38話 静寂
クリスと四百の黒鉄騎兵が巻き上げた砂塵が、地平線の彼方へと完全に溶けて消えた。アルカの城門前に立ち尽くしていた俺は、ふと、無意識に隣を振り返った。そこにはいつも、無愛想に腕を組み、鋭い眼光で荒野を睨む金髪の騎士がいるはずだった。だが、そこにいたのは、自分の影と、乾いた風に揺れる土埃だけだった。
「……ちっ、静かすぎるな。」
独り言が、驚くほど虚しく響く。彼女が去り際、俺の耳元で囁いた言葉。結局、風の音にかき消されて聞き取れなかった。だが、その時の彼女の唇の震えと、琥珀色の瞳に宿った熱だけが、今も耳の奥に残像として焼き付いている。
「テオさん……クリスさん、本当に行っちゃったんだね。」
服の裾を引かれ、視線を落とすと、エリックが不安そうな顔で俺を見上げていた。その背後には、ルイーザや他の子供たちも、どこか心細げに佇んでいる。彼女はこの街の子供たちにとって、単なる用心棒ではなく、強くて頼れる「姉貴」のような存在だったのだ。
「ああ。でも、彼女は捨てていったんじゃない。俺たちを守るために、もっと大きな盾になりに行ったんだ。……さあ、湿っぽいのは終わりだ。俺たちには、彼女が帰ってきた時に腰を抜かすような『楽園』を作るっていう仕事が残ってるからな。」
俺は努めて明るい声で子供たちの頭を撫で、街の中心へと歩き出した。感傷に浸っている暇はない。戦争が終われば、次に来るのは「精算」と「戦後処理」、そして「復興」という名の冷徹な実務だ。前世の営業時代、大規模プロジェクトの完了直後にこそ、最も神経を使う事務作業が山積みだったことを思い出す。
アルカの中央広場には、九百の傭兵たちが集まっていた。昨夜の狂乱の宴が嘘のように、そこには厳粛な、そしてどこか張り詰めた空気が漂っていた。皆の視線の先には、俺が宝物袋から取り出した、山のような金貨の袋がある。朝日に照らされた黄金の輝きは、荒野の泥にまみれて戦った彼らの対価だ。
「鉄槌団、銀狼団、砂塵の射手……各団長、前へ。」
俺の呼びかけに、ザカスを筆頭とした三人の男たちが歩み出た。彼らの鎧にはまだ激戦の傷跡が残り、顔には隠しきれない疲労が刻まれている。
「今回の防衛戦、皆の働きは期待以上だった。このアルカの壁が、そして子供たちの命が守られたのは、間違いなくあんたたちの剣のおかげだ。……約束通り、成功報酬を支払う。」
俺は、一人につき金貨一枚という、相場を遥かに上回る報酬を各団長に手渡した。一樽のルビー・メイトが金貨15枚で卸される今のアルカにとって、この出費は決して不可能ではない。だが、話はそこでは終わらない。俺は手元の名簿を広げ、声を一段低くした。
「……今回の戦いで命を落とした、五十四人の仲間たちの名を確認した。彼らは、俺たちの自由のために命を賭した。……その遺族には、通常の三倍、金貨三枚を慰問金として支払う。彼らの命の価値に比べれば微々たるものだが、俺からの精一杯の誠意だ。」
広場に、深い沈黙の後にどよめきが走った。傭兵という職業は、死ねばそれまでだ。前金こそ貰えても、死んだ後にこれほどの厚遇を受けることはまずない。依頼時に死ぬ事は依頼失敗と同じ、失敗したのは本人の実力不足だと判断されるのがこの世界なのだ。
「おい、旦那……正気か?」
ザカスが独眼の目を丸くして、俺の手元を凝視した。
「傭兵の命なんてのは、戦場に捨ててくるもんだ。遺族にまでこれほどの金を出すなんて、お人好しにも程があるぜ。」
「俺は、自分たちのために血を流した人間を使い捨てにするほど、落ちぶれちゃいない。この金は、あんたたちの団を通じて、必ず遺族の手に渡してくれ。もし途中で着服する奴がいたら、俺が直々にピィちゃんを差し向けるからな。」
冗談めかして言ったが、俺の目は笑っていなかった。「経営者」としての俺の直感が告げている。ここで金を惜しんではいけない。忠誠心とは、正当な対価と、それ以上の「敬意」によってのみ買えるものだからだ。彼らが遺族にこの金を届けるとき、アルカの名は「慈悲深い黄金の都」として傭兵たちのネットワークに刻まれることになる。
報酬の支払いが終わった後、ザカスが一人、俺の執務室に残った。彼は入り口のドアを閉めると、重苦しい革の椅子に深く腰掛けた。
「旦那、話があるんだが……」
「どうした、ザカス。金額に不満か?」
「まさか! あんな額を積まれて文句を言う奴は、地獄の亡者くらいなもんだ。そうじゃねえ……。実は、連中の間で妙な空気が流れててな。」
ザカスは頭を掻き、どこか気恥ずかしそうに視線を泳がせた。
「正直に言うぜ。傭兵なんてのは、その日暮らしのクズの集まりだ。だが、この数日、この街で過ごして……子供たちが笑い、美味い飯が出て、バレンの爺さんが作った頑丈な壁がある。そんな『当たり前の生活』に、連中の毒気が抜かれちまったらしい。」
ザカスが指差す先、窓の外では、傭兵たちがエリックたちからトメイトを受け取ったり、バレンの工事を手伝ったりしている。彼らにとって、戦場ではない「居場所」というものが、これほどまでに魅力的に映ったのだろう。
「……七割だ。生き残った傭兵のうちの七割が、このままアルカに残って、この街の住民になりたいと言い出しやがった。」
