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偽りのゼッケン

掲載日:2026/08/02

第一章 作られた選手


 鏡の中には、二十二歳の女性ランナーがいた。


 肩にかかる黒髪、控えめなメイク、白と水色のランニングウェア。胸元から腰にかけての線は自然に見えるよう整えられ、足元には新品に近いレース用シューズが置かれている。


 しかし、その姿を作っているのは二十九歳の男、久世玲司だった。


 玲司はかつて実業団の下部チームに所属していた。目立った成績は残せず、故障をきっかけに退社した。その後は職を転々とし、借金だけが残った。


 走る力だけは失っていない。


 男子の主要大会で上位に入るほどではない。だが、今度開かれる女性限定の市民マラソンなら、自分の記録で賞金圏内へ届く可能性がある。


 玲司が目をつけたのは、総合優勝者に百五十万円が与えられる「ベイサイド・ウィメンズマラソン」だった。参加資格は二十歳以上の女性。玲司は架空の人物「白鳥凛音」を作り、二十二歳の市民ランナーとして大会へ申し込んだ。


 本人確認をどう通したのか、その詳細を玲司は誰にも話さない。彼自身も、そこを思い返すたびに胸の奥が冷たくなった。


 これは競技ではない。


 不正だ。


 それでも玲司は、鏡の中の凛音へ笑いかけた。


「ゴールまで、ばれなければいい」


 声は高く、柔らかい。


 玲司は発声練習を重ねていた。会話だけなら、初対面の相手に疑われることはほとんどない。歩き方も、写真に写るときの表情も、何か月も練習した。


 衣装の下には、体形を整えるための舞台用パッドや補正具を着けている。走行中にずれないよう固定されているが、本来は長距離競技に向いた装備ではない。


 試走では腹部が締めつけられ、呼吸が浅くなった。それでも玲司は改めなかった。


 白鳥凛音は、細身で落ち着いた雰囲気の女性でなければならない。


 玲司はそう決めていた。


 彼は賞金を欲しがっていた。


 だが、それだけではなかった。


 自分が作った人物が、現実の大会で誰からも疑われず、本物の選手として扱われる。その瞬間を見たかった。


 玲司はゼッケン引換証をバッグへ入れ、鏡の前から離れた。



第二章 前日の受付


 大会前日の受付会場は、港近くの展示ホールに設けられていた。


 壁には海沿いのコース写真が並び、スポンサー企業の旗が天井から下がっている。参加者たちは記念撮影をしたり、限定タオルを買ったりしていた。


 玲司――白鳥凛音は、受付係に参加証を渡した。


「本人確認をお願いします」


 その一言で、心臓が強く鳴った。


 受付係が画面と書類を見比べる。


 数秒が、異様に長い。


「確認できました。白鳥凛音さんですね」


「はい」


「明日は七時半までに指定ブロックへお越しください」


「ありがとうございます」


 玲司は微笑み、ゼッケンを受け取った。


 第一関門は通過した。


 人混みへ紛れようとしたとき、横から明るい声が飛んできた。


「白鳥凛音?」


 振り向くと、金茶色の髪を高い位置で結んだ女性が立っていた。紫色のジャケット、濃いめのアイライン、光るネイル。華やかな外見だが、露出した脚は長距離選手らしく引き締まっている。


