おいないさ、伊勢
今回は伊勢編、アクアは歴代主人公の中で唯一純愛を貫くタイプです。
夜明け前の空気をそのまま引き連れるように、
始発の列車は静かに走り出した。
車内はまだ人も少なく、どこか柔らかな静けさに包まれている。
窓の外には、淡く色づき始めた朝の景色。
山の稜線がゆっくりと浮かび上がり、やがて視界が大きく開けた。
その瞬間、紫苑がふっと身を乗り出す。
「殿! 琵琶ノ湖ですよ」
少し弾んだ声。
普段の落ち着いた口調からは想像できないほど、素直な驚きが混じっていた。
アクアもつられて窓の外へと視線を向ける。
広がる水面。
果てが見えないほどの大きさに、思わず目を細めた。
「……すごいな」
小さく呟いてから、どこか子供のように笑う。
「猪苗代湖よりデカい湖、初めて見たよ!」
その言葉に、紫苑も思わずくすりと笑う。
「そうですね……規模が違います」
だがその表情には、どこか同じような高揚があった。
朝の光が湖面に反射し、きらきらと揺れている。
その景色を、二人は並んで眺めていた。
列車は変わらず進み続ける。
湖の景色はやがてゆっくりと流れ、後ろへと遠ざかっていく。
それでも、今見た光景はしばらく心に残るものだった。
アクアは窓から視線を外し、軽く背もたれに身体を預ける。
「こういうのも、いいな」
ぽつりと漏れたその言葉に、紫苑が小さく頷く。
「はい……とても」
短い会話。
だが、その空気はどこまでも穏やかだった。
まだ十代の若い夫婦。
戦いも、責務も知っている。
それでも――今この瞬間は、ただ旅を楽しむ二人だった。
列車はさらに西へと進んでいく。
次に辿り着く場所は、もう決まっている。
――いよいよ、伊勢へ。
列車が静かに減速し、やがて伊勢の駅へと滑り込む。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
どこか澄んでいて、余計なものが削ぎ落とされたような静けさ。
それでいて、人の気配は確かにある。
アクアと紫苑は並んでホームへと降り立つ。
自然と手を繋ぎ、そのまま歩き出した。
言葉は少ない。
だが、ここへ来る意味を、二人とも分かっている。
駅を出て、伊勢神宮・外宮へと続く道へ。
歩くたびに、周囲の音が少しずつ遠のいていく。
紫苑が、ふと口を開く。
「殿……願い事……決めてますか?」
控えめな声。
けれど、その奥には確かな期待があった。
アクアは前を見たまま、軽く頷く。
「勿論」
それ以上は語らない。
だが、その一言で十分だった。
やがて、外宮へと辿り着く。
鳥居をくぐった瞬間、空気が一段と引き締まる。
足音が自然と静かになり、言葉も少なくなる。
砂利を踏む音だけが、規則正しく響いていた。
紫苑は周囲を確かめるように見渡しながら、
小さく説明する。
「外宮の正宮、別宮、内宮の正宮、別宮の順番で参拝するのが正しい順番だそうです」
その口調は、どこかいつもの秘書としての顔に近い。
だが、その隣にいるのは上司ではなく――
夫だった。
アクアは軽く笑う。
「さすがだね、紫苑」
その一言に、紫苑はほんのわずかに頬を緩めた。
やがて、正宮の前へ。
自然と背筋が伸びる。
言葉を発するのも憚られるような、静かな空間。
アクアはそのまま手を合わせる。
だが――
「殿……神社ですので……二礼二拍手一礼ですよ?」
すぐ隣から、そっと注意が入る。
その声音は柔らかいが、どこか真面目さも混じっていた。
アクアは一瞬だけ動きを止め、それから小さく苦笑する。
「あ、ゴメン」
言い直すように、姿勢を整え直す。
そして改めて、
二礼、二拍手、一礼。
静かに、丁寧に。
紫苑もまた、その隣で同じように手を合わせる。
音はほとんどない。
ただ、心の中で言葉が交わされていく。
願いは口に出さない。
それでも、確かにそこにある。
風が、木々を揺らす。
その音だけが、静かな空間にやさしく響いていた。
外宮での参拝を終えた後、二人はそのまま人の流れに沿って歩き、やがて賑やかな通りへと辿り着いた。
おかげ横丁。
木造の建物が並び、どこか懐かしい空気を残したまま、多くの人で賑わっている。
先ほどまでの厳かな空気とは打って変わり、ここには温かい生活の気配が満ちていた。
