2話 人生初魔物
「……ふぅ、。これなら、なんとかなるか。」
私は手に入れたばかりの「村雨の脇差し」を腰に差し、「翻訳の指輪」を指にはめた。二つの袋「保存袋」と「宝物袋」は、スーツのベルトに通して固定する。鏡がないので今の自分の姿は見えないが、ボロボロのスーツに脇差しを帯びた姿は、さぞかし滑稽な落ち武者のようだろう。だが、感傷に浸っている暇はなかった。
「まずは、水の確保……いや、必要ないのか。」
脇差しの鞘から、ポタポタと透き通った水が滴っている。鑑定結果によれば「富〇の天然水」だ。私は上を向き、脇差しの刃を口の上に持ってきて、水分補給をした。冷たく、驚くほど甘い。ブラック企業で胃を壊し、泥のようなコーヒーで命を繋いでいた頃には考えられないほど贅沢な水分補給だった。
「……よし、少し歩いてみるか。」
森は深く、周囲は巨木が立ち並んでいる。一歩、足を踏み出す。ふかふかの腐葉土の感触。二歩、鳥のさえずり。三歩………
ピキッ、と乾いた枝の折れる音が背後で響いた。
心臓が跳ね上がる。社畜時代、上司に呼び出された時よりも鋭い悪寒が背筋を走った。
ゆっくりと振り返ると、そこには三頭の、いや、三匹の「それ」がいた。
体長は優に一・五メートルを超えるだろうか。灰色に汚れた毛並み、ぎらつく黄金の瞳。そして、だらりと垂れた口端から覗く、鋭利な牙。
「オオカミ……いや、魔物か?」
人生初魔物である。そんな俺に虫眼鏡を構える余裕なんてない。彼らは明らかに、私を「獲物」として認識していた。不運、という言葉が脳裏をよぎる。転生して数十分で、早くも捕食者の餌食か?いや、女神に言ったはずだ。私の運を極限まで引き上げろ、と。
「……来るなら、来い。」
私は震える手で「村雨の脇差し」の柄を握った。その瞬間、先頭の一匹が地を蹴った。
「が、ぁっ!」
速い。動体視力が追いつかない。私は無我夢中で脇差しを抜き放ち、目の前を薙いだ。
パシャッ
爽やかな水の弾ける音がした。脇差しから溢れた清らかな水が、飛沫となってオオカミの目に直撃する。不意を突かれた獣は空中で姿勢を崩し、私の肩をかすめて地面を転がった。
「い、いけるか!?」
いや、甘い。残りの二匹が左右から同時に跳びかかってくる。右は回避不能。左は……。その時、私の足が、何かに引っかかった。
「おわっ!?」
情けない声を上げて、私は派手に転倒した。かつてのエリートの面影もない、無様な転び方。
だが、その瞬間、左から跳んだオオカミと、右から跳んだオオカミが、私が先ほどまで頭を置いていた空間で激突したのだ。
「キャンッ!?」
「グルルッ!」
互いの頭をぶつけ合い、脳震盪を起こしたようにふらつく二匹。さらに、私が転んだ拍子に突き出した「村雨の脇差し」が、偶然にも着地しようとした一匹の喉元に吸い込まれるように突き刺さった。
「……え?」
手応えはなかった。ただ、豆腐に熱いナイフを刺すように、脇差しが吸い込まれたのだ。ドロリと溢れる赤い鮮血。しかし、刀身からは常に清らかな水が湧き出ているため、返り血は一瞬で洗い流され、私のスーツを汚すことはない。
最後の一匹、最初に目を潰された個体が、仲間を失った恐怖からか、再び私に牙を剥く。私は立ち上がろうとしたが、先ほどの転倒で足首を捻っていた。
「くっ、動けな……!」
絶体絶命。オオカミが喉笛を目がけて跳躍する。私は反射的に左腕を突き出し、目を閉じた。
ガチッ!
鈍い衝撃。だが、痛みはない。目を開けると、オオカミの牙が、私の左手首を深々と噛み砕いていた……はずだった。
「これ、は……。」
そこには、私が先ほど拾った「宝箱」の「底板」があった。転んだ際に、咄嗟に「保存袋」から何かを取り出そうと手を突っ込み、無意識に掴んでいた「ただの木の板」。それが、まるで計算された盾のように、オオカミの牙をがっちりと受け止めていたのだ。
「隙、ありっ!」
私は右手の脇差しを、力任せに横に振った。吸い込まれるような切れ味。オオカミの首が、音もなく宙を舞った。
「はぁ、はぁ……はぁ……っ!」
三匹の死骸。静まり返った森。私の手はガタガタと震え、膝の力が抜けた。
「勝った、のか? 私が……。」
足首の捻挫、肩の擦り傷。致命傷はない。三匹の魔物に襲われてこの程度で済んだのは、奇跡という他ない。まさに、ギリギリの幸運。死の淵を歩きながら、薄氷を踏むような精度で「生」を拾い上げた感覚。
「……あ、あはは。笑えるな……。」
安堵が全身を駆け抜けた瞬間、強烈な目眩が私を襲った。極限の緊張から解き放たれた反動。視界がぐにゃりと歪む。
「……まずい、ここで、寝たら……」
意識を保とうと自分の頬を叩くが、手には力が入らない。私は三匹の死骸の真ん中で崩れ落ちた。
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