37話 背中のあの黒い盾
狂乱の宴が、終わろうとしていた。アルカの広場に設えられた巨大な焚き火は、今は静かな熾火となって赤く爆ぜ、地面には飲み干された「ルビー・メイト」の樽が転がっている。傭兵たちは泥のように眠り、カソワランドたちは壁の上で羽を休めていた。祭りの後の静寂。だが、その空気には勝利の余韻以上に、重厚な鉄の匂いが混じっていた。
「……さて、テオ殿。改めて聞こう。この酒、王都で流せば国が傾くぞ。」
石造りの執務室。揺れる蝋燭の光に照らされ、ヨーナス=フォン=キングスランス候爵が、折れた自らの槍を愛おしそうに眺めながら言った。その隣には、鎧を脱ぎ捨て、簡素な平服に着替えたクリスが座っている。彼女の表情は、先ほどの激闘が嘘のように静かだったが、その瞳の奥にはまだ消えない火が灯っていた。
俺は、手元の木杯に最後の一滴を注ぎ、喉を潤してから問いかけた。
「侯爵閣下。一つ、疑問があるんです。……今回、閣下は教会の正規軍を容赦なく蹂躙した。相手は女神教の盾を掲げる連中。宗教的に、あるいは政治的に……大丈夫なのですか? 下手をすれば、王国全体を敵に回すことになりかねない。」
俺の言葉に、ヨーナスは豪快に鼻で笑った。その笑い声には、絶対的な権力者だけが持つ傲岸な響きがあった。
「はっ、何を言うかと思えば。テオ殿、貴公は商売には明るいが、この国の『根源』については疎いようだな。……良いか、この王国において、王権と教権は常に刃を交える間柄よ」
ヨーナスは窓の外、暗闇に沈む荒野を見据えた。
「王族、そして我ら候爵以上の大貴族とその領民は、女神教の信徒になることを法で禁じられている。これは初代国王が定めた絶対の掟だ。神の教えが王の言葉を上回ることを、我が一族は断じて許さぬ。教会の連中がどれほど喚こうが、我らにとって奴らは『王の土地を汚す不法占拠者』に過ぎんのだ。」
「なるほど。政教分離というよりは、王権による宗教の封じ込め……ですか。」
俺は納得した。前世の世界でも、王と教皇が覇権を争った歴史は枚挙にいとまがない。この世界では、その力関係が「血」という明確な境界線で区切られているのだ。
「だから気にするな。奴らを蹴散らしたのは、王国内の都市を不当に包囲した賊を排除したに過ぎん。むしろ王宮の連中は、溜飲を下げて喜ぶだろうよ。」
ヨーナスはそう言って、ようやく視線をクリスへと向けた。先ほどまでの峻厳な戦士の目は鳴りを潜め、そこには値踏みするような、それでいてどこか居心地が悪そうな、父親としての不器用な色が混じっていた。
「……それにしても、だ。クリスティーナ……いや、クリス。」
「……何だ、父上。」
クリスが短く応じる。その声はまだ硬い。
「先ほどから見ておれば……貴様、妙にこのテオ殿と親しいではないか。……そういうことか?」
ヨーナスがニヤリと、悪戯を思いついた少年のように口角を上げた。
「そういうこと、とは?」
俺が首を傾げると、候爵は身を乗り出してきた。
「決まっているだろう。貴公ら、既に『契り』を交わしている仲なのだろう? 娘は非常に気が強いにも関わらず、貴公の言うことに異常な信頼を寄せている。矛を折るほどの娘を御する男がどんな奴かと思っていたが、なるほど、この知略と胆力。キングスランスの婿としても不足はない。」
「ぶっ……!?」
俺は飲んでいた酒を吹き出しそうになり、クリスは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ち、違う! 何を勝手なことを言っているんだ! 私はこの男に……その、勘違いで勝手について行って、この男の……と冒険を……!」
「ほう? では、ただの冒険者仲間といったところか? ……照れるな、娘よ。戦場で育つ恋も悪くない。私は認めんとは言っておらん。」
「認めるとか認めないとか、そういう話ではないと言っている! この、クソ親父……っ!」
クリスは地団駄を踏み、そっぽを向いた。その様子を見て、俺は苦笑しながらフォローに回った。
「閣下、残念ながら……いや、光栄な勘違いですが、私たちは戦友ですよ。彼女の志に、俺はアルカの未来を預けている。それ以上でも、それ以下でもありません。」
「ふん、食えない男だ。まあ良い。今はそれで済ましておけ」
