19話 肉と名前
塔が崩れ、搾取の象徴だった黒煙が消えた翌朝。「自由都市アルカ」を包んでいたのは、静寂ではなく、所在なげな「困惑」だった。
「……テオ。この子たち、これからどうするんだ?」
クリスが、広場に座り込む数百人の子供たちを見渡し、途方に暮れたような声を漏らした。管理していた大人たちは、テオの濁流とピィちゃんの蹴撃に恐れをなして逃げ出すか、あるいは「部品」を失った喪失感で抜け殻のようになっている。残されたのは、昨日まで「死ぬために働いていた」子供たちと、それを壊した俺たちだけだ。
「食料を置いていけばいいとも思ったが……それじゃあ、この子たちは数日で野盗かハイエナの餌食だ。」
俺は頭を掻いた。前世の俺なら「俺の仕事は倒産させるところまでだ。あとは自己責任だろ」と冷たく言い放ったかもしれない。だが、俺を見つめる子供たちの目は、倒産した会社の前で路頭に迷う派遣社員たちの目よりも、ずっと幼く、無防備だった。
「……決めた。クリス、ここを拠点にするぞ。この子たちが、自分たちの足でこの町を切り盛りできるようになるまで、俺たちが『役員』として居座ってやる。」
「役員?よくわからんが……つまり、彼らを見捨てないということで合ってるよな?よし、乗ったぞ!」
クリスが力強く頷く。だが、決意だけでは腹は膨らまない。百人規模の腹を満たすには、俺が宝物庫に入れていた食料など、焼け石に水だ。
「クリス、お前はここで子供たちの『再教育』を頼む。まずは……そうだな、自分たちが部品じゃないことを思い出させてやってくれ。俺は、仕入れに行ってくる。」
「ピィちゃん、最高速度だ。草原へ急ぐぞ!」
「ブゴォッ!!」
ピィちゃんの咆哮と共に景色が横に引き延ばされる。たどり着いたのは、かつて俺が「ガバの葉」を採取した、テッカ近郊の草原だ。
だが、今日の草原は以前ののどかさとは一変していた。
「……おいおい、なんだありゃ。生態系がパニック起こしてないか?」
俺の「運」が極端に作用したせいか、草原には異常な数の獲物が集まっていた。だが、それらは決して大人しく獲られに来たわけではなかった。
「ピィ!」
ピィちゃんが警戒の声を上げる。草むらから飛び出してきたのは、通常の三倍はあろうかという巨大なホーンラビットの群れだった。彼らは逃げるどころか、角を槍のように構えて、俺たちを「排除すべき外敵」として認識し、高速で突進してくる。
「くっ、タダ飯とはいかないか……。ピィちゃん、蹴散らすぞ!」
ピィちゃんが旋回し、強靭な脚で先頭のラビットを弾き飛ばす。だが、次から次へと地平線を埋め尽くすような勢いでウサギの津波が押し寄せてくる。さらに上空からは、そのウサギを狙って集まったスカイホークたちが、俺たちの頭上を獲物横取りのライバルと見なして急降下爆撃を仕掛けてきた。
「前世の『繁忙期』より忙しいじゃねえか……!」
俺は村雨を抜き放ち、ピィちゃんの背から飛び降りた。着地と同時に、巨大なシカのリーダーが、角を振り回して突っ込んでくる。異世界に来たての俺だったら即死レベルの突進。だが、馬鹿みたいな走力を持つピイちゃんの動きに比べたら、はるかに鈍かった。
「……そこだ!」
俺は水流を纏わせた脇差しを、シカの足元の地表に叩きつけた。一瞬で周囲を水浸しにし、シカが足を滑らせる。バランスを崩した巨大な身体が宙を舞い、俺はすかさずその首筋を峰打ちで叩いた。
次々に襲い来る獲物たち。俺は文字通り「死に物狂い」で、襲い来る肉の塊を一つずつ無力化していった。運が良いから勝てるのではない。運が良いからこそ、「獲物の全力が自分に向かってくる」という最悪の状況を、最高の効率で捌く機会が与えられているのだ。