 黒瀬美桜、二十三歳。


 大会公式サイトで紹介されていた優勝候補の一人だった。前年は総合三位。市民ランナーながら、実業団選手と互角に走ることもある。


「黒瀬さんですよね」


「知ってるんだ」


「有名だから」


「美桜でいいよ。うちも凛音って呼ぶし」


 美桜は遠慮なく玲司を見た。顔、肩、腰、靴。視線が一周して戻ってくる。


「何か変?」


「変っていうより、写真より落ち着いてるなと思って」


「写真写りが違ったのかも」


「走歴は?」


「大学に入ってから本格的に始めたの」


「二年くらい?」


「そう」


 玲司は用意してきた答えを並べた。


 美桜はうなずきながら、玲司の姿勢を見ている。


「腰、ちょっと固くない?」


「前に痛めたことがあるから」


「明日、無理しないほうがいいよ」


「大丈夫」


「ならいいけど」


 美桜は笑った。


「うち、初対面の人の走り方を当てるの好きなんだよね」


「まだ走ってないけど」


「立ち方で少し分かる」


「私はどんな走り方?」


「前半はきれい。でも疲れたら右腕だけ大きくなるタイプ」


 玲司の笑みが止まりかけた。


 それは本来の彼の癖だった。


「どうしてそう思うの?」


「右肩だけ少し前に出てるから」


 美桜は手を振った。


「明日、先頭で会おうね」


 玲司は去っていく背中を見送った。


 黒瀬美桜は危険だ。


 ただ速いだけではない。


 人を見ている。


 玲司はゼッケンをバッグの奥へ押し込み、足早に会場を出た。



第三章 交流食堂


 その夜、玲司は参加者向けの交流食堂へ顔を出した。


 本来なら余計な接触は避けるべきだった。しかし、受付で見かけた選手が夜の会場にまったく姿を見せなければ、かえって印象に残るかもしれない。


 玲司は端の席へ座り、パンとスープだけをトレーに載せた。


 すぐに美桜が向かいへ座った。


「また会った」


「偶然だね」


「うち、偶然ってあんまり信じない」


 美桜は玲司の皿を見た。


「それだけ?」


「緊張すると食べられなくて」


「明日フル走るのに足りないでしょ」


「後で補給するから」


「凛音って、過去の記録が見つからないんだよね」


 玲司はスプーンを止めた。


「調べたの?」


「優勝候補って聞いたから」


「小さい大会ばかりだったの。記録も公開されてない」


「所属クラブは?」


「今はなくなってる」


「そうなんだ」


 美桜はそれ以上追及しなかった。


 代わりに、自分の話を始めた。


「うち、去年三位だったんだ。二位との差が二十秒」


「惜しかったね」


「めちゃくちゃ悔しかった。最後の坂で守りに入ったから」


「今年は勝てそう?」


「勝つつもり」


 美桜は即答した。


「賞金があれば、来年の遠征費を全部出せる。仕事を減らして練習時間も作れる」


「実業団には入らないの?」


「誘いはあったけど断った。自分の生活を全部競技に預けるのが怖かったから」


「それでも走るんだ」


「走るよ。走りたいから」


 美桜はパンをちぎりながら、玲司を見た。


「凛音は?」


「何が?」


「どうして走るの?」


 玲司は答えを用意していなかった。


 賞金のため。


 借金のため。


 他人をだましてでも、自分がまだ速いと証明するため。


 どれも凛音の言葉にはできない。


「走ってる間は、余計なことを考えなくていいから」


 とっさに出た言葉だった。


 だが、それは玲司自身の本音でもあった。


 美桜は少しだけ笑った。


「それ、分かる」


 玲司は視線を落とした。


 相手の事情を知りたくなかった。


 賞金が誰かの遠征費になると知れば、奪う金がただの数字ではなくなる。


 食堂を出た後、玲司はホテルの部屋でメイクを落とした。


 白鳥凛音の顔が消え、久世玲司の顔が現れる。


「正面から勝つ」


 美桜の言葉が残っていた。


 玲司は鏡を伏せた。



第四章 スタート


 翌朝、海沿いの道路は薄い霧に包まれていた。


 スタート地点には数千人の女性ランナーが集まり、色とりどりのウェアが道路を埋めている。スピーカーから音楽が流れ、司会者が大会名を繰り返していた。


 玲司は前方ブロックに並んだ。


 体形補正用の装備は、前日のものより軽くしてある。それでも腹部は締めつけられ、呼吸は普段より浅い。汗が増えれば固定部分が緩む可能性もある。


 計画では三十キロまで先頭集団に残り、その後に抜け出す。


 隣へ美桜が入ってきた。


「おはよう、凛音」


「おはよう」


「眠れた?」


「少しだけ」


「うちは全然。こういう日のほうが速いんだけどね」


 美桜は笑い、靴ひもを確認した。


「昨日の話、覚えてる?」


「何の話?」


「先頭で会おうって話」


「もう会ってる」


「じゃあ、ゴールでも会おう」


 号砲が鳴った。


 集団が動きだす。


 玲司は演技を減らし、競技者の走りへ切り替えた。腕を小さく振り、歩幅を抑え、集団の流れに乗る。


 五キロ地点までは順調だった。


 美桜は先頭集団の中央。玲司はその数人後ろを走る。橋の上では海風が横から吹き、ゼッケンがばたついた。


 十キロを予定どおりの時間で通過する。


 胸元のパッドが小さく動いた。固定は外れていない。しかし、内側に汗がたまり始めている。腰の補正具も、着地のたびにわずかな違和感を伝えてきた。


 十五キロ手前で、美桜が横へ並んだ。


「速いね」


「美桜こそ」


「声、全然乱れない」


「呼吸が得意なの」


「変わった言い方」


 美桜は前へ出た。


 直後の給水所で、前の選手が急に減速した。玲司は避けきれず、紙コップの水を顔へ浴びた。


 反射的に頬を押さえる。


 落ちにくい化粧品を使っている。それでも、輪郭を整えていた部分が薄くなったかもしれない。


