A-doll-scence
キィィ…
「…よっと」
錆びて軋む下駄箱から靴を取る。
上履きをしまい、靴に履き替える。
爪先を軽く床に打ち付け、半ばケンケンしながら昇降口を出る。
珍しく低い湿度と、厳しく照りつける日射しで、カリカリに揚がってしまいそうだ。
リュックサックに入っている折り畳みの晴雨兼用傘を取り出す。
少し伸ばして、柄にあるボタンを押すと、バッ、という音と共に裏地が黒い傘布が開かれた。
傘を肩に半分担ぐようにさし、触れれば火傷しそうなコンクリートとレンガの上に影を伸ばしながら歩けば、ぽたっ、ぽたっと単調に汗が滴り、干物になるかもしれない気分になった。
黒く塗りつぶされた歩道を歩けば、耳に障る蝉の音と道端に散在する狗尾草が風情のない夏を演出し、なんとも不愉快だった。
「ただいま」
「おかえり〜!」
家に帰ると、お母さんの声が飛んできた。
「今日暑かったでしょう」
「うん、すごく暑かった…」
「冷凍庫にアイス入ってるから食べて良いからねー」
その言葉を無視し、二階にある自室に戻る。
「…はぁ」
『ため息ばかり吐いてると幸せが逃げるよ』などということを何度言われたかは覚えてもいないが、仮にそれが本当だったとしても吐かずにはいられなかった。
そうしてベッドの上に制服のままうつ伏せになっていると、階段を登ってくる音が聞こえた。
思わずを身を固くし、あわてて居ずまいを正す。
ガチャ、とドアノブが回る。
「みか、麦茶持ってきたわよ」
「…ありがと」
だがそれだけでないことはもうわかっていた。
「……あ、ついでなんだけど」
「…」
「テスト、どうだった?」
隠しきれていない瞳の奥の黒い淀みが、目線に絡まりながらこちらに迫ってくる。
「…」
「ん?」
「……あんまり良くなかった」
「……成績表は?」
冷たく、押しつぶすような瘴気が部屋中を満たす。
鼓動が速くなるのを感じながらバッグを開き、クリアファイルを取り出し、用紙を取り出す。
「…はい」
お母さんはそれを手に取って固まった。
「…何この順位」
「…ごめんなさい」
紙がミシ、ミシャ、と音を立てて歪んでいく。
「……なんで?」
あぁ、まただ。
また、怒らせてしまった。
「お母さんがみかのためを思って助言してるのはわかってるよね?」
「…はい」
「なのになんで言うことが聞けないの?」
もうどうしようもなくなって、俯く。
「……ごめんなさ」
「謝って済むわけ?人の期待を踏み躙っておいて?」
「……でも」
バン!
グラスの置かれた盆がかすかにカーペットの上で跳ねる。
「でもじゃないでしょ!あなたが努力しなかったのが悪いんじゃないの?!」
「…」
「……あーはいはい、わかりました」
お母さんはグラスの入った盆を持ちあげ、ドアノブに手をかけた。
「そうやってすぐ私を悪者扱いすれば済むもんね」
「…ちがっ」
「いいよねー子供って」
「…………」
バタン
そのままドアを強く閉めて出て行った。
「………」
しばらくそのまま動けないでいた。
少し水の残っている毛の上に、くしゃくしゃになった紙屑が冷たく転がっている。
気を抜いたら口から漏れ出そうな嗚咽を堪え、ベッドに飛び込む。
「……………う」
目頭が熱くなる。
「……うぅ………………ぐすっ」
両手で顔に押し付けた枕が、湿っぽくなる。
『言い返せたらいいのに』などと何度思ったことだろう。
しかしそれは結局、夢の話のままになる。
なぜか、抵抗する気が起きないのだった。
「…おかーさんは、私のためを思ってるんだもん」
前に、友達にその話をしたことがある。
友達は、え〜っ、毒親じゃん、と笑いながらに言い、無視すればいいのに、とも言う。
そして、私は───何を思ったのか───お母さんにそのことを言った。
お母さんは一瞬驚いたような顔をして、しかしまた、細い目にどんよりと暗い色を宿して言った。
