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8話 森と猪?

 「……猪の、鳴き声、ですか?」


 翌朝、城塞都市テッカの冒険者ギルド。朝の光がステンドグラス越しに埃を照らす中、俺、テオは、受付で手渡された依頼書を三度見した。隣では、昨夜のシチューで気力を養ったらしい金髪の盾使い、クリスが、重厚な防弾盾……いや、彼女の言うところの「遺物の盾」のストラップを締め直しながら、背後から覗き込んできた。


 「ああ。サウストウッズ……テッカの南に広がる一番近い森で、ここ数日、妙な音が聞こえるという報告が相次いでいるんだ。農夫や木こりたちの話では、猪が泥をこねるような、あるいは断末魔のような、とにかく不気味な声らしい。」

 「猪、ねえ……。俺のいた世界じゃ、猪なんてのは農作物を荒らす厄介者か、牡丹鍋の材料だったんだが。この世界じゃそんなに珍しいのか?」


 俺の素朴な疑問に、クリスは騎士のような厳格な表情で首を振った。


 「珍しいどころではない。生態系の問題だ。サウストウッズは比較的穏やかな森で、生息しているのはメガウルフ、ツノウサギ、ダクリス、メンメジカ……あとは小鳥くらいだ。猪という種はこの地域には存在しないはずなんだよ。もし本当に猪がいるなら、それは遠く離れた北の連峰から山を越えてきたか、あるいは……もっと別の『何か』が迷い込んだ可能性もある。」


 なるほど。生態系の乱れは、異常事態のサイン。ブラック企業風に言えば、「定時に帰宅し、かつ有給を申請する社員が突如として現れた」くらいの組織崩壊の前触れということか。………はあ。俺は、腰に差した『村雨の脇差し』の重みを確認した。この脇差しからは、今も清らかな水がポタポタと滴り、俺の新しい革靴を濡らしている。


 「よし、行ってみよう。調査だけなら、俺の『運』と君の『盾』でなんとかなるだろう。何より、このままギルドで暇を潰していても金にはならないしな。」

 「ああ、任せてくれ。お前の背中は、この私が命に代えても死守する。……それに、お前の隣にいると、なんだか不思議と安心するんだ。」


 クリスが少しだけ頬を染めて言う。昨夜、俺の「幸運のおこぼれ」が欲しいと言っていた彼女だが、その瞳の奥には、もっと切実な、孤独を恐れるような光が見えた。前世で、部下に裏切られ、孤独に死んだ俺には、その光が痛いほどよく分かった。


 俺たちはテッカの南門を抜け、サウストウッズへと足を踏み入れた。


 森の中は、以前ガバの葉を摘みに来た時よりも、どこか静まり返っているように感じた。風が木々を揺らす音すら、何かに怯えているかのように、カサカサと乾いている。小鳥のさえずりは途絶え、湿った腐葉土の匂いの中に、微かに「獣の腐敗臭」ではない、何か別の、焦げたような臭いが混じっていた。


 「……クリス、止まって。少し調べてみる。」


 俺は「宝物袋」から、もはや相棒となった100均クオリティーの虫眼鏡を取り出した。周囲の地面に視線を落とし、不自然に踏み固められた場所にレンズをかざす。


 【踏み荒らされた草地】

 詳細:大型の生物が通過した跡。通常のシカやメガウルフよりも足跡が深く、歩幅が広い。地面の土が熱で変質しており、ガラス化の兆候が見られる。


 「……土が焼けてる?」

 「どうした、テオ。何か分かったのか?」

 「ああ。ここを通った奴は、ただのデカい獣じゃない。足跡の深さからして体重は300キロ以上。おまけに、歩くたびに高熱を発している可能性がある。……ほら、あそこの木の幹を見てくれ」