 美桜が振り返った。


「大丈夫?」


「平気」


「顔、触りすぎないほうがいいよ」


「汗が目に入っただけ」


 美桜の目が細くなった。


 玲司は速度を上げ、彼女を抜いた。


 疑われても、証拠はない。


 走り切ればいい。



第五章 最初の崩れ


 二十キロを越えたころから、玲司の体に異変が出始めた。


 腹部が痛む。


 補正具の締めつけで呼吸が浅くなり、脚へ酸素が回らない。固定部分が皮膚に当たり、着地のたびに鈍い痛みが走る。


 玲司は歯を食いしばった。


 ここで遅れれば、すべてが無駄になる。


 折り返し地点を過ぎた直後、美桜が再び隣へ来た。


「凛音、顔色悪いよ」


「大丈夫」


「腰、動いてない」


「放っておいて」


「次の救護所で見てもらおう」


「必要ない」


「あるって」


「私は勝つために来たの」


「うちもだよ。でも倒れるためじゃない」


 玲司は返事をせず、速度を上げた。


 美桜もついてくる。


 二人は海岸沿いの直線へ入った。強い向かい風が吹く。


 玲司のウィッグの端がわずかに浮いた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、美桜は見た。


「今の、髪?」


「何が?」


「全体が動いた」


「風でしょ」


「凛音、それウィッグ?」


 玲司の声が硬くなる。


「だから何?」


「別にウィッグでもいい。でも、体調悪いなら止まって」


「触らないで」


「触ってない」


 玲司は速度を上げようとした。


 その瞬間、風でカラーコーンが倒れた。前の選手が避け、玲司も横へ跳ぶ。


 腰の補正具がずれた。


 外から見ても分かるほど、片側の輪郭が不自然に落ちる。


 美桜の表情が変わった。


「それ、競技用のサポーターじゃないよね」


 玲司は答えなかった。


 次の救護所が見えてくる。


 美桜が手を上げた。


「スタッフさん、この選手――」


 玲司はコースを外れた。


 救護所の裏手にある仮設通路へ入り、資材置き場の間を走り抜ける。


「待って!」


 美桜の声が追ってきた。


 しかし、美桜はコースを外れなかった。


 救護所のスタッフへ事情を伝え、競技へ戻った。


 玲司は振り返らず走った。


 計画は崩れた。


 だが、彼には予備の逃走手段があった。



第六章 別の姿


 港の倉庫街には、大会運営用の仮設施設が並んでいた。


 玲司は配送車の陰へ入り、呼吸を整えた。ゼッケンを外し、上着を脱ぐ。体の輪郭は片側だけ崩れている。


 近くには、事前に隠しておいた小さなバッグがあった。


 中には予備の衣装と、別の変装道具が入っている。


 玲司は長い黒髪のウィッグを外し、短い栗色のものへ替えた。汗で浮いたメイクを拭き取り、目元と頬の印象を変える。


 体形補正用の装備も一部を外し、薄いものへ交換した。腹部の締めつけを弱め、走りやすさを優先する。


 鏡代わりのスマートフォン画面には、先ほどの白鳥凛音とは別人に見える女性が映っていた。


 ここで会場外へ逃げることもできる。


 玲司はバッグの底にあるゼッケンを見た。


 百五十万円。


 まだ諦められない。


 コースは倉庫街の先で一般道と近づく。そこから参加者の集団へ紛れれば、終盤だけ復帰できる。


 計測記録には空白が残る。


 それでも、機器の不調だと言い張れるかもしれない。少なくともゴールまでは進める。


「走って勝てば、全部黙る」


 玲司は自分へ言い聞かせた。


 その言葉が理屈になっていないことは、本人にも分かっていた。


 それでも彼は、短いウィッグの上から帽子をかぶり、別のシャツへ着替えた。



第七章 美桜の判断


 美桜は救護所で事情を説明した。


「二〇一七番、白鳥凛音。髪がずれて、腰の装備も外れかけてました。声も途中で変わった気がします」


 スタッフが無線で連絡を回す。


「黒瀬選手、競技へ戻ってください。確認はこちらで行います」


「でも、コース外へ逃げました」


「警備担当に伝えます。あなたが追う必要はありません」


 正論だった。


 美桜はすでに先頭集団から遅れている。このまま止まれば、自分の優勝も消える。


 凛音が何者なのか、まだ確定していない。


 ウィッグを使っていること自体は問題ではない。体形を補正する衣装を着けていることも、競技規則に反しない範囲なら個人の自由だ。


 問題は、なぜ本人確認を避け、コース外へ逃げたのか。


 そして、賞金だ。


 美桜は前年の賞金で遠征費を賄った。今回の賞金があれば、仕事を減らし、練習時間を増やせる。


 もし凛音が参加資格を偽っているなら、それは見た目の問題ではない。


 誰かの機会を奪う行為だ。


「分かりました。戻ります」


 美桜はコースへ戻った。


 二十五キロ地点で先頭集団へ追いつく。


 脚はまだ動く。息も乱れていない。


 しかし、頭の中には凛音の姿が残っていた。


 派手な外見だけで「真面目に走っていない」と言われてきた美桜にとって、人の服装や化粧を理由に疑うことはしたくなかった。


 だからこそ、確認しなければならない。


 外見ではなく、行動を。


 美桜は前を見た。


「戻ってくるなら、終盤」


 凛音は賞金を諦めていない。


 そんな確信があった。



第八章 消えた記録


 三十キロ地点。


 大会本部では、二〇一七番の計測記録が途切れたことが確認されていた。


「白鳥凛音。二十キロまでは通過。二十五キロ以降の記録なし」


 競技管理責任者の水原紗季は、画面を見ながら眉をひそめた。三十六歳。元実業団選手で、現在は大会運営会社に勤めている。


「救護所からは、コース外へ走り去ったとの報告です」


「棄権扱いにして。本人が戻ってきても記録は確定させない」