「七割!? 六百人以上じゃないか!」
俺は驚きで椅子から立ち上がった。予想を遥かに超える数字だ。
「ああ。だがよ、旦那。残りの三割だけで傭兵団を維持してポルタに戻っても、戦力不足で仕事にならねえ。団長連中で話し合ったんだが……いっそのこと、三つの傭兵団の拠点を、丸ごとこのアルカに移しちまおうかってな。」
「……つまり、家族も連れてくるということか?」
「そういうこった。金貨一枚ありゃあ、故郷でくすぶってる女房やガキをここに呼び寄せる旅費なんてお釣りが来る。どうだい、旦那。荒くれ者の家族まで、この街で引き受けてくれるか?」
俺は深く息を吐き、窓から広大な外郭エリアを見渡した。願ってもない申し出だ。クリスという最強の盾が不在となった今、アルカの最大の問題は「絶対的な人口不足」だった。戦える男、働く手、そして次世代を担う家族。それが一気に六百世帯以上、約二千人規模で増える。これは村が「都市」へと飛躍する瞬間だ。
「いいだろう。ザカス、歓迎するよ。……ただし、これからは傭兵じゃなく、『アルカの自警団兼開拓民』だ。剣を鍬に持ち替える覚悟はあるか?」
「がはは! あのトメイト酒が飲めるんなら、肥溜め掃除だってやってやるぜ!」
俺はすぐさま工事現場へ走り、バレンを捕まえた。彼は新しいドワーフ合金の槌を振るい、巨大な石材を正確に切り出していた。
「バレン! 大変だ、仕事が増えたぞ!」
「なんだ小僧、また無理難題か? 壁ならもう立ってるぞ。酒ならまだ早い。」
「壁じゃない、家だ。二千人規模の移住が決まった。至急、長屋を大量に作ってほしい!」
「……二千人だと!? このボケ小僧、ドワーフを過労で石にする気か!」
バレンは盛大に毒づいたが、その瞳は職人としての喜びに燃えていた。俺たちは埃っぽい現場のテーブルに、一キロ四方の外郭エリアの設計図を広げた。まだ白紙に近い広大な大地。
「いいか、バレン。一キロ四方の広大な外郭を二分する。南側の半分、五十万平米は広大な農地だ。トメイト3割ポテイト7割だ。これだけの人数を食わせるには自給自足が絶対だ。」
「ほう、残りの半分はどうする。」
「北側の半分を住宅地と商業地にする。中央にバカでかい通りを通し、そこに商店や酒場、工房を並べるんだ。傭兵の家族たちが商売を始められるようにな。バレンさん、君が得意な、頑丈で住みやすい長屋を機能的に配置してくれ。あと、宿屋も欲しい。」
バレンはパイプをくゆらせ、図面を見つめた。
「……やるからには徹底的にやってやるわ。だが小僧、資材が全然足りん。石も木も、それから土だ。この不毛な荒野を農地にするなら、あのサウストウッズの黒土が山ほど必要になるぞ。」
数日後。俺はピィちゃんの背に揺られ、再びサウストウッズへと向かっていた。ニトロやエステルたち、カソワランドの群れが規則正しい足音を立てて続く。本当は、連れてくるのはピイちゃんだけで良かったのだが、なぜか群れを率いたくなったのだ。
「ピィちゃん、今日は少し遠出になるな。頑張ってくれよ。」
「ピィッ!」
ピィちゃんは力強く鳴いたが、どこかその声も、空気を探るように寂しげに聞こえた。
サウストウッズに到着し、深い森の端で黙々と土を袋に詰め込んでいる最中も、ふとした瞬間に「クリス、そっちの状況はどうだ?」と声をかけそうになり、自分の言葉を飲み込んだ。
俺は、自分が思っている以上に、あの不器用な騎士に依存していたのかもしれない。彼女が隣にいることが、この過酷な異世界で生きる俺の「心の安全保障」になっていたのだ。
「……甘えるな、テオ。彼女は彼女の戦場で戦ってるんだ。俺がここで土を運ぶ一歩一歩が、彼女が帰ってくる場所を盤石にするんだからな。」
俺は自分に言い聞かせるように、巨大なスコップで黒土を掬い上げた。この土が、二千人の胃袋を満たす黄金のポテイトを育むのだ。
夕刻。地形が変わるほどの土を保存袋に詰め込みアルカへの帰路についた。地平線の向こうに、バレンが夜通しで松明の明かりを灯して工事を続けるアルカの城壁が見えてくる。それは闇の中に浮かぶ不夜城のようだった。
城門をくぐった瞬間、俺はまた、門番の隣に金髪の影を探してしまった。だがそこにいたのは、不慣れな様子で槍を持ち、俺の帰還を待っていた元傭兵の男だった。
「おかえりなさい、テオの旦那!土の搬入、ご苦労様です!早速バレンの爺さんが土を広げる場所を決めて待ってますぜ!」
「……ああ、ただいま。みんな、作業を始めよう。」
俺は少しだけ力なく笑い、土の荷下ろしを指示した。
家が次々と建ち、畑が広がり、人が増え、黄金が積み上がっていく。活気に満ち、一秒ごとに豊かになっていくこの街。
だが、この胸の真ん中にぽっかりと空いた「静寂」だけは、どんな金貨でも、どんな豊かな土でも、埋めることができそうにない。
俺は夜空を見上げた。ファストファルトの空も、このアルカと同じように高いのだろうか。
「次に会う時は、君が驚いて腰を抜かすような『楽園』を、絶対に見せてやるからな……。」
俺の誓いは、新しい街の建設を告げる絶え間ない槌音の中へと、静かに溶けていった。