「これで……三十、いや四十……! まだまだ足りないぞ!」
数時間の激闘の末、草原には気絶した獲物の山が築かれた。全身汗だくになりながら、俺は大急ぎでそれらを「宝物袋」に詰め込む。これだけの抵抗を乗り越えて手に入れた肉だ。この重みこそが、あの子供たちの命の重みだ。
アルカに帰り着いた頃には、日は高く昇っていた。町に入ると、そこには朝とは違う、奇妙な活気が生まれていた。広場では、クリスが子供たちを一列に並ばせ、真剣な顔で一人一人に向き合っていた。
「いいか、お前は今日から『部品』じゃない。一人の人間だ。人間には、他人から呼ばれるための『名前』が必要なんだ。」
かつて名もなき歯車として、番号やノルマで呼ばれていた子供たちが、名前を呼ばれるたびに、戸惑いながらも小さな顔を上げている。クリスは一人ひとりの肩に手を置き、丁寧に名前を付けていった。
「お前は……エリックだ。強そうな目をしてる。お前は、ミレーヌ。その髪に似合う名前だ。」
その列の最後尾。あの「掃除」に行かされそうになっていた少女が、自分の番を待っていた。クリスは彼女の前に膝をつき、その汚れを優しく拭った。
「お前は、特に勇気があったな。お前がいなければ、この町はまだ闇の中だった。……お前の名前は『ルイーザ』だ。勇敢な戦士、という意味がある。」
「るいーざ……。わたしの、なまえ?」
少女……ルイーザは、その名前を噛みしめるように何度も口にした。やがて、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。それは、死の恐怖に怯えていた時の涙ではなく、自分が「存在していい」と許されたことへの、安堵の涙だった。
そこへ、泥と返り血でボロボロになった俺とピィちゃんが帰還した。
「……おじちゃん、おかえりなさい!」
ルイーザが真っ先に駆け寄ってくる。
「ああ、ただいま……。クリス、進捗はどうだ?」
「ああ、全員に名前を授け終わった。……しかしテオ、その格好はどうした? 戦場にでも行ってきたのか?」
「戦場どころじゃない……。仕入れだよ。……ほら、お祝いだ。今日は肉祭りだぞ!」
俺は宝物袋をひっくり返した。
ドサドサドサッ!!
広場に積み上がる、山のようなウサギとシカ。その圧倒的な量と、まだ熱を持った獲物の姿に、子供たちから歓声が上がった。
「な、なんだこれは!? 本当に一人で狩ってきたのか!?」
「死ぬ気で働けばこれくらい当然だ……。さあ、ハンス! お前の初仕事だ。子供たちに『肉の捌き方』を教えろ!」
建物の陰でいじけていたハンスを引っ張り出し、俺は強制的に包丁を握らせた。
「えっ、ええ……。でも、俺は管理が仕事で……。」
「うるさい!もう無くなった会社のことなんか考えるな!」
「………あ、ああ。」
煙突から出ていた黒い煙はもうない。代わりに、広場のあちこちで焚き火が焚かれ、肉が焼ける香ばしい匂いが立ち込め始めた。
「なあ、クリス。お前って、ちゃんとした名前をつけれる人だったんだな。」
「な、何だよ急に。」
「いや、さ。でっかいカソワランドに『ピイちゃん』なんて名前をつけるから、てっきり名前のセンスがないやつだと思ってたよ。」
「そ、そんなことはないぞ。」
「ピイ?」
ピイちゃんはクリスの顔を覗き込み、クリスは冷や汗をかいていた。
「わたしは、るいーざ。」
ルイーザは自分の名前を何度も呼びながら肉にかぶりついている。この町が、いつまで保つかはわからない。だが、今この瞬間、この町には「仲間の脂」ではない、本物の火が灯っていた。