ふと、香ばしい匂いが漂ってくる。
誘われるように立ち寄った店で、まず手にしたのは温かいうどんだった。
湯気の立つ丼を前に、紫苑がそっと箸を取る。
一口すすった瞬間、ほっとしたように表情がほどけた。
「……優しい味ですね」
その言葉に、アクアも頷く。
「旅の途中で食べると、こういうのが一番沁みるな」
派手さはない。
だが、どこか身体に馴染む味だった。
次に足を止めたのは、小さな食事処。
運ばれてきた牛丼は、甘辛い香りをしっかりとまとっている。
アクアは迷いなく箸を進める。
「これもいいな」
そう言って軽く笑う。
紫苑もまた、少しずつ口に運びながら、静かに頷いた。
「……力が出る味です」
その言葉に、どこか二人で笑みがこぼれる。
さらに歩けば、今度はかまぼこを焼く香りが漂う。
串に刺されたそれを手に取り、アクアが軽く差し出す。
「ほら」
紫苑は一瞬だけ戸惑いながらも、それを受け取る。
外側はほんのりと香ばしく、中は柔らかい。
一口かじると、素朴な旨味が広がった。
「……温かいですね」
「焼きたてだからな」
そのやり取りも、どこか穏やかだ。
次に見つけたのは、団子屋。
甘い香りに引かれ、自然と足が止まる。
串に刺さった団子を頬張ると、ほのかな甘さが広がる。
紫苑はその味に、少しだけ驚いたように目を細めた。
「……甘味も、良いものですね」
「たまにはいいだろ」
アクアの言葉に、紫苑は小さく頷く。
そして――最後に辿り着いたのが、赤福だった。
盆の上に並べられたそれを前に、紫苑はしばらく静かに見つめる。
その表情は、どこか迷いを含んでいた。
アクアは気づき、軽く首を傾げる。
「美味しいね」
先に口にした一言に、紫苑は少し遅れて答える。
「そうですね……♡」
だが、その声はどこかいつもと違う。
少しだけ恥ずかしそうに、視線を落としている。
「紫苑? どうかした?」
アクアが問いかけると、紫苑はほんの一瞬だけ息を整える。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「と、殿……恋人の時は……できませんでしたよ……ね?」
何を言われているのか理解する前に、紫苑は赤福をひとつ手に取る。
その手は、ほんのわずかに震えていた。
「は、はい……あーん……♡」
差し出されたそれに、アクアの動きが止まる。
一瞬で顔が熱くなるのが分かった。
「……!」
言葉が出ない。
だが、断る理由もない。
ゆっくりと口を開け、そのまま口にする。
甘さが広がる。
だが、それ以上に、胸の方が落ち着かない。
「……うん! 美味しい!」
少しだけ声が上ずる。
それを見て、紫苑はふっと微笑む。
どこか満足したような、柔らかな表情だった。
賑やかな通りの中で、二人の時間だけが少しだけ特別に流れている。
まるで――結婚する前に戻ったような、そんな空気。
だが、今はもう違う。
隣にいる理由も、その距離も、すべてが確かなものになっている。
それでも、こうして少しだけ照れ合う時間が、
どこか新鮮で、心地よかった。
外宮を後にし、二人は内宮へと続く道を歩き始める。
おかげ横丁の賑わいを抜けると、再び落ち着いた道が広がっていた。
内宮の正宮までは、およそ四粁。
決して短くはない距離だが、不思議と足取りは軽い。
石畳を踏みしめながら、ゆっくりと進む。
道の両脇には木々が並び、ところどころで陽の光がこぼれていた。
人の流れは絶えないが、どこか穏やかで、急かされるような空気はない。
それぞれが、それぞれの想いを胸に歩いている。
アクアと紫苑もまた、並んで歩く。
繋いだ手は、そのまま離れない。
ふと、すれ違いざまに、ひとりの参拝客が足を止めた。
「あら……美男美女の……♡ 夫婦ですか?」
どこか楽しげに、ニヤリとした笑みを浮かべながら、軽く茶化すような声。
一瞬だけ、時間が止まる。
だが――
紫苑は、迷いなく答えた。
「……はい♡」
その声は柔らかく、しかし確かに誇らしさを含んでいた。
アクアは一瞬だけ驚いたように紫苑を見る。
だがすぐに、ほんの少しだけ照れたように視線を逸らす。
「新婚旅行です……///」
小さく、しかしはっきりと。