「分かりました」


「倉庫側の警備映像も確認してください」


 同じころ、玲司は三十二キロ地点の手前にいた。


 一般参加者の集団が通過する瞬間を待ち、道路脇のフェンスの隙間からコースへ戻る。


 周囲の選手は疲労で視野が狭くなっている。突然一人増えても、すぐには気づかれない。


 玲司は走り始めた。


 補正具を減らした効果は大きかった。呼吸が深くなり、脚が前へ出る。


 失った時間を取り戻すように、次々と選手を抜く。


 ただし、先頭集団との差は大きい。


 残り十キロで追いつくには、限界近くまで速度を上げなければならない。


 玲司は考えた。


 美桜は自分が逃げたことを知っている。髪型もメイクも変えた今なら、すぐには気づかないはずだ。


 しかし、走り方を見られれば危険だ。


 ならば、追いついた瞬間に抜き去る。


 話す時間を与えない。


 計画は粗い。


 それでも、玲司の頭には賞金の数字しか残っていなかった。



第九章 戻ってきた選手


 三十五キロ地点で、美桜は先頭へ出た。


 残る有力選手は二人。どちらも実業団経験者だ。総合優勝を狙うなら、ここから仕掛ける必要がある。


 美桜は一段速度を上げた。


 沿道の声が大きくなる。


「黒瀬、行け!」


「美桜ちゃん、頑張れ!」


 三十七キロ地点で、後方から異様に速い足音が近づいてきた。


 一定のリズム。着地は静か。疲れたときだけ右腕が大きくなる。


 美桜は振り返った。


 栗色の短い髪。帽子。白いシャツ。顔立ちも凛音とは違う。


 だが、走り方は同じだった。


「凛音?」


 相手は答えない。


 美桜の横を抜こうとする。


 美桜も加速した。


「待って」


「人違いです」


 声は少し低い。


「じゃあ、ゼッケン見せて」


 相手は胸元を手で隠した。


 美桜は距離を保ったまま、コース脇の監察員へ叫んだ。


「スタッフさん! 二〇一七番を確認してください!」


 前方の監察員が振り向く。


 玲司は進路を変え、美桜から離れようとした。


「止まって確認を受けなよ」


「邪魔するな」


 一瞬だけ、玲司本来の低い声が出た。


 美桜は確信した。


 それでも手は出さなかった。


 競技中の接触は危険だ。


「スタッフさん、早く!」


 監察員が自転車で近づく。


「二〇一七番、停止してください!」


 玲司は無視して走る。


 帽子が風で飛び、短いウィッグの端が浮いた。


 沿道からざわめきが起きる。


 玲司はウィッグを押さえながら速度を上げた。


 残り四キロ。


 もう隠し通すことは難しい。


 それでも彼は、ゴールだけを目指していた。



第十章 停止命令


 玲司は頭を押さえながら走った。


 汗でメイクは崩れ、頬の輪郭を整えていた部分が薄くなっている。補正具も完全には固定されておらず、走るたびに違和感が増す。


 監察員の自転車が並んだ。


「二〇一七番、競技を中止してください!」


「機器の故障です。走れます」


「コース外への離脱が確認されています。停止してください」


「走り切ってから話す!」


「競技は成立しません」


 玲司は速度を落とさない。


 前方に警備スタッフが待機している。


 美桜は少し後ろからついてきた。


「もう終わってる!」


 玲司が振り返る。


「お前のせいだ!」


「うちのせいじゃない。コースを外れたのは自分でしょ!」


「黙っていれば分からなかった!」


「それが不正だって言ってる!」


 警備スタッフが道路脇へ誘導する。


 玲司は一度だけ進路を変えようとしたが、前方を塞がれ、ついに足を止めた。


「触らないでください」


 水原から無線を受けたスタッフは、玲司へ距離を取って声をかけた。


「安全のため、こちらへ移動してください。身体には触れません。自分で歩いてください」


 玲司は荒い息を吐いた。


 ウィッグは半分ずれ、メイクも崩れている。


 沿道の視線が集まる。


 スタッフは大きなタオルを広げ、玲司が周囲から見えにくいようにした。


「確認は非公開の場所で行います」


 玲司はしばらく動かなかった。


 やがて、自分でウィッグを押さえたまま、コース脇の車両へ歩いた。


 美桜はその場に残った。


 先頭集団はすでに遠い。


 彼女の優勝も消えた。


 それでも追わなかった。


 ここから先は、運営の仕事だった。



第十一章 確認室


 玲司は大会本部の確認室へ案内された。


 室内には競技管理責任者の水原、医療担当者、警備責任者がいた。


 水原は落ち着いた声で説明した。


「あなたの服装や性別表現を問題にしているのではありません。参加資格、本人情報、コース離脱後の再侵入を確認します」


「私は白鳥凛音です」


 玲司は高い声を使った。


「では、本人確認に協力してください」


「もう受付で確認した」


「再確認が必要です」


「拒否します」


「拒否した場合も、記録は無効です」


 玲司は黙った。


 腹部の痛みが強くなり、椅子へ座り込む。


 医療担当者が尋ねた。


「締めつける装備を着けていますか」


「関係ない」


「痛みがあるなら、安全のため緩める必要があります。衝立の内側で、ご自身で外してください。必要なら同性スタッフを呼びます」


 玲司は顔を上げた。


「自分でやる」


 衝立の内側へ入り、ウィッグとメイクを落とし、体形補正用のパッドや補正具を自分で外した。スタッフは外から待ち、衣服を必要以上に脱ぐよう求めることはなかった。


 数分後、玲司は大会支給のジャージを着て戻ってきた。


 白鳥凛音の姿は消えていた。


 水原が机の向こうから告げる。


「あなたを失格とし、記録を抹消します。賞金対象からも除外します。本人情報の偽装については、警察へ引き継ぎます」


