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32話 開戦

 自由都市アルカの夜明けは、大地を震わせる軍靴の音と共に訪れた。外壁の頂上、冷たい朝露に濡れた石畳を踏み締め、テオは地平線を睨みつけていた。隣には、抜き身の剣を杖代わりに突いたクリス、そして不機嫌そうにパイプを噛み締めるバレンがいる。


 「……テオ。どうやら、クレメンスの情報は少し古かったようだな。」

 

 クリスの声が、低く、硬い。見張り台から下りてきた銀狼団の伝令が、息を切らしながら叫んだ。

 

 「報告! 地平線を埋め尽くす白い外套……敵軍の数は当初の二千じゃねえ。……四千だ! いや、それ以上かもしれません!」

 「四千だと!?」

 

 傭兵団長の一人、ザカスが顔を歪めた。

 

 「二千なら野戦でも楽勝だが、四千となると話は別だ。教会の正規軍だけじゃねえ。あの旗……周辺都市の領主騎士団までかき集めてやがる!」


 テオは眉根を寄せた。前世のビジネスでも、競合他社が土壇場で資本提携を拡大し、圧倒的な物量で市場を潰しにくることはあった。

 

 「……教会も必死だな。この酒の価値を認めたからこそ、面子を捨てて、なりふり構わず『数』を揃えてきたか。周辺の街に『聖戦』の名目で、強制的に騎士を供出させたんだろう。」


 目の前に広がる荒野。そこには、朝日に輝く白銀の鎧の海があった。歩兵の槍は林のように立ち並び、重装騎兵の馬の鼻息が、霧のように立ち上っている。二千という数字に安心していた九百の傭兵たちの間に、一瞬、動揺が走る。


 「おい、バレン!この壁、四千人に囲まれても保つんだろうな!」

 「がははは!小僧、俺を誰だと思っておる!壁『は』保つに決まってるだろう!」

 

 バレンは空になったパイプを懐に仕舞うと、壁を力強く叩いた。


 「数は関係ねえ!壁を登れる人数は決まっておる。この石の組み方、ドワーフの計算を舐めるな! ……だが、テオ。四千となると、一キロ四方の壁をすべて守り切るには、人間の目だけじゃ足りんぞ。」


 バレンの懸念は正しかった。外壁の一辺は一キロメートル。四辺を合わせれば四キロメートルに及ぶ。九百の傭兵を分散させれば、一メートルにつき一人も配置できない。敵が全周から同時攻撃を仕掛ければ、どこか一箇所が薄くなり、そこから決壊する。


 「ピッ、ピィィィィィィィッ!!」

 

 鋭い咆哮が空を割った。ピィちゃんを筆頭に、エステル、ニトロ等のカソワランドたちが、壁の頂上を凄まじい速度で走り始めた。彼らの脚は、並の馬を凌駕する。


 「……そうか、カソワランドたちだ。」

 

 テオは膝を叩いた。


 「彼らの目は、人間の数倍いい。それに、この壁を時速百キロで移動できる。クリス! カソワランドを一羽ずつ、傭兵の小隊に付けろ。彼らが敵の『梯子』をいち早く察知し、叫び声で兵を誘導する!」

 「わかった。……全軍、聞け!鳥たちの動きを見ろ!彼らが止まった場所が、戦場だ!」

 

 クリスの号令と共に、戦いの火蓋が切られた。


 「前進ッ!神の不浄を焼くのだ!」

 

 教会の騎士が剣を振り下ろし、大地が揺れた。四千の軍勢が、まるで白い津波のようにアルカの城壁へ押し寄せる。


 「ドゴォォォォォン!」

 

 まず現れたのは、巨大な丸太を鉄で補強した「破城槌はじょうつい」を担いだ重装歩兵たちだった。彼らは厚い盾を並べて頭上を覆い、城門へと迫る。


 「岩を落とせ! 狙う必要はねえ、そこらへんに転がってる『建材』をぶちまけてやれ!」 

 

 バレンが叫ぶ。


 「せーのっ!!」

 

 傭兵たちが、人力で持ち上げられる限界の巨石を、門の真上から次々と投下した。ドゴォォ! という鈍い音が響き、教会の盾の陣がひしゃげる。叫び声と共に、破城槌が地面に転がった。魔法などないこの世界において、七メートルの位置エネルギーを持つ岩石は、どんな呪文よりも確実に人体を粉砕する。


 しかし、敵は四千。門がダメだと分かると、彼らは蟻のように壁の至る所に「梯子」をかけ始めた。


 「北東、十時の方向に梯子を確認!」

 

 砂塵の射手の団長が叫ぶより早く、カソワランドのニトロがその場所で立ち止まり、「ブゴォッ!」と鋭く鳴いた。

 