その言葉に、参拝客は満足そうに笑う。
「まあ……♡ いいですねぇ。どうかお幸せに」
軽く手を振り、そのまま人の流れへと戻っていく。
再び、道には二人だけの空気が残る。
しばらくの沈黙。
やがて、アクアが小さく息を吐く。
「……言ったな、今」
どこか照れ隠しのような声音。
紫苑は視線を前に向けたまま、ほんのわずかに頬を緩める。
「事実ですので……」
静かで、揺るぎのない返答。
その一言に、アクアはそれ以上何も言えなくなる。
だが、繋いだ手にわずかに力がこもった。
それだけで、十分だった。
木漏れ日が二人の影を長く伸ばす。
歩みは変わらない。
ただほんの少しだけ、距離が近くなった気がした。
五十鈴川の流れは、どこまでも澄んでいた。
水面は静かに光を映し、揺らぎながらも、その奥底まで見通せるような透明さを持っている。
その川沿いの道を、アクアと紫苑は並んで歩いていた。
砂利を踏む音と水のせせらぎが穏やかに重なっていく。
ここまで来ると、空気はさらに澄み、言葉さえも自然と少なくなる。
やがて、アクアが小さく息を吐いた。
「いよいよ内宮だね」
その声には、どこか実感を確かめるような響きがあった。
紫苑もまた、静かに頷く。
「一生に一度はお伊勢参り……遂に達成ですね……」
その言葉は、どこか感慨深く、そして少しだけ嬉しそうだった。
しばらくの間、二人は何も言わずに歩く。
ただ、同じ景色を見て、同じ空気を感じていた。
やがて、アクアがふと口を開く。
「紫苑は……何てお願いする?」
自然な問いだった。
紫苑は少しだけ足を緩める。
そして、ほんの一瞬だけ視線を落とし、ゆっくりと答えた。
「私は……」
言葉を選ぶように、小さく息を整える。
「殿に抱かれたあの時から……いえ……その前……出会った時からの願いです……」
顔を上げる。
その瞳は、まっすぐだった。
「生涯、貴方にお仕え出来ますように……と」
揺るがない言葉だった。
迷いも、飾りもない。
ただ、それがすべてだと言うように。
アクアは、その言葉を受け止めたまま、しばらく何も言えなかった。
流れる水音だけが、静かに時間を埋める。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
短い一言。
けれど、その中に多くのものが込められていた。
ほんの少しだけ間を置いて、続ける。
「……ありがとう」
それ以上の言葉はなかった。
だが、その一言で十分だった。
紫苑は何も返さない。
ただ、静かに隣を歩き続ける。
繋いだ手は、そのまま離れない。
川の流れは変わらず、穏やかに続いていく。
その先に――内宮がある。
二人は、ゆっくりとその場所へと歩みを進めていった。
玉砂利を踏む音が、いっそう静かになる。
ここまで来ると、人の気配さえ遠く感じられた。
目の前に広がるのは、簡素でありながら、揺るぎのない威厳を宿した空間。
余計なものは何ひとつなく、ただ“そこに在る”というだけで圧を放っている。
紫苑は自然と歩みを緩め、息を整える。
「殿……ここが」
その先を、アクアが静かに引き取る。
「……正宮か」
言葉は短い。
だが、その重みは十分だった。
この先は、詳しく語ることは許されない場所。
ただ、感じるしかない領域。
紫苑は小さく頷き、改めて言葉にする。
「殿……いよいよ内宮の正宮……天照大御神を祀る場です……」
その声音には、敬意と緊張が混じっていた。
アクアはほんの少しだけ肩の力を抜き、苦笑する。
「……大丈夫かな……?イザナミ倒しちゃったけど……」
ぽつりと漏らしたその一言に、紫苑は一瞬だけ目を瞬かせる。
そして、すぐにふっと微笑んだ。
「恐らく……大丈夫でしょう」
静かに、しかしどこか確信を持って続ける。
「あれは、神の戯れです」
その言葉は軽くはない。
だが、恐れるものでもないという、確かな線引きがそこにあった。
アクアは小さく息を吐き、視線を前へ戻す。
かつての戦いが、脳裏をよぎる。
死と隣り合わせだったあの時間。
そして、それを越えて今ここに立っているという事実。
隣を見る。
そこには、変わらず紫苑がいる。
それだけで、十分だった。
ゆっくりと、姿勢を正す。