「俺は三十七キロまで先頭と戦った」


「競技能力の話ではありません」


「走ったのは俺だ」


「だからこそ、自分の資格と名前で出るべきでした」


 玲司は机を見つめた。


「男の大会じゃ、俺は勝てない」


「勝てないから資格を偽ることは、競技ではありません」


「俺には金が必要だった」


「他の選手にも事情があります」


 水原の言葉に、美桜の顔が浮かんだ。


 遠征費。


 仕事を減らすための資金。


 正面から勝ちたいという言葉。


 玲司は何も返せなかった。



第十二章 ゴールできなかった二人


 大会は予定どおり続いた。


 総合優勝は二十七歳の実業団選手が獲得した。


 美桜は棄権扱いとなった。玲司を追ったわけではないが、確認のため速度を落とし、競技継続が難しくなったため、自分でコースを離れた。


 表彰式の端で、美桜は拍手を送った。


 悔しくないわけではない。


 一年間、優勝だけを考えて練習してきた。朝も夜も走り、遊びの誘いを断り、アルバイト代をシューズと遠征費へ使った。


 ゴールすらできなかった。


 それでも、受賞者へ怒りはなかった。


 彼女は正当に走り、正当に勝った。


 式の後、水原が美桜へ声をかけた。


「報告ありがとうございました」


「私、余計なことしましたか」


「競技中に相手へ近づきすぎた点は危険でした。ですが、直接つかんだり装備を外したりしなかった判断は適切です」


「止められなかったですけど」


「止めるのは運営の役目です」


「来年、また走れますか」


「もちろんです」


 会場の端に警察車両が止まっていた。


 玲司がスタッフに付き添われ、建物から出てくる。大会支給のジャージ姿で、顔には化粧が残っていない。


 美桜と目が合った。


 玲司は視線を逸らした。


 美桜は追いかけなかった。


 ただ、すれ違う直前に言った。


「白鳥凛音って名前、もう使わないで」


 玲司は足を止めた。


「俺が作った名前だ」


「その名前で、他の人をだましたから」


「お前に決める権利はない」


「決める権利の話じゃない。終わらせたほうがいいって言ってる」


 玲司は答えず、車へ乗った。


 扉が閉まる。


 美桜は遠ざかる車を見送り、深く息を吐いた。


 ゴール地点では、最後のランナーたちが迎えられている。


 記録を狙う人。


 完走だけを目指す人。


 泣きながら走る人。


 誰もが、自分の名前のゼッケンを着けていた。



第十三章 報道


 事件は大きく報道された。


 女性限定大会への不正参加。本人情報の偽装。コース外離脱後の再侵入。賞金を得ようとした疑い。


 ネット上では、玲司の変装技術だけを面白がる声もあった。


 しかし大会運営は、繰り返し説明した。


「問題は服装や性別表現ではありません。参加資格と本人情報を偽り、賞金を得ようとした行為です」


 美桜も取材で同じことを言った。


「ウィッグやメイクをして走ることを責めているわけじゃありません。条件を偽って、他の選手の機会を奪おうとしたことが問題です」


 玲司は詐欺未遂や書類偽造に関する捜査を受けた。最終的に執行猶予付きの判決となり、大会側への賠償と、参加者への謝罪が命じられた。


 判決後も、玲司は長く走れなかった。


 道路へ出ると、あの日の視線を思い出す。


 ウィッグがずれ、メイクが崩れ、作った人物が消えていった瞬間。


 だが、本当に怖かったのは、変装が崩れたことではない。


 その下に、久世玲司として積み上げたものがほとんど残っていないと気づいたことだった。


 白鳥凛音を作ったのは、女性になりたかったからではない。


 勝てる条件だけを盗むためだった。


 その事実から、逃げられなかった。



第十四章 自分の部門


 一年後。


 地方都市の小さな市民マラソンに、久世玲司の名前があった。


 男女混合の一般部門。賞金はない。上位に入っても記念品がもらえるだけだ。


 玲司は黒いシャツと短パンでスタート地点に立っていた。


 ウィッグもメイクもない。


 体形を変える補正具もない。


 声を作る必要もない。


 周囲の選手が玲司に気づき、ひそひそ話す。


 玲司は聞こえないふりをしなかった。


 視線を受けたまま、前を向いた。


 号砲が鳴る。


 玲司は走り始めた。


 軽い。


 体が軽いというだけではない。姿を守るために意識を割く必要がない。呼吸を深く取り、腕を振り、地面を蹴る。


 十キロの部だった。


 五キロ地点で先頭から離される。


 以前の玲司なら、近道や言い訳を探したかもしれない。


 今回は、ただ追った。


 結果は十二位。


 賞品にも届かない。


 玲司はゴール後、芝生へ座り込んだ。


 悔しかった。


 だが、その悔しさは、あの日とは違った。


「十二位か」


 自分の声で呟く。


 誰にも聞かせるためではない。


 高くも低くも作らない、久世玲司の声だった。



補章一 競技規則


 受付会場を出る前、玲司は大会規則の冊子を受け取っていた。


 宿泊先の部屋へ戻ると、机の上へ開く。


 参加者は二十歳以上の女性であること。


 代理出走を認めないこと。


 本人情報に虚偽が判明した場合、記録と表彰を取り消すこと。


 指定コースから故意に離脱した場合、失格とすること。


 どの項目も簡潔だった。


 玲司は赤い文字で印刷された失格条件を見つめた。


 自分が何をしているのか、分からないわけではない。


 規則を理解した上で破ろうとしている。


 その事実を認めれば、スタートラインには立てない。


 玲司は冊子を閉じた。


「実力で勝つなら、誰も損しない」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 だが、実力だけで競うなら、参加資格を偽る必要はない。


