27話 一つの権力
翌朝、アルカの空は高く、突き抜けるような青さだった。俺は昨日熟成を終えたばかりの小樽を一つ、宝物袋に入れた。
「ピィちゃん、今日も頼むぞ。少し大変かもしれないが、これ一樽で、外貨事情が一気に変わってくるかもしれないんだ。」
「ピィッ!」
ピィちゃんは「任せろ」と言わんばかりに胸を張り、力強く地を蹴った。風が爆音となって耳元を通り過ぎる。ポルタへの道中、俺は眼下に広がる荒野を見下ろしていた。かつて死にかけたこの場所が、今では自分たちの庭のように思える。
数時間後、俺たちはいつものようにポルタの「裏ルート」、クレメンス商会の私設搬入口に滑り込んだ。
「おっと、今回はトメイトの山じゃないのか?」
地下倉庫で待っていたのは、少しやつれた顔のクレメンス支配人だった。門の外で教会の騎士団が目を光らせているせいで、彼も相当な神経を使っているのだろう。
「支配人、お疲れのようですね。今日は、そんな貴方に『最高の癒やし』を持ってきました。」
俺は宝物袋から小樽を取り出し、クレメンスの目の前にあるテーブルにドンと置いた。
「これは……酒か?」
「ええ。先日お譲りいただいた袋、その最初の成果です。ハニーメイトを100%使用した、アルカ特製『ルビー・メイト』……とでも名付けましょうか。」
俺は懐から取り出したナイフで、樽の栓を器用に跳ね飛ばした。
その瞬間だった。地下倉庫の、少し埃っぽくてカビ臭い空気が、一瞬にして書き換えられた。立ち上ったのは、完熟した果実をさらに煮詰めたような、濃密で甘美な香り。だが、それだけではない。発酵によって生まれた微かな酸味と、木の樽がもたらすバニラのような芳香が混じり合い、嗅ぐ者の脳を直接揺さぶるような贅沢な芳香。
「……っ!? なんだ、この香りは……。これが、あのトメイトからできたというのか?」
クレメンスの目が、商人のそれから、一人の美食家のそれへと変わった。俺は用意していたグラスに、その液体を注いだ。光を吸い込み、内側から発光しているかのような深い赤。グラスを揺らせば、粘性のある雫が「天使の涙」となってゆっくりと側面を滑り落ちる。
「どうぞ。まずは、一杯。」
クレメンスは震える手でグラスを取り、その香りを深く吸い込んだ後、意を決したように一口含んだ。一秒、二秒。静寂が倉庫を支配する。
「……信じられん……。」
クレメンスが、絞り出すような声を出した。
「舌の上を滑る感覚は、まるで最上級のシルクだ。トメイトの野性味は一切消え失せ、代わりに残っているのは、太陽の恵みをそのまま凝縮したような爆発的な甘み。そして、その後を追いかけてくる、高貴なまでの酸のキレ……。テオ、君は……君は一体、何を錬金したんだ!?」
「錬金術じゃありませんよ、支配人。ただの『時間』と『誠実さ』の結晶です。」
クレメンスはグラスに残った最後の一滴まで愛おしそうに飲み干すと、バン! とテーブルを叩いた。
「テオ。この酒、一樽につき……いや、この小樽一樽につき、金貨1枚で買い取ろう。」
金貨1枚。前世の感覚で言えば、小さな樽一つで数十万円、いや、それ以上の価値だ。トメイト3000個が大銀貨1枚(金貨の1/10程度の価値)だったことを考えれば、跳ね上がり方は異常といってもいい。
「金貨1枚……。支配人、それは破格ですね。」
「破格なものか! これを教会の連中に見つからないよう、王都の貴族や、酒に飢えた豪商たちに流してみろ。金貨5枚でも、10枚でも喜んで出す奴らが列を作る! これはもはや飲み物ではない、一つの『権力』だ。」
クレメンスは興奮した面持ちで、俺に金貨の入った袋を差し出してきた。俺はその中から一枚、光り輝く金貨を取り出し、それを指先で弾いた。
「……いいでしょう。まずはその価格で提携を結びましょう。ですが支配人、商売の話の前に、俺も一杯いただいていいですか? 自分で作っておきながら、完成品をゆっくり飲むのはこれが初めてなんです。」
「ああ、もちろんだ! 君の分を確保していなかったら、私が君を恨むところだったよ。」
俺は自分のグラスに「ルビー・メイト」を注いだ。口に含むと、まず驚くほどの「熱」を感じた。それはアルコールの熱さではなく、アルカの土地、エリックたちの努力、クリスの献身、そしてピィちゃんたちが運んだ土のエネルギーが、凝縮されて弾けたような熱だ。
「……ふぅ……。なるほど、これは確かに……悪魔的な味だ。」
喉を通る際、鼻に抜ける香りが脳を痺れさせる。前世の営業時代、クライアントに媚びを売るために飲まされたどんな高級ワインよりも、この「自給自足の果てに生まれた一杯」の方が、遥かに俺の心を充たしてくれた。
「どうだ? 自分の才能が怖くなったか?」
「いえ、自分の『運』に感謝したくなっただけですよ。」
俺はグラスを傾け、残りの酒を一気に飲み干した。全身に力が漲るのを感じる。
教会の封鎖? 騎士団の検問?そんなものは、この一杯の価値の前では砂利のようなものだ。
「支配人。増産体制は整っています。私の保管庫には、これから続々とこの『赤い金貨』が積み上がっていく。教会の連中が門を塞いでいる間に、俺たちはポルタの、いや、この国の経済の喉元を、この酒で締め上げてやりましょう。」
「がははは! 君という男は、本当に恐ろしい。神の教えよりも、トメイトの酒を信じさせるとはな!」
俺とクレメンスは、地下倉庫で不敵な笑みを交わした。ポルタの街の外では、依然として白い外套の騎士たちが威圧的に立っている。だが、彼らがどれだけ剣を振るおうと、一度この「ルビー」の味を知ってしまった人間の欲望を止めることはできないだろう。
「さて、ピィちゃん。帰るぞ。次は、さらに大量の樽を仕込む準備だ。」
「ピィッ!!」
金貨の重みを感じながら、俺は再び荒野へと駆け出した。アルカは今、単なる自給自足の村から、世界を誘惑する「禁断の醸造所」へと変貌を遂げようとしていた。