二人は並び、静かに頭を下げる。
二礼、二拍手、一礼。
願いは口にしない。
だが、その想いは確かに同じ方向を向いていた。
これからの時間。
共に生きる未来。
それ以上でも、それ以下でもない、ただそれだけ。
風が、木々を揺らす。
その音が、すべてを包み込むように静かに響いた。
参拝を終え、顔を上げる。
何かが変わったわけではない。
けれど、どこか心が澄んでいる。
アクアは軽く息を吐き、隣にいる紫苑へと視線を向けた。
言葉は交わさない。
それでも――
同じ願いを、確かに抱いていることが分かっていた。
参拝を終え、正宮を後にする。
来た時とは同じ道のはずなのに、どこか景色が違って見えた。
五十鈴川の流れは変わらず穏やかで、木々のざわめきも同じはずなのに、胸の内だけが静かに整っている。
しばらく歩いた後、アクアがふと口を開く。
「行こう、紫苑」
振り返らずに告げるその声は、どこかすっきりとしていた。
紫苑もまた、同じように歩みを進めながら頷く。
「そうですね……おはらい町でお土産、買っていきましょう」
その言葉に、ほんの少しだけ日常の温度が戻る。
厳かな時間から、また柔らかな時間へ。
二人は並んだまま、境内を抜けていく。
鳥居をくぐる。
外の世界の音が戻り、遠くから人の声が聞こえ始めた。
伊勢神宮を後にする。
振り返ることはしない。
だが、その場所は確かに、心の中に残っていた。
こうして――二人のお伊勢参りは、静かに幕を下ろした。
その後、土産を手にし、再び駅へと向かう。
列車に乗り込み、席に腰を下ろすと、ようやく長い旅路の終わりが近づいていることを実感する。
窓の外には、ゆっくりと流れていく景色。
賑やかな町並みが遠ざかり、やがて見慣れぬ風景へ、そしてまた、どこか懐かしい色へと変わっていく。
紫苑はその景色を眺めながら、静かに息をつく。
アクアもまた、隣で何も言わず、その時間を共有していた。
列車は揺れながら、確かな帰路を辿っていく。
――會桜へ。
それから、一年ほどの時が流れた。
會桜の春は、今年も変わらず訪れる。
東山の屋敷の庭先には、淡い桜が静かに咲き誇っていた。
風に揺れる花びらが、ゆっくりと舞い落ちる。
あの旅の時と、どこか似た光景。
だが――確かに、違う時間がここにあった。
縁側に並んで座る、二人の姿。
アクアと紫苑は、十九歳になっていた。
穏やかな午後。
言葉のいらない静かな時間が流れている。
やがて、紫苑がそっと口を開いた。
「殿……あの、ちょっと報告が……」
いつもと変わらぬ落ち着いた声。
だが、その奥にほんのわずかな揺らぎがあった。
アクアは庭から視線を外し、隣を見る。
「ん? なにかあった?」
軽く首を傾げる、その何気ない仕草。
紫苑は一度だけ息を整え、ゆっくりと微笑んだ。
そして――その言葉を紡ぐ。
「……お腹に、新しい命が宿りました」
風が、止まったように感じた。
アクアの表情が、固まる。
「……えっ!?」
思わず漏れた声は、どこか現実感を失っている。
紫苑はその反応を見て、少しだけ目を細める。
そして、柔らかく続けた。
「貴方の子です……♡」
その一言は、静かに、しかし確かに届く。
アクアはしばらく何も言えなかった。
言葉が追いつかない。
ただ、目の前にいる紫苑と、その言葉だけが現実だった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
そして、少しずつ理解が追いついてくる。
「……そっか……」
小さく呟く。
その声には、驚きと、戸惑いと――そして何より、確かな喜びが混じっていた。
視線を紫苑へと向ける。
そこには、変わらず穏やかな笑みがあった。
あの時、伊勢で秘めた願い。
あの時、胸に抱いた未来。
それが、今こうして形になろうとしている。
アクアはゆっくりと手を伸ばし、紫苑の手を包み込む。
言葉は多くない。
けれど、その温もりがすべてを伝えていた。
桜が、またひとひら舞い落ちる。
新しい命と共に、二人の時間は続いていく。
それはもう、旅の先ではなく――
確かに、ここから始まるものだった。
次回作は久しぶりにクレイジーな主人公を予定してます。投稿した時は是非よろしくお願いします




