3話 城塞都市テッカ
意識の底から這い上がるとき、最初に感じたのは、あのカビ臭いアパートの湿り気ではなかった。鼻腔をくすぐるのは、乾燥したハーブの香りと、微かに混じる獣脂のランプの匂い。ゆっくりとまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、粗く削り出された木の梁が走る高い天井だった。
「……知らない、天井だ。」
テンプレな独り言を漏らしてみるが、そもそも俺に「懐かしい我が家の天井」などという帰るべき場所はもう存在しない。
「iffrei h iefv bhiodn chruih cfnhu?」
唐突に、鼓膜を震わせる異質な音。首を九十度左へ巡らせると、そこに一人の女性が立っていた。清潔感のある白い修道服のような衣を纏い、腰には淡い青色のサッシュを巻いている。慈愛に満ちた、しかしどこか事務的な眼差し。神官、あるいは治癒術師といった風情だ。
「jisnjnc ejkrncjien ens jejrneojcrjn?」
「……ええと、ちょっと何言ってるかわからないんですが。〇ンドウィッチマン呼んできてもらえますか?」
混乱のあまり冗談を飛ばしたが、彼女は怪訝そうに眉をひそめるだけだ。
「efjhbc bchhewli nenksji uevo?」
「だから、言葉が通じないんだって。……あ。」
そこで思い出した。宝箱から出たあの胡散臭い、だが高性能な「翻訳の指輪」の存在を。慌てて自分の指を見るが、そこには何もはまっていない。血の気が引いた。あの指輪がなければ、この世界で俺は言葉の通じない野良犬以下だ。まさか、身ぐるみ剥がされたのか?
「jsnc snei cjeisj jdss?」
絶望しかけた俺の前に、彼女がそっと右手を差し出した。その掌の上で転がっていたのは、見覚えのある白金の指輪だ。彼女はそれを俺に手渡すと、促すように頷いた。俺はひったくるようにそれを受け取り、震える指に押し込む。
「私の話していることが、わかりますか?」
その瞬間、耳に届くノイズが、まるでピントが合うように意味を成した。脳内に直接、概念が流し込まれるような奇妙な感覚。
「わかります……。聞こえます。ここは、どこですか?」
「ここは城塞都市テッカ。教会の救護所です。街道の近くで倒れているあなたを、見回りの騎士が見つけて運んできてくれたのですよ。」
テッカ。聞いたこともない名だが、窓から差し込む陽光の強さと、外から聞こえる馬の嘶き、活気ある市場の喧騒が、ここが文明の圏内であることを教えてくれる。
俺はベッドの上で上体を起こした。筋肉痛のようなダルさはあるが、あのブラック企業での連続勤務明けに比べれば、羽が生えたように体が軽い。若返った肉体というのは、これほどまでに生命力に満ちているものか。
「……ありがとうございます。俺は……その、記憶がないみたいで。気づいたらあの森にいたんです」
前世との決別を告げるため、一人称を「俺」に変えた。また、「異世界から来ました」なんて信じられるわけがないので、都合のいい「記憶がない」という設定にした。まあ、実際に俺はこの世界では記憶はないのだ。間違った事を言ってはない。
「記憶が? それは大変ですね。……ちなみに、ここはルクラール王国で五番目に大きい都市。人口は約七千人。近隣の村々から集まる羊毛と、それを使った織物が特産です」
「七千人……。ちなみに、首都はどれくらいなんです?」
「王都サイガですか? あそこには六万人ほどの民が暮らしていますよ。この国で最も栄華を極めた場所です」
王都で六万人。一瞬「少なっ」と思いかけたが、すぐに思考を修正する。ここは中世レベルの技術体系だ。排水処理や食糧供給の限界を考えれば、数万規模の都市は十分に巨大だ。十三世紀のロンドンと同規模か、それ以上。そう考えると、この国の国力の高さが窺い知れる。
「……王都の人口を真っ先に訊ねるなんて。記憶を失っているにしては、妙に理性的ですね。まさか、隣国の密偵か何かではありませんよね?」
神官の女、マノンの目が、わずかに細められた。優しげな微笑の裏に、都市を守る側としての鋭い警戒心が見え隠れする。しまった。社畜時代の癖で、ついマクロな数字から状況を把握しようとしてしまった。
「いえ、そんな。ただ、自分がどれほど辺境にいたのか気になっただけで……。お恥ずかしい話ですが、自分の名前すら思い出せないんです。」
「……ふふ、冗談ですよ。それほどボロボロの見たこともない意匠の服を着て、あの奇妙な片刃一本でメガウルフ三匹を仕留めた男が密偵だとしたら、あまりに目立ちすぎますから。」
マノンはくすくすと笑い、椅子の背にもたれかかった。
「さて。名前がないのは不便ですね。ギルドの登録にも、教会の施しを受けるにも名簿が必要です。……どうでしょう、私がいま、ここであなたに新しい名を授けても?」
他人に名前をつけてもらう。それは、この世界における私の存在を定義してもらうということだ。
「……お願いします。あんまり変なのは勘弁してくださいね。」
「そうですねえ……セバスチャン、なんていかが? 誠実そうな響きでしょう?」
「却下で。一生誰かのお世話をしなきゃいけない気がします。」
「あら、残念。では……ネイサンは?」
「それも却下。俺のこ……いえ、何でもありません。」
日本人の俺からすると「姉さん」にしか聞こえない。それにしても危なかった。ここで「俺の故郷では違う意味で捉えられるんですよ。」なんて言ったら、記憶がないのが設定だとバレる。
「ふふ、こだわりが強いのね。……じゃあ、テオ。これならどうかしら?」
テオ。神の贈り物を意味するその響きは、今まで運が無かった俺への、皮肉混じりの祝福のようにも聞こえた。
「テオ……。短くていい。気に入りました。今日から俺はテオです。」
「……よろしく、テオ。あなたの新しい人生に、女神の加護がありますように。」
マノンは満足げに微笑んだ。窓の外を見れば、石造りの街並みが夕日に赤く染まっている。美作悟という社畜は、あの暗闇の中で死んだ。今ここにいるのは、指輪一つで言葉を操り、拾った脇差しで運命を切り拓く、若者・テオだ。
将来、この名が「豪運」や「厄災」、「悪魔」の二つ名と共に国中に轟くことになるとは、今の俺はまだ露ほども思っていなかった。
「さて、マノンさん。この街で一番稼げる仕事……教えてもらえますか?」
「多分冒険者になることですね。実力があれば1日金貨一枚とか稼げますし。」
「ありがとうございます。」
俺は深く礼をして、冒険者ギルドを目指すことにした。
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