「…あのね、毒親って言うのは、その子が親の言うことをなんでも聞いて、いい子にしてるところの親を言うのよ」
私は、そのときは、そうだな、としか思わなかった。
お母さんにも、確かにそうかも、などと納得したように言った。
だがよくよく考えてみると、それは毒が効かないか効くかの違いだけで、どちらも毒ではあるかもしれない。
効かない毒というのはもはや毒ではないかもしれないけれど、ただ他に比べて毒性が高い、というだけでも毒と言えるのではないのか。
だからもしかしたら、私じゃなくて、別の子だったら、耐えられていないのかもしれない。
間違っても、私が特別だとは思っていないが、しかしその説には一定の真実が含まれていると思えた。
しかしそこまで思っても、決してそのことをお母さんには言わなかった。
あの曇った表情を見たくなかったから。
「…どうしたらいいの」
成績は「上げろ」と言われて、その通りに上げられるものではない。
だから、今までだって色々と試してきた。
クラスで友達と一緒に勉強したり、
家で一人で黙々とやったり、
近くの図書館で勉強したり、
動画サイトの映像授業で勉強したり。
でも全部だめだった。
そして、もう考えても考えても、何も案が思いつかなかった。
「…はぁ」
でもとりあえず、やるしかなかった。
──────────────────────
「何これ」
だめだった。
「…なんでこんなに点数が上がらないの?」
順位も上がらず、評定も上がらず。
「なんで?」
「ごめんなさい」
お母さんは無言のままだった。
「…なんで?」
「…」
なんで、と聞かれて分かってたら直してる、と言いたい。
でも、言っても、いや、言ったら、碌なことにならないと思った。
「全力でやってないからでしょ?」
「…え」
お母さんは、嘲るような目で私を見ていた。
「家に帰ってきてから、ずっと勉強してる?」
「…」
「してないでしょ?」
確かに、たまにスマホを見ていたことはある。
でもそれはたった数十分の話だった。
「…部活があった、から」
久しぶりに、実に数年ぶりに、反論をした気がした。
お母さんは大きくため息をついた。
「あのさ、部活って、あなたの趣味でしょ?」
「…え?」
「いい成績なんて残したことないでしょ?」
私は軽音楽部に入っている。
だがそもそも、軽音に大きな大会のようなものはなく、あっても校内コンサートぐらいだった。
「…うん」
「それはただの趣味でしょ?」
お母さんの言わんとしていることは分かるけれど、しかしそれは高校生活への否定のように聞こえた。
「私は、高校の時は、バレーボールで推薦を貰えるぐらい本気でやったのよ」
「…」
「朝練も昼練も、放課後練もあったわ、帰りが9時近くなることもあったわね」
「でもそれでも、大学はちゃんと行ってるわよ?」
「…うん」
またその話。
もう、耳にタコが複数個できてもおかしくないほど聞いた。
「なのにあなたは何?趣味やらスマホやらばかりに傾倒して、学生の本分である学業が疎かなんて」
「…」
「あぁ、高校は青春だからって?あのね、そんなこと言って、あなたの将来のことを考えたことある?」
私は何も言っていないが、しかしお母さんは止まらない。
「…ある」
「そう、じゃあ何、あなたは将来軽音で生きていくの?」
「ううん」
「じゃあ、なんでそんなに軽音に時間をかけてるの?」
「…楽しいから…?」
それ以外の理由が全く思いつかない。
「それって趣味と同じじゃない」
「…そうかも」
「なら、もっと時間削れるわよね」
「…?」
「勉強の方が大事なんだから、趣味の時間はもっと削れるよね?って言ってるんだけど」
納得がいかなかった。
そもそも私は2年生である。
受験だ受験だ、と言っても、まだ1年以上ある。
早くやっておいた方がいい、とは言うが。
「…え」
「え、って何?」