ヨーナスの表情から、不意に冗談が消えた。彼は懐から、一通の重厚な書状を取り出し、テーブルに置いた。そこにはキングスランス家の家紋である「黄金の槍」が、黒い蝋印で刻まれていた。
「……クリス。貴様を正当な後継者として認めた以上、果たさねばならぬ義務がある。」
部屋の温度が、数度下がったように感じられた。
「我が領地、ファストファルト。そこには貴様の帰還を待たずして、家督を狙う有象無象の親族が群がっておる。……貴様が私の正式な代理人として、そして次期当主として『王家の矛』を継ぐ儀式を行わねば、キングスランスの名は内側から腐り落ちるだろう。」
「……私に、当主を継げというのか?」
クリスの声が震えた。それは恐怖ではなく、あまりに重すぎる現実への戸惑いだった。
「そうだ。貴様はもはや、荒野の冒険者ではない。数万の民の命を背負い、王国の矛と盾となるべき女だ。……明日、私と共にファストファルトへ向かえ。」
「そんな……! 今、私がいなくなったら、アルカはどうなる! エリックたちは、この街の子供たちはどうなるんだ……!」
クリスは俺を振り返った。その瞳には、助けを求めるような、あるいは引き止めてほしいような、切実な光が宿っていた。
俺は静かに椅子から立ち上がり、窓の外を見た。そこには、バレンが心血を注いで作り上げた七メートルの城壁が、月光を浴びて白く輝いている。そしてその内側には、俺が買い揃えた新しい服を着て、安らかに眠る子供たちの家々があった。
「……クリス。君の判断に任せるよ。アルカの事は心配しなくていい。行きたいなら行きなよ。」
「テオ……! お前まで、私を追い出すのか?」
「違う。追い出すんじゃない。これは『戦略的投資』だよ。」
俺は彼女の正面に立ち、その琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「考えてみてくれ。君がキングスランス候爵家を正式に継げば、このアルカは『最強の候爵家が後ろ盾にいる直轄地』になる。教会の小役人どころか、軍部だって手出しができなくなるんだ。君がファストファルトへ行くことは、この街の自由を、永遠に確定させるための『最強の一手』なんだよ」
「だが、私は……戦うことしか……」
「君はもう、一人じゃない。ここにはバレンがいる。傭兵たちも、君の背中を見て戦い方を覚えた。そして、ピィちゃんたちがいる。」
俺は窓を開けた。夜風に乗って、カソワランドの安らかな寝息が聞こえてくる。
「何より、俺がいる。俺がこの街の経済を、防衛を、君が帰ってくるまで絶対に守り抜いてみせる。……だから、君は君にしかできない戦いをしてきてくれ。……最強の『盾』として、一族の腐った連中を黙らせてくるんだ。」
クリスの目に、涙が滲んだ。母を殺され、自分を否定し続けた「家」に戻ることは、彼女にとって地獄へ戻るのと同じことかもしれない。だが、俺の言う通り、それがアルカを守る最大の道であることも、彼女は理解していた。
「……テオ。約束しろ。私が立派な貴族になるまで、この街の『トメイト』を絶やさないと。」
「ああ。約束する。その頃には、アルカをこの国で一番豊かで、誰もが羨む楽園にしておくよ。」
俺はそう言って、右手を差し出した。クリスはその手を、痛いほど強く握りしめた。その掌の熱が、彼女に「戻るべき場所」があることを教えていた。
翌朝。アルカの城門の前には、四百の黒鉄騎兵が整列していた。エリックやルイーザ、バレン、そして生き残った傭兵たちが、一人の女性を見送るために集まっていた。クリスは、ピィちゃんの首を優しく抱きしめた後、俺に向き直った。彼女の背中には、あの「黒い盾」が鈍い光を放っている。
「……テオ。最後に一つだけだ。」
「何だい?」
クリスは周囲に聞こえないような小声で、俺の耳元に唇を寄せた。
「⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎。」
「え……?」
聞き返す間もなく、クリスは鮮やかに馬に飛び乗った。彼女は一度も振り返ることなく、先頭を行くヨーナスの後を追って、荒野へと駆け出した。
「……全く。小声すぎて聞こえなかったんだが。」
俺は、砂塵の彼方に消えていく金髪の騎士を見送りながら、苦笑いして呟いた。




