翔太に声をかける。
「翔太……? 何しているの?」
私の問いかけに、翔太は何も答えなかった。
ただじっと虚空を見つめて、うつろな表情を浮かべたまま立っている。
覚束ない足取りで、なんとか翔太の前まで行くと、彼が手に何か持っていることに気付く。
「……翔太?」
私は翔太の手を取り、握りしめられた小さな指をそっと開いていく。
。
すると、それこには、大きな目玉がひとつ、じっと私を見つめていた……――
目玉が嗤う。
――……次は、お前が死ね!!!
「いやぁぁぁぁあ……!!!」
――……夢だ。
みんなみんな、悪い夢……。
忘れてしまおう。眠って、みんなみんな忘れてしまえれば……——
私はふらふらと寝室に戻ると、倒れこむようにベッドに入る。
そうして、朝まで、泥のように眠った……——
§
翌日。
翔太の手を引きながら、買い物に向かう。
本当はマンションから出たくなかったけれど、さすがにもう冷蔵庫の中身だけではしのぎ切れない。
公園のわきを通ると、目の前に赤いボールが転がってくる。そっと拾い上げると、そのボールには無数の目がついていて……—――
「……ひっ!!」
思わずボールを取り落とすと、翔太がボールを拾い上げてこちらを見上げる。
「……ママ、どうしたの?」
小首を傾げる翔太が抱えたボールには、どこにも目なんてついていない。
――……あれは、幻覚だったのだろうか?
そうしているうちに、近くにひとりの小さな子がやってくる。
「……翔太くん、ボールかえして?」
確か……、翔太と同じクラスの、啓介くんだ。
「いいよ。」
そう言って、翔太が啓介君にボールを手渡そうとした瞬間、ヒステリックな声が耳を貫く。
「うちの子に触らないで!」
啓介君のお母さんだろうか。すごい剣幕で翔太からボールを引っ手繰る。
「あの……、何もそんな言い方しなくても……。」
そう言った私を睨みつけて、彼女はスマートフォンを取り出して何やら操作した後、私の前に突き出した。
「これ、見なさいよ。あんたのことでしょ?」
目の前に突き出されたスマートフォンの画面には、ママ向けアプリの掲示板らしきものが映し出されている。
――……宗教的虐待。毒親。
そんな言葉の数々が、画面の中には書かれていた。
「あんたたちみたいなのがうろうろしてたら、おちおち公園でも遊べないわ。あー、クラス変えてもらえないかしら? ねえ、啓介。」
ずきり、と胸が痛んだ。
私は翔太抱き上げると、急ぎ足でスーパーへと向かう。
「……ママ。泣いてるの? 啓介くんと、啓介くんのママ、ころす?」
淡々としたその言葉に、眩暈を覚える。
黙り込んだ私に、腕の中の翔太が、追い打ちをかける。
「ねえ、ママ。ころす? ころす?」
「……もう、やめて……っ!!」
早くマンションに帰りたい。もう誰とも関わりたくない。
もう料理を作る気力さえない。私は急いでレトルト食品を籠に詰めると、セルフレジへと駆け込んだ。
買ったものを詰めるため、折り畳みのエコバッグを取り出そうと、肩にかけたハンドバッグを下ろして中を見る。
するとそこには、びっしりと並んだ無数の目……!
「いやあぁぁ!!」
そこから、どこをどう帰ったのか覚えていない。
気が付くと、翔太とふたり、マンションのエレベーターに乗っていた。
「ああ、和久……。」
縋るような想いで亡き夫の名前を口にする。すると、翔太が私を見上げて口を開く。
「パパはわるいことしたからね、ぼくがママを守ってあげたんだよ。えらい?」
にこりと微笑むその顔に、言い知れない恐怖を感じて、私は翔太の手を振り払うとエレベーターの隅へと後ずさる。
「ママ……?」
不思議そうな顔をして近寄ってくる彼を、反射的に突き飛ばす。
「……っ、来ないで!」
もう、彼が自分の息子とは思えなかった。
口先から死を放つ、恐ろしい、悪魔の化身……——
突き飛ばされた翔太はエレベータの床に倒れ込み、大きな声を上げて盛大に泣き出した。
「ぅえーーーん!」
耳障りな悪魔の鳴き声が、私の耳を劈く。
煩い。煩い。煩い。煩い……!
「……っ、ひっく……ママなんて、……ママなんて、し」
「やめてぇ……!!」
――殺される……!
私は狂ったように翔太に覆いかぶさって、必死にその口を押えつけた。
苦しげに顔を歪める翔太を見下ろし、吐き気を催す。
こいつがみんなを殺した。こいつが、この悪魔が……!
みんなみんな、こいつが悪い。こいつのせいで私は……——
だんだんと動かなくなっていく彼と対照的に、頭の中がどんどん熱くなっていく。
ちん、と場違いな音を立てて、エレベーターのドアが開く。
知らない誰かが、何か言いながら、私を翔太から引きはがそうとする。
言葉にならない声をまき散らしながら、私はなおも、こと切れた翔太の口をふさごうとする。
けれどもそれは叶わない。
「ママなんて、しんじゃえ。」
動かないその唇から、微かな声が聞こえた気がした。
§
「……で、息子さんを殺害したことは認めるんですね?」
先程と同じ取調室に連れていかれた私は、やはり先程と同じ取調官に尋問をされていた。
ただし、その顔つきは先程よりも遥かに険しいものだった。
「違うの! あれはもう翔太じゃないのよ! たくさんの人を殺した悪魔なの! だから私が……! そうしなければ、今度は私が……!」
何度も何度も説明したけれど、うまく伝わらなかったようで、取調官はうんざりした様子で深いため息をこぼした。
私は留置所に連れていかれた。
それから、どれくらいの時間がたった頃だろうか。
私は、白衣を着た医師とみられる人物の前に連れていかれた。
「田辺さんですね。こんにちは。何があったのか、全部話してもらえますか?」
柔和な表情を浮かべるその人に、私は今までの出来事の全てを、ありのまま、切々と時間をかけて訴えた。
「はい、わかりました。もう結構ですよ。」
優しい声で告げられて、やっと理解してもらえたのだと胸をなでおろした。
――私は悪くない。あれは翔太じゃない。私は悪くない。あれは翔太じゃない。私は私は私は私……?