 「来たぞ!第3、第4小隊、あの鳥の元へ走れ!」


 まばらに配置されていた傭兵たちが、ニトロの合図を受けて一斉に移動する。


 「射手!矢を惜しむな!登ってくる奴の眉間に叩き込め!」


 ヒュンッ、ヒュンッ、と風切り音が連続する。梯子にしがみついた教会の兵たちが、一本、また一本と、荒野の土の上へと墜落していく。


 だが、多勢に無勢。死体の山を越えて、数人の兵が壁の縁に手をかけた。


 「……神の正義をぉぉっ!」


 狂信に満ちた叫びを上げる兵。だが、その顔を覗き込んだのは、傭兵の剣ではなく、巨大な大鍋だった。


 「神様は熱いのがお好きか? ……そらよ、アルカ特製の朝飯だ!」


 傭兵たちが、バレンの指示で作らせた石造りのかまどで沸騰させていた「熱湯」を、一気にぶちまけた。


 「ぎゃあああああああああっ!!」

 

 凄まじい悲鳴。鉄の兜や鎧の中に流れ込んだ熱湯は、兵士の皮膚を瞬時に焼き、戦意を完全に喪失させる。鎧という防御が、ここでは「逃げ場のない煮え湯の檻」へと変わるのだ。


 (なるべくなら、熱湯じゃなくて熱した油の方がよかったんだけどな。備蓄がない。)



 戦いは数時間に及んだ。俺は壁の上をピィちゃんの背に乗って移動し、状況を把握し続けていた。


 「テオ!南西の壁が危ない!あそこだけカソワランドの配置が薄い隙を突かれた!」

 

 クリスの叫びに、俺はピィちゃんの首筋を叩いた。


 「行くぞ、ピィちゃん!全速力だ!」


 ピィちゃんが、狭い壁の上を風となって走る。南西の角。そこではすでに十人近い教会の騎士が壁の上に乗り込んでおり、数少ない傭兵たちが囲まれていた。


 「死ね、大罪人の手先どもめ!」


 騎士の長剣が、手傷を負った傭兵に振り下ろされようとした瞬間、


 「ドォォォォォン!!」

 

 時速百キロの肉塊が、その騎士の胴体に正面から激突した。ピィちゃんの巨大な嘴ではなく、その「重さ」と「速度」そのものが凶器だった。騎士は言葉を発する間もなく、壁の向こう側へと弾き飛ばされ、七メートル下の地面に叩きつけられた。


 「ピッ、ピィィィィィィッ!!」

 

 ピィちゃんは壁の端で急停止すると、鋭い蹴りを繰り出し、さらに二人の騎士を文字通り「蹴り殺した」。


 「助かった、旦那……!この鳥、本当に化け物だぜ!」

 「休む暇はない!梯子を蹴り倒せ!」

 

 俺は腰の『村雨』を抜いた。魔法のような破壊力はないが、刀身から溢れる「水」は、別の意味で威力を発揮する。


 テオは壁の縁、兵が今まさに登ってこようとしている場所に、大量の水をぶちまけた。


 「おっと、足元注意だ。」

 「うわっ!?なんだ、この水は!」


 鉄の手袋で石を掴もうとした兵士たちが、濡れた石の滑りやすさに、ずるりと手を滑らせる。わずかな隙。そこへ、傭兵の槍が容赦なく突き込まれた。


 太陽が中天に差し掛かる頃、荒野は凄惨な光景に包まれていた。アルカの外壁は、返り血と、熱湯から上がる湯気で薄汚れている。壁の麓には、数百の死体と、動けなくなった重傷者が重なり合っていた。


 「……引いていくぞ。」

 

 クリスが肩で息をしながら呟いた。

 

 教会の本陣で、撤退を告げる角笛が吹かれた。四千の軍勢は、一度に押し寄せすぎた。バレンの設計した「こちら側に有利な場所」と、カソワランドによる「完璧な監視と誘導」。そして、恐ろしい「物理法則(岩と熱湯)」を前に、数の暴力は機能しなかったのだ。


 「いや、まだだ。奴らはまだ三千以上残っている。……一度引いて、態勢を整えるつもりだろうな。」


 俺は、遠ざかっていく白銀の列を冷徹に見つめていた。


 「だが、これで分かったはずだ。この壁は、ただの土の山じゃない。神の教義よりも重い、俺たちの『意地』が詰まっているんだ。」


 傭兵たちが、勝利の咆哮を上げる。

 

 「聞いたか!教会様が逃げていくぜ!」

 「おい、飯だ!トメイトたっぷりのスープを持ってこい!」

 「酒もだ!あの赤い酒を一杯飲ませろ、死ぬほど喉が渇いた!」


 俺はピィちゃんの首を優しく撫でた。ピィちゃんの羽は、返り血で少し汚れている。


 「……お疲れ様、ピィちゃん。第一ラウンドは、俺たちの勝ちだ。」


 だが、俺は知っていた。前世の競合他社が、一度の失敗で諦めることはない。次は、もっと狡猾で、もっと残酷な手段を選んでくる。


 (次は、夜か。あるいは、兵糧攻めか。……どうくる、教会。)


 アルカの守備隊は、短い休息に入った。束の間の静寂。だが、その静寂は、さらなる嵐の前の静けさに過ぎなかった。

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