7話 宿と仲間
「和み亭、か。いい名前だ。」
クリスの案内に従って路地をいくつか抜けた先に、その宿屋はあった。石造りの堅牢な建物だが、窓から漏れる琥珀色の光と、威勢のいい笑い声が外まで溢れている。看板には酒樽と横たわる猫の絵が描かれており、なるほど「和み」という名に偽りはなさそうだ。
「ああ。ここは食事が美味いし、何より店主がしっかりしている。さっきのような連中も、ここでは滅多に騒ぎを起こさない。いや、起こせないと言った方が正しいかな。」
クリスはそう言って、慣れた手つきで重い木扉を押し開けた。店内に入ると、焼きたての肉の香ばしい匂いと、エールの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。中央の広間は酒場になっており、仕事終わりの労働者や冒険者たちがグラスを傾けていた。
「いらっしゃい! おお、クリスじゃないか。今日は連れがいるのかい?」
カウンターの奥から、ガタイがよく、眼光の鋭い女将が声をかけてくる。
「ああ、テオだ。今日冒険者登録をしたばかりの新人でな。いい部屋はあるか、女将?」
「新人さんか! 歓迎するよ。二階の角部屋がちょうど空いてる。静かだし、窓からの眺めもいい。一泊銀貨三枚だが、どうする?」
一泊銀貨三枚。一般的には決して安くないが、今の俺には「キュプラ」を売った金がある。
「借ります。とりあえず三日分、先払いで。」
俺が大銀貨一枚を差し出すと、女将は手際よく銀貨七枚を釣銭として返してくれた。
「よし、鍵はこれだ!食事にするなら、そこの空いてる席に座りな。今日は猪肉のシチューが絶品だぞ!」
俺とクリスは、壁際の小さなテーブル席に腰を下ろした。クリスは席に着くなり、あの重厚な盾を足元に置いた。こうして近くで見ると、やはり異質だ。表面に施された滑り止めのような加工や、ネジの頭の形。中世の鍛冶技術では再現不可能な、精密な工業製品の香りがプンプンする。失われた古代文明があるのだろうか。「天から降ってきた鉄塊」を中世の技術で加工しても、このような盾が出来るとは思えない。この盾を持っているクリスは何者なのだろうか。なぜ、俺に近づいてきたのだろうか。
「……テオ、さっきから私の顔をじっと見て、どうしたんだ? 鼻になにか付いているか?」
「あ、いや。すいません。助けてもらったお礼を、まだちゃんと言えてなかったと思って。ありがとう、クリス。」
「気にするな。私は盾使いだからな。誰かを守るのは、呼吸をするのと同じだ。」
彼女はさらりと言ってのけたが、その表情にはどこか不自然な硬さがあった。それだけではない。彼女は座る位置を調整し、俺のすぐ隣、肩が触れ合うほど近くに詰め寄ってきたのだ。
(近い……。というか、これじゃ食いづらいんだが)
社畜時代、接待や飲み会で女性の隣に座ることはあったが、クリスのような凛とした美人にここまで接近されると、若返った心臓には少々刺激が強い。しかも、彼女は時折、周囲を警戒するように視線を鋭く走らせている。
「……クリス。一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「さっきから、妙に俺との距離が近くないですか? もしかして、まださっきの連中が追ってきているとか……」
クリスは一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに頬を微かに染めて視線を逸らした。
「あ、ああ……。いや、これは、その。……お前は『運』には自信があるのだろう? だったら、その幸運のおこぼれに預かりたいというか……」
「おこぼれ?」
「……変なことを言って済まない。忘れてくれ。」
彼女は誤魔化すように運ばれてきたエールを一気に煽った。不審だ。先ほど彼女は、俺に「不思議な気配」を感じると言っていた。そして、俺の運にあやかろうとする。だが、彼女の瞳に悪意はない。あるのは、切実な何かを求めるような、縋るような光だ。
「……ところで、テオ。」
ジョッキを置いたクリスが、少し真面目な顔で俺を見た。
「さっきから気になっていたんだが、私に対して敬語を使うのはやめてくれないか?」
「え? でも、クリスの方が冒険者としては先輩で、命の恩人なので……」
「恩人なんて大げさだ。それに、さっき言っただろう? 私はお前とパーティを組みたいと思っている。……対等な仲間になりたいんだ。そんな余所余所しい話し方をされると、なんだか、その……遠い気がしてな。」
彼女の言葉には、どこか寂しげな響きがあった。
(対等な仲間、か……)
前世の俺には、そんな存在はいなかった。上司には媚を売り、部下からは突き上げられ、最後には信じた者に裏切られた。この世界で、俺はテオとして新しい人生を始めたんだ。だったら、これまでの「社会人の常識」なんてものは、一度捨ててしまってもいいのかもしれない。だが、俺の前の人生、30年以上にわたる俺の「常識」が抜けるとも思えない。さらに、クリスにも裏切られる可能性もある。どうしたらいいだろうか。クリスを信じてもいいのだろうか。クリスを対等な仲間以前に、仲間として認めていいのだろうか。
「あーもう!わかったよ。じゃあ……クリス、これからよろしくな。」
俺が意識して砕けた口調で言うと、クリスの顔がパッと明るくなった。
「ああ、よろしく! テオ。……ふふ、やっぱりそっちの方がいい。女将ぃー!シチュー追加で!」
彼女は満足そうに微笑み、追加のシチューを注文した。
食後、俺はクリスと翌朝の待ち合わせを約束して、二階の部屋へと向かった。部屋は清潔で、木の香りが心地よい。窓を開けると、テッカの街の夜景が広がっていた。街灯の代わりに魔石が淡く光り、異世界の夜を彩っている。俺はベッドに腰掛け、腰の『村雨の脇差し』を抜いて眺めた。刀身からは相変わらず、清らかな水が絶え間なく溢れ、月光を反射して美しく輝いている。
「……運、か。」
今日一日に起きたことを振り返る。メガウルフとの遭遇、救護所での目覚め、スーツが金貨四枚に化けたこと、ガバの葉の収穫、そしてクリスとの出会い。これら全てが、あの女神が言った「極限まで引き上げた運」の結果だというのか。確かに全てが上手くいっている。だが、それは同時に「自分の実力ではない」という、薄ら寒い不安も孕んでいた。
「ま、考えても仕方ないか。今は、寝れる時に寝る。それが社畜の鉄則だ。」
俺は装備を解き、ふかふかのベッドに身を沈めた。俺は美作悟ではない。俺は、前のような社畜ではない。それなのに、「社畜の鉄則」とか言ってしまう自分が悲しかった。
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