 玲司はその矛盾を考えないようにした。


 スマートフォンには借金の返済を催促する通知が並んでいる。賞金を得れば、当面の支払いは終わる。残った金で生活を立て直し、もう一度走る仕事を探せるかもしれない。


 彼は自分の行為を、一度だけの非常手段だと考えていた。


 一度だけ。


 今回だけ。


 しかし、嘘を成立させるためには、受付でも、食堂でも、スタート地点でも嘘を重ねなければならない。


 白鳥凛音として話すたびに、久世玲司は後ろへ押し込まれていった。


 玲司はベッドの脇に置いたウィッグを見た。


 黒い髪は整然と台に載せられ、まるで眠っている人物のようだった。


「明日だけだ」


 返事はない。


 玲司は部屋の照明を消した。



補章二 美桜の一年


 美桜が前年三位になった大会で、彼女は最後の二キロを守りに入った。


 後ろとの差を何度も確認し、前を追うことをやめた。その結果、坂の頂上で別の選手に抜かれ、二位を失った。


 ゴール後、コーチ役を務める市民クラブの代表から言われた。


「負けた理由は脚じゃない。順位を守ろうとしたことだ」


 その言葉が、美桜には悔しかった。


 翌日から、坂道練習を増やした。


 朝五時に起き、仕事の前に十キロ走る。夕方はクラブの仲間と速度を上げた練習をする。休日には実際のコースへ行き、海風の向きまで確かめた。


 派手な髪や化粧は変えなかった。


 競技へ集中するなら、外見を地味にするべきだと言う人もいた。


「速さと関係ないでしょ」


 美桜はそう答えた。


 実際、関係はなかった。


 髪の色は記録を縮めない。


 化粧も、ネイルも、脚を速くしない。


 同時に、それらは彼女の努力を減らしもしない。


 美桜は、自分が自分でいられる姿のまま速くなりたかった。


 だから、凛音のウィッグを見ても、最初は何も問題だと思わなかった。


 外見は本人が決めればいい。


 ただし、ゼッケンに書かれた条件まで本人が自由に作り替えていいわけではない。


 美桜にとって、その境界は明確だった。



補章三 救護所の記録


 玲司がコース外へ消えた後、救護所の責任者は状況を記録した。


 時刻、場所、ゼッケン番号、目撃者。


 倒れたカラーコーンの近くには、肌色の薄いパッドが落ちていた。医療スタッフが拾い、透明な袋へ入れる。


「競技用サポーターの部品ですか」


「違うと思います。衣装用ですね」


「本人のものと断定できますか」


「今はできません」


 少し離れた場所では、黒い繊維片も見つかった。ウィッグを固定するネットの端に見える。


 それらは単独では何も証明しない。


 しかし、二〇一七番が突然コースを離れた事実と結びつけば、確認が必要な材料になる。


 責任者は大会本部へ無線を入れた。


「二〇一七番について、体調不良および装備異常の可能性。本人は確認を拒否し、コース外へ離脱しました」


『了解。記録を保留します』


「落とし物も保管します」


『本人へ直接接触せず、警備担当へ任せてください』


 大会運営では、競技者の安全と尊厳を守るため、確認方法が決められていた。


 外見だけで参加資格を判断しない。


 公衆の前で身体確認をしない。


 疑義があっても、本人へ説明し、非公開の場所で手続きを行う。


 その原則は、玲司が何者であっても変わらなかった。



補章四 倉庫の鏡


 変装を替えた後、玲司は倉庫の壁に立てかけられた金属板へ自分を映した。


 長い黒髪はない。


 控えめだった目元は、より活動的な印象に変わっている。胸元や腰の輪郭も、先ほどより目立たない。


 白鳥凛音とは別人だ。


 それでも、自分自身でもない。


 玲司は短いウィッグの位置を直した。


 ここで終わらせることができた。


 バッグを持ち、駅へ向かう。ゼッケンを捨て、二度と大会へ近づかない。


 その選択肢は目の前にあった。


 しかし、玲司は戻ることを選んだ。


 賞金だけではない。


 美桜に疑われたまま逃げれば、自分が負けたことになる。


 誰も競争だとは言っていない。


 それでも玲司の中では、美桜との勝負へ変わっていた。


「俺のほうが速い」


 玲司は金属板の中の別人へ言った。


「走れば分かる」


 だが、速さは参加資格の代わりにはならない。


 彼は再び、その一点を考えないようにした。



補章五 先頭集団


 美桜が先頭集団へ戻ったころ、残っていたのは七人だった。


 実業団選手が三人、強豪市民ランナーが四人。


「さっき何かあった?」


 隣の選手が尋ねる。


「体調悪そうな子がいて、スタッフに伝えてた」


「助けに行ったの?」


「そこまではしてない」


「なら集中しよう。向かい風、ここから強くなる」


 美桜はうなずいた。


 集団の後ろへ入り、風を避ける。


 凛音の件を考え続ければ、自分の走りが崩れる。


 運営へ伝えた。


 あとは任せる。


 そう決めたはずだった。


 しかし、三十キロを越えても、凛音の記録が大会速報へ表示されない。


 沿道の大型画面に、先頭選手の順位が映る。二〇一七番の名前は消えていた。


 棄権したのだろうか。


 それなら、なぜ胸騒ぎが残るのか。


 美桜は自分へ言い聞かせた。


 走れ。


 今は走れ。


 前年、順位を守ろうとして前を追わなかった。


 今回は、別の選手の秘密を守ろうとして速度を落とすわけにはいかない。


 美桜は三十五キロで前へ出た。


 脚が重くなる。


 それでも、前年より速い。


 今度こそゴールまで行ける。


 そう思った直後、後ろから聞き覚えのある足音が近づいてきた。



補章六 観客の映像


 三十七キロ地点で玲司が停止命令を受けた場面は、沿道の観客によって撮影されていた。


 帽子が飛び、ウィッグがずれる。


 監察員が並走し、停止を求める。


 美桜が離れた位置からスタッフを呼ぶ。


 短い映像は、その日のうちにインターネットへ投稿された。


 しかし、大会運営は削除を求めた。


 競技規則違反の疑いがあるとしても、本人の姿を面白がって拡散することは、手続きとは関係がない。


 水原は広報担当へ指示した。


「変装の外見を見出しにしないでください。不正参加とコース再侵入が問題です」


「報道各社は、性別の話を聞きたがっています」


「本人がどういう服装を選ぶかと、虚偽の参加資格は別です。混同しないでください」


「女性限定大会の意義については?」


「正規の資格で参加している選手が、公平に競技できる環境を守ることです」


 水原は言葉を選んだ。


 大会側にも責任がある。


 受付の確認に不備がなかったか。


 コースへ再侵入できる場所を放置していなかったか。