 俺が指差した先、巨木の根元に、強烈な打撃を受けたような傷跡があった。


 【樹皮の剥離と炭化】

 詳細:強烈な打撃による損傷。瞬間的に百度を超える熱が加わった形跡があり。通常の猪の突進ではあり得ない破壊力。


 「焦げ跡に、木の破壊……。猪が火を纏って突進してくるなんて話、聞いたことあるか?」

 「……いや、私の知る限り、火属性を持つ魔物は火山地帯か乾燥した荒野にしかいないはずだ。この湿った森には、最も不向きな存在だぞ。」


 クリスが盾を構え直す。彼女の背負う「防弾盾」は、森の木漏れ日を吸い込むように鈍く黒光りしていた。俺たちは、さらに森の深部へと進んだ。進むにつれ、虫眼鏡の鑑定結果は不穏さを増していく。


 ブゴォォォォ……ッ!

 ガァァァァァ、ギャアアアア!!


 「っ!? 近い!」

 「ああ、あの向こう、広場になっている場所だ!」


 その鳴き声は猪のに似ていたが、その終わりに混じる金属的な高音は、まるで巨大なヤスリで鉄を削るような、生理的な不快感を伴っていた。俺たちは息を殺し、茂みの間から広場を覗き込んだ。


 そこには、かつて「広場」だったはずの残骸があった。周囲の若木はことごとくなぎ倒され、地面は大型の耕運機で無茶苦茶にかき回されたように荒れ果てている。そして、その中央に、周囲の緑とはあまりに不釣り合いな「極彩色」の怪物が鎮座していた。


 「……鳥、か?」

 「嘘だろ……。あれは、カソワランド……? でも、あんな大きさ、あり得ない……!」


 クリスの声が小刻みに震えている。そこにいたのは、猪では無かった。高さは優に2メートルを超え、首筋からは鮮やかな青と赤の肉垂が垂れ下がっている。全身を覆うのは、漆黒の羽毛。そして、何より目を引くのは、成人男性の太腿ほどもある強靭な二本の脚だ。その先端には、数十センチはあろうかという、ナイフのように研ぎ澄まされた爪が備わっていた。


 俺は震える手で虫眼鏡を、その「変異種」に向けた。


 【カソワランド(極限変異種)】 危険度:B〜A

 詳細:本来1.2m程度のCランクモンスターが亜竜の魔石を取り込んで巨大化した個体。驚異的な細胞再生能力を持ち、心臓が動いている限り数秒で傷が塞がる。また、特筆すべきはその脚力で、一蹴りで鋼鉄をも凹ませる。炎、毒耐性が極めて高い。単体での戦闘力は亜竜よりも高い。

 現在の状態:空腹、かつ極度の苛立ち。


 「……クリス、下がれ!ギルドの調査不足どころの騒ぎじゃないぞ!」

 「逃げろと言いたいのか? だが、テオ、鳥の足からは逃げられないぞ。背中を見せた瞬間に、あの爪で串刺しにされるのがオチだ!」


 クリスの言う通りだ。カソワランドは、その巨大な頭をゆっくりとこちらに向けた。爛々と輝く真っ赤な瞳。頭頂部にある硬質のトサカが、威嚇するようにカチカチと音を立てる。


 ブゴォォォォォォ!!!


 空間を震わせる咆哮。それは猪の鳴き声を何十倍にも増幅し、怒りと破壊衝動を煮詰めたような音。俺の「運極振り」という設定が、この絶望的な状況をどうにかしてくれるのか?それとも、この運というのは「絶望的な状況に遭遇させて、ギリギリで生き残る」という、最悪なスパルタ仕様なのか?


 「……クリス、前を頼む! 盾を信じてるぞ!」

 「任せろ! 私の命がある限り、お前には指一本触れさせない!」


 カソワランドが、爆発的な加速で地面を蹴った。時速100キロを優に超える突進。2メートルの巨体が、火の玉となって俺たちに迫る。俺たちの「調査」という名のお散歩は、一瞬にして、文字通りの死闘へと叩き落とされた。

Thank you for reading!

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