気が付くと、真っ白な狭い部屋のベッドに寝かされていた。
窓はなく、白亜の壁に切り取られた一角……。
しん、と静まり返ったその部屋で、私は救われたような思いで息をつく。
灰の中に、新鮮な空気が広がっていく。
まるで、久しく息をしていなかったかのような、不思議な感覚。
ゆっくりと身を起こしぼんやりとしていると、ふいに頭の中に小さな声が聞こえた。
――……じゃえ。
――……んて、しんじゃえ。
――……ママなんて、死んじゃえ!
声はどんどん大きくなって、頭の中でわんわんと響き渡る。
「ああああ………!!!」
私は頭を抱えて声を上げる。頭の中の声を、振り払うように。
けれども、声はどんどん頭の中を駆け巡り、決して鳴りやむことはない。
ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!ママなんて、死んじゃえ!…………
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおおおあああああああああああああ…………!!!!」
私はもう、何も考えたくなかった。
世界は嘘で塗り固められていた。
誰も信じてくれない。警察も、医者も、近所の人たちも。
あの子が『神様』だったなんて、誰も思ってくれない。
それどころか、私は『息子を殺した女』という、たったひとつの名前でこの世に貼り付けられた。
「ママなんて、しんじゃえ!」
声はもう幻聴ではなくなった。
目を閉じれば、部屋の隅にあの子が立っている。
笑っている。じっと私を見ている。
口元は閉じているのに、声だけが、ずっと、ずっと耳元に囁いている。
――ママなんて、死んじゃえ
――ママなんて、死んじゃえ
――ママなんて、死んじゃえ
――ママなんて、死んじゃえ
私はもう、生きていられなかった。
それでも生きていた。
朝が来て、昼が過ぎて、夜が来る。
ご飯が出され、薬を飲まされ、眠らされる。
生きている。ただそれだけ。
そのことが、いちばんの罰のようだった。
『ママなんて、死んじゃえ』
私は、あの子を殺した。
私が殺した。
そうしなければ、私が死ぬと思ったから。
けれど今もこうして生きている。
じゃあ、あの子を殺した意味は?
――違う。
――私が生き延びてしまったことこそが、罪だ。
もう、翔太のせいにするのはやめよう。
悪魔でも、神でもなかった。
あれは私の子だった。私の大切な、大切な……。
……ううん、でも、だけど……——
思考がぶれる。
どちらが真実だったのか、もう自分でもわからない。
もう、なにを信じればいいのか、私には答えが見出せない。
翔太は神だったのかもしれないし、あるいはただのこどもで、私の頭がおかしくなっていたのかもしれない。
全部私の妄想だったのかもしれない。
最初から、ぜんぶ。
だとしたら――
私は、正真正銘の『人殺し』。
――じゃえ
――しんじゃえ
――ママなんて、しんじゃえ
――ママが、わるい
――ママが、ころした
――ママが、ころした
――ママが、ころした
――ママが、ころした
――ママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママがママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママママ……
――……ぜんぶぜんぶ、ママがわるい!
鏡に映った自分が、笑っていた。目が、口のように開いていた。
無数の目が、あの子の絵みたいに私の顔からこちらを見ている。
「……いや……! やめて……っ!」
顔を覆った手が、ぬるりと濡れていた。
どくどくと流れる血は、どこから出ているのかもわからない。
これは私の血なのか? それとも……——
わるいひとの血だ!
カマキリの血だ!
真凛ちゃんの血だ!
お坊さんの血だ!
パパの血だ!
誰かが、私の中に入ってきて、じゅくじゅくと脳をかき混ぜているようだった。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死…………——!
この声はどこから来るの?
誰が言っているの?
わたし?
あの子?
神様?
地獄?
……わからない。
わからない。
わからない。
わからない!
ああああああああああああああああああああああああああ…………!
だから――もう、終わりにしなきゃ。
声の言うとおりにすれば、きっと楽になれる。
地獄に落ちれば、もうこれ以上誰も殺さずに済む。
私の存在が、もう誰も傷つけなくて済む。
それは――救いだ。
私はゆっくりとベッドから降り、緩慢な動きで着ていた入院着を脱ぐ。
その服で、何度も繰り返したような手つきで、輪を作る。
そうしてそれをドアノブに括りつける。
中に首を入れる。
ゆっくりと膝を折る。
その瞬間、ぼた、と水音がした。
足元に、赤黒い液体がぽたりぽたりと垂れている。
その中心に、一つの大きな目玉が、じっと私を見上げていた。
――やっと、いっしょになれるね。
私は、にこりと笑った。
静かに、静かに、身体が落ちていく。
首が絞まり、視界が霞む。
でも、どこか幸せだった。
だって、これで――
ずっと翔太と一緒にいられるから。
「ママ、これでずっといっしょだね。」
地獄の底から、無邪気な笑みがふっと響いた。
★END★