 単に不正をした一人を処分するだけでは、次の大会も守れない。


 水原は調査報告書の作成を指示した。



補章七 事情聴取


 確認室での手続き後、玲司は警察から事情を聞かれた。


「賞金を受け取るつもりでしたか」


「優勝したら、受け取るつもりだった」


「参加資格がないことは理解していましたか」


「規則は読んだ」


「では、なぜ申し込んだのですか」


 玲司は借金の話をした。


 仕事を失ったこと。


 走る力だけは残っていたこと。


 男子の部門では勝てないと思ったこと。


 話し終えても、事情が正当な理由へ変わることはなかった。


「黒瀬選手を恨んでいますか」


 質問に、玲司はすぐ答えなかった。


 あの場では恨んだ。


 美桜が黙っていれば、ゴールできたと思った。


 だが、計測記録は途切れている。運営本部も異常を把握していた。美桜が何も言わなくても、表彰前の確認で止められただろう。


「今は、分からない」


「接触はありませんでしたか」


「向こうは触ってない。俺も、最後は止まった」


「競技中に進路を変え、接近したことは?」


「ある」


 玲司は一つずつ答えた。


 言葉にするたび、白鳥凛音の物語が崩れていく。


 凛音は才能のある若い選手ではなかった。


 存在しない人物だった。


 残ったのは、参加資格を偽り、途中で変装を替え、コースへ戻った久世玲司の行動だけだった。



補章八 謝罪文


 判決後、玲司は大会運営と美桜へ謝罪文を書いた。


 最初の文章は、言い訳ばかりだった。


『生活が苦しかったため』


『走る力を証明したかったため』


『誰かを傷つける意図はなかった』


 支援者から返された。


「意図がなかったことより、何をしたかを書いてください」


 玲司は書き直した。


 参加資格を偽った。


 本人情報を偽った。


 コースを離れた後、変装を替えて再侵入した。


 正規参加者の競技を妨げた。


 大会運営へ負担をかけた。


 賞金を得る機会を不当に奪おうとした。


 文字にすると、自分の行為は単純だった。


 複雑な事情も、高度な変装も、速く走った事実も、責任を消さない。


 美桜から返事は来なかった。


 玲司はそれを当然だと思った。



補章九 美桜の返事


 謝罪文が届いてから二週間後、美桜は封筒を開いた。


 読む前に捨てようと思った。


 だが、最後まで読んだ。


 玲司は、外見を暴かれた被害者として自分を語っていなかった。美桜が装備を無理に外したとも書いていない。実際、彼女は触れていない。


 責任のある部分だけが記されていた。


 美桜は返事を書かなかった。


 許すかどうかを、すぐに決める必要はない。


 謝罪を受け取った側には、応答しない権利もある。


 ただ、封筒を捨てず、机の引き出しへ入れた。


 次の大会へ向けた練習表の下に置く。


 玲司のためではない。


 自分が何に怒っていたのか、忘れないためだった。


 美桜が怒っていたのは、ウィッグでも、メイクでも、男の声でもない。


 努力して得られるはずの機会を、嘘で奪おうとしたことだった。



補章十 再発防止


 翌年の大会では、受付とコース管理が見直された。


 本人確認は複数の担当者で行う。


 賞金対象者は表彰前に記録を再確認する。


 コースと一般道が接近する区間には追加の監察員を配置する。


 体調不良や装備異常が疑われる選手には、外見ではなく安全面から声をかける。


 確認が必要な場合は、本人へ理由を説明し、非公開の場所で行う。


 水原はスタッフ研修で言った。


「疑う対象を探すのではありません。規則と記録に基づき、すべての選手を同じ手順で扱います」


 前年の事件を理由に、特定の外見を持つ参加者へ過剰な確認を行えば、新たな不公平が生まれる。


 守るべきなのは、見た目の基準ではない。


 競技手続きの公平さだった。



補章十一 十二位の後


 市民マラソンで十二位になった翌日、玲司の脚には心地よい痛みが残っていた。


 賞金はない。


 記事にもならない。


 観客の多くは、彼が誰か知らない。


 それでも、記録証には久世玲司の名前が印刷されていた。


 四十二分十八秒。


 かつての自分なら満足できない記録だ。


 だが、途中の計測も、ゴール時刻も、すべて正しい。


 玲司は記録証を机へ置いた。


 隣には、白鳥凛音の設定を書いた古いノートがある。


 年齢、出身地、走歴、話し方。


 何ページにもわたり、存在しない人物の人生が書かれていた。


 玲司はノートを破らなかった。


 消せば、なかったことにできる気がしたからだ。


 代わりに、最後のページへ書き足した。


『白鳥凛音は、ベイサイド・ウィメンズマラソンで失格になった。理由は、最初から参加資格がなかったため』


 それで終わりにした。



補章十二 ゴールの意味


 美桜が翌年の大会で三位になった後、記者から尋ねられた。


「優勝を逃しましたが、今の気持ちは?」


「悔しいです」


「前年は途中棄権でした。今年は完走できました」


「完走しただけで満足するつもりはないです。でも、去年より前へ進めたとは思います」


「前年の出来事を意識しましたか」


 美桜は少し考えた。


「スタート前は。でも走り始めたら、自分のことしか考えてませんでした」


「観客席に久世さんがいたという情報があります」


「見ました」


「言葉を交わしましたか」


「いいえ」


「許したのですか」


 美桜は首を振った。


「許すかどうかと、相手がやり直そうとしているかは別です。私はまだ決めてません」


 記者は次の質問をしようとした。


 美桜は先に言った。


「今日の大会で走った選手の話をしてください。去年の事件だけが、この大会じゃないので」


 表彰台には三人の選手がいる。


 それぞれ違う仕事をし、違う生活を送り、違う理由で走ってきた。


 美桜は自分のメダルを握った。


 ゴールは、過去を消す場所ではない。


 そこまで走ってきた事実を、自分の名前で残す場所だ。


 前年、玲司は偽りの名前でそこへ立とうとした。


 今年、美桜は自分の名前で踏んだ。


 その違いは、記録の数字より大きかった。



補章十三 走る場所


 玲司が再び走り始めたころ、地域のランニングクラブから練習会への参加を断られた。


 過去の事件を理由に、他の会員が不安を感じているという。


 玲司は反論しなかった。


 不正参加は競技会だけで完結する問題ではない。共に走る人が、記録や申告を信頼できなくなれば、練習相手として受け入れられないこともある。


 彼は一人で河川敷を走った。


 雨の日も、風の日も、決めた距離だけ進む。


 誰も記録を確認しない。