お母さんの目はいつもより大きく開き、そこに真っ黒の虚ろな穴が空いている。
「…軽音って、バンド組んでやるし…」
お母さんは顔色ひとつ変えない。
「あのね、周りへの迷惑なんか考えなくていいの」
「…え」
「人への迷惑とあなたの将来はどっちが大事なの?」
「…」
「それに」
お母さんは当たり前かのように続けた。
「あなたがいなくなってもそんなに困らないわよ」
「…は」
「あなたよりもできる人なんて掃いて捨てるほどいるし、いなくなったところなんかすぐ補填できるわ」
頭がおかしいのかと思った。
私への罵倒はともかく、人への迷惑よりも私の将来の方が大事なわけがない。
「あと…なんだったかしら、憧れの人が軽音にいるのだっけ」
確かにそういえばそんな話をした気もする。
一年生の時に見た演奏が本当に輝いて見えて、それ以来ずっと慕っている先輩がいるのだった。
「もしそんなのが辞めない理由なんだったらしょうもないわよ」
頭の中で、何かが切れた気がした。
瞬く間に、思考は憎悪と憤怒で塗りつぶされた。
「…なんで」
「大体、あなたが入ってる軽音だって…」
「なんで!?」
お母さんは驚いたようにこちらを見た。
その顔には、一瞬驚きが出ていたが、次の瞬間には嘲りと怒りと困惑に変わっていた。
「なんでって何?」
お母さんは怪訝そうに訊ねてくる。
その態度がよりイラっときた。
「なんでそんなこと言うのって意味!!」
そう言った瞬間、お母さんは声を荒げた。
「誰にそんな口聞いてるの?!ねぇ?!」
「知らないし!先に答えてよ!!」
私は、もう頭に血が上り、今までの体裁など全く持って保てない。
「知らないって何?!なんでそんなことって当たり前のことだから!!」
「は?!頭おかしいんじゃないの?!」
口をついて言ってしまった。
しかしもう止まれない。
「人に迷惑かけていいとか私はいてもいなくても変わらないとかっ!!」
呼吸を荒げながら続ける。
「意味わかんない!!!」
お母さんはその瞬間、黒く澱んだ目でこちらを見た。
背筋が凍った。
「都合のいいとこばっかり切り取ってくるの気持ち悪いからやめてもらえる?」
「…ぁ」
「それに私はあなたを想って言ってるの、理解して?」
「……ぅ」
言葉にならない喪失感が身体中に溢れた。
「…ぅ…」
お母さんは次を言おうとしたが、一瞬留まって、また続けた。
「泣くのやめてもらっていい?あのさ、泣いたら私が悪いみたいになるじゃん」
「……ぅぅ…」
「はいはい、そうですね、私が悪いですよ、ごめんなさいねー、これでいい?」
「……ぁ」
もうどうしようもなくて、耳を押さえる。
しかし、それを貫通して続きが聞こえた。
「あー何?今度は頭がおかしくなっちゃったアピールですか?そうですか、じゃあ何、私いなくなった方がいい?」
「……」
「わかりましたよ、いなくなればいいんですよね」
そう言ってお母さんはドスドスとベランダの方へ早歩きで向かう。
「…っ!違う!待って!」
足は止まらない。
「なんで、なんでっ?!」
慌てて足元にしがりつく。
お母さんはそこでようやく止まり、大きく、大きくため息をつくと、そのまま引き返して自分の部屋へ戻っていった。
私はそのまま動けなかった。
しばらくして、部屋で落ち着こうと、思い、部屋に行く途中、お母さんの部屋の前を通った。
『うぅっ…』
扉越しに呻き声が聞こえた。
あれ以来、私は二度と反抗していない。
蒸し暑い夏。
まだ沈みそうもない陽が窓枠を照らす。
湿っぽく冷たい空気を吐き出すエアコンが音を立てている。
「おかーさん、通知表!」
「よかったじゃない!オールAよ!」
「うん!」
思春期だから、などという甘ったれたことを言ってる人を見ると虫酸が走る。
「次も『A』取れるように頑張ろうね!」
子供は、いい子じゃなくちゃいけないのに。
「うん!」




