拝啓、迷子の君へ
カチャッ。
激鉄を起こす乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
「残念だなぁ。君、もうちょっと上手にやってればまだ僕の友達でいられたのに。」
つい先程まで「君の親友だ」と微笑んでいた男は今やその仮面を脱ぎ捨て、本能的な怯えを滲ませていた。
「本当に、残念だ。」
眉間に突きつけた無骨な鉄の塊は、僕がほんの少し指を曲げるだけで小さな弾を吐き出すだろう。
絶望が足音を立てて近づいてくるのが分かるのか、男の顔はいよいよ青白くなり、酸素を求める金魚のように口を開閉させている。
「ちょ、ちょっと待っ――」
男の言葉は空気をノックする衝撃音によって掻き消され、奴の頭に鮮血の花が咲いた。
火薬の焼ける匂いがつんと鼻の奥を刺激する。
僕はぬるくなった紅茶を口に含んだ。
「君がもっと楽しい嘘つきだったら今夜のディナーくらいは一緒に食べれたのにね」
近くにあったテーブルナプキンを引っ掴み銃を拭う。
ふくらんだ白い袖口に赤い点が散っているのを見て、眉根を寄せた。
これ気に入ってたのにな。
「ねぇ君、何が目的だったの?権力?資産?」
..回答はない。当然だ。軽くため息をつき、扉へ向かう。
蝶番が軋む音を背後に聞きながら僕は歩き出した。
無音の回廊の真ん中を乱雑に闊歩する。
単調な景色は一歩踏み出すごとに彩度を落とすようだ。
そうして突き当たりの角を右に曲がった時、ふと姿見に目が留まった。
壁にかけられた大きな鏡。その中に、一人の青年が佇んでいた。
柔らかな薄手のシャツと、足の輪郭をすっかり覆い隠す重厚なボトムス。
それらをゆるりと纏った青年は陶器の人形のように端正な顔立ちをしている。
知っているはずなのに知らない顔。
「君は、誰だろう」
鏡の中の僕は困った顔をして、それから苦笑した。
僕は記憶喪失だ。
過去の自分がどのような人間であったか、誰を愛し、誰を憎んでいたのか。そのいっさいが記憶にない。
ただ唯一覚えていたのは僕には友人がいたらしい、ということ。
会ってみたら何か思い出すかもしれないということで探してはいるのだが..。
やって来るのは欲に目が眩んだ羽虫ばかり。
「ボス、例の友人候補の件ですが。」
背後で、優秀な秘書が音もなく現れる。
僕は振り返りもせず、鏡の中の自分を見つめたまま歌うような声で言った。
「シュガー。もういいよ、その呼び方。飽きちゃった。次からは標的って呼んで。..それで、何か進展あった?」
色素の薄い髪の間から見えるビー玉のような瞳が、好奇心に揺れる。
書類をめくる音がワンテンポ遅れて聞こえた。
「はい。ある一人の男がボスに是非お会いしたいと申しております。」
「ふぅん。どんな人?話の上手な人がいいな。」
「それが..」
仕事が早いと評判の彼としては珍しく、歯切れの悪い回答が返ってきた。
「標的の身辺を洗わせましたが、驚くほど何も出てきません。本来あるべき出自が念入りに抹消されています。まったく底の知れない男です。」
「へぇ……。シュガー、君がそこまで言うなんて珍しいね」
僕は鏡の中から視線を外し、くるりと秘書の方へ向き直った。手元の書類に目を落とすシュガーの眉間にはやや皺が寄っていた。完璧主義の気風が彼にそうさせるのだろう。彼が持ち込む情報はいつも完璧で、裏金の流れから明日の朝食のメニューまで網羅されているのが常だった。それが「何も出ない」なんて。
「真っ白、ということ?」
「ええ。戸籍、学歴、納税記録……すべてが精巧に作られた偽造品か、あるいは煙のように実体がありません。身元を辿ろうにも、糸の先端すら見つかりません。」
意図せず唇がほころぶのが分かった。退屈に冷えた指先に鼓動が熱を与える。
「いいね。話を通しておいて。久しぶりに楽しい日になりそうだ。」
僕は斜光を背中に浴びながら、再び廊下を歩き出した。
もうすぐ陽が落ちるだろう。毛の長いカーペットには二人分の影が長く引き伸ばされていた。
「仰せのままに、ボス。」
昔の僕は、こんな時間帯が好きだったのだろうか。