 それでも時計を止めず、途中で距離を省かなかった。


 ある日、クラブ代表が河川敷へ来た。


「毎週ここで走っているそうですね」


「はい」


「大会へ出る予定は?」


「一般部門の小さい大会に出ます」


「参加条件は確認しましたか」


 皮肉ではなかった。


 必要な質問だった。


「確認しました。今回は、自分の資格で出ます」


 代表はしばらく玲司を見た。


「すぐにクラブへ戻すとは言えません」


「分かっています」


「ただ、公開練習なら参加しても構いません。記録測定や大会申込は、自分で責任を持ってください」


 玲司は頭を下げた。


 許されたわけではない。


 信頼が戻ったわけでもない。


 それでも、一人ではない場所で走るための最初の条件を与えられた。


 公開練習の日、玲司は最後尾から走った。


 前の選手を抜ける速度があっても、無理に出なかった。


 自分を小さく見せるためではない。


 周囲の走りを乱さないためだった。


 練習後、年上の参加者が声をかけた。


「最後、余裕がありましたね」


「昔、少し走っていたので」


「次は前の組でもいいんじゃないですか」


 玲司は答えるまでに時間がかかった。


「次も、まず同じ組で走ります」


 急いで認められようとすれば、また結果だけを求める。


 玲司はそれを知っていた。



補章十四 競争相手


 美桜は総合三位になった翌月、別の大会で優勝した。


 規模は小さく、賞金もベイサイド大会ほど多くない。


 それでも、最後の坂で前へ出て、そのまま逃げ切った。


 ゴール後、前年二位だった選手が笑いながら言った。


「今度は守らなかったね」


「守ったら、また負けるから」


「次は私が勝つ」


「こっちも負けない」


 それは、美桜が求めていた競争だった。


 同じ条件でスタートし、同じコースを走り、先にゴールした者が勝つ。


 相手が速ければ悔しい。


 自分が速ければうれしい。


 競技は単純ではない。体調、天候、仕事、費用、支援環境。選手ごとに背負うものは違う。


 それでも、少なくとも参加資格とコースは共有できる。


 その土台があるから、競争相手を尊敬できる。


 美桜は表彰台でメダルを受け取った。


 観客席に玲司はいない。


 それでよかった。


 彼の再出発を見届けることは、美桜の役割ではない。


 玲司が本当に変わるなら、誰かに見られていない場所でも、正しい手続きを選び続けるしかない。


 美桜もまた、玲司を意識して走り続けるつもりはなかった。


 自分の競争相手は、目の前の選手たちだ。


 表彰式が終わると、美桜はメダルをバッグへ入れ、翌週の練習予定を確認した。


 勝った大会も、次のスタートまでの途中にすぎない。



補章十五 名前を書く


 翌年の大会申込期間が始まった日、玲司は入力画面を長く見つめていた。


 氏名。


 生年月日。


 性別区分。


 過去の記録。


 どれも短い項目だった。


 以前の玲司は、そこへ別人の情報を入れた。


 今回は、一文字ずつ自分の情報を入力する。


 久世玲司。


 二十九歳。


 男子一般部門。


 自己記録は、過去の実業団時代のものではなく、再出発後に正式な大会で出した記録を記した。


 画面の最後に、申告内容が正しいことを確認する欄がある。


 玲司はすぐには押さなかった。


 正しい情報を入力することは、本来、特別な行為ではない。


 競技へ参加するための最低条件だ。


 それでも玲司にとって、その確認欄は過去と現在の境界に見えた。


 彼はチェックを入れ、申込ボタンを押した。


 受付完了の画面が表示される。


 賞金のない二十キロ大会だった。


 優勝候補でもない。


 注目選手として紹介されることもない。


 それでも、スタートリストには久世玲司の名前が載る。


 誰かから借りた条件ではなく、自分が持っている条件で。


 玲司は画面を閉じた。


 机の引き出しには、白鳥凛音の古いノートが残っている。


 捨てることはできた。


 だが、玲司はそのままにした。


 作り話を再び使うためではない。


 自分がどこで境界を越えたのか、忘れないためだった。


 走る前には、必ず名前が要る。


 ゴールで呼ばれる名前ではない。


 スタートラインへ立つ責任を引き受ける名前が。



終章 同じ道路


 さらに半年後。


 ベイサイド・ウィメンズマラソンの当日、美桜は再びスタートラインに立っていた。


 髪は前年と同じ金茶色。メイクも華やかだった。


 だが、前年の出来事だけで注目されることを、彼女はもう気にしなかった。


 スタート前、スマートフォンに短いメッセージが届いた。


『今年は最後まで走ってください』


 送り主は久世玲司。


 美桜はしばらく画面を見た。


 短く返信する。


『言われなくても走る。そっちも自分の部門で走りな』


 すぐに既読がついた。


『はい』


 それだけだった。


 美桜はスマートフォンをバッグへしまう。


 スタートの合図が近づく。


 前年と同じ道路。


 同じ海風。


 同じゴール。


 けれど、ゼッケンに書かれた名前は、誰のものも偽りではない。


 号砲が鳴った。


 美桜は集団の前へ出た。


 橋へ向かう坂で、風が正面から吹く。呼吸は苦しく、脚は重い。


 それでも走る。


 途中で誰かの正体を暴く必要はない。


 誰かを追い詰める必要もない。


 ただ、自分の記録を追う。


 四十二・一九五キロを走り切り、美桜は総合三位でゴールした。


 優勝ではなかった。


 それでも、前年には踏めなかったゴールマットを、自分の足で踏んだ。


 完走メダルを首にかけられた瞬間、美桜は空を見上げた。


 少し離れた観客席の端に、黒い帽子をかぶった男がいた。


 久世玲司だった。


 彼は声を上げず、一度だけ拍手をした。


 美桜は気づいたが、近づかなかった。


 玲司も近づかなかった。


 二人の間には、なかったことにできない出来事がある。


 奪われかけた賞金。


 ゴールできなかった大会。


 偽りの名前。


 それらは消えない。


 だが、玲司はもう白鳥凛音ではなかった。


 美桜も、前年の途中棄権者ではない。


 表彰式へ呼ばれ、美桜は歩きだす。


 玲司は観客の流れに紛れ、会場を出た。


 海沿いの道路を、一人でゆっくり走り始める。


 ゼッケンは着けていない。


 賞金もない。


 誰かに勝つ必要もない。


 それでも走った。


 偽りの姿ではなく、自分の名前で次のスタートラインに立つために。

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