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15話 社畜、とてつもない罪悪感を感じる

 視界の端で、誰かが泣いていた。いや、それは鳴き声だったかもしれない。カソワランドの軍団が去った後の城塞都市テッカは、もはや「都市」としての体裁を保っていなかった。石畳は巨大な爪によって耕され、昨日まで「スライム電球」で美しく彩られていた街灯は、ひしゃげた鉄屑となって地面に転がっている。建物の壁には、返り血と泥が混じり合った無残な文様が刻まれ、そこかしこから立ち昇る煙が、青い空を汚していた。


 そして、何より……。


 「……これ、は……」


 俺の足元には、つい数分前まで「管理」という言葉で俺を縛ろうとしていたマノンの死体があった。心臓を貫いた『村雨の脇差し』からは、今もなお清らかな水が溢れ出し、彼女の胸元の血を丁寧に、丁寧に洗い流し続けている。だが、洗っても、洗っても、死んだという事実は消えない。

 

 周囲を見渡せば、そこは地獄の縮図だった。ピィちゃんが呼び寄せた野生の軍団に踏み荒らされた騎士たちの残骸。金貨に目が眩んで俺に刃を向け、返り討ちに遭った冒険者たちの変わり果てた姿。そして、カソワランドの軍団に巻き込まれた罪のない一般人の死体。彼らには家族がいただろうか。帰りを待つ恋人がいただろうか。あるいは、俺と同じように理不尽な社会で歯車として必死に生きていただけの、ただの人間だったのではないか。


 「俺が……やったのか?」


 喉の奥が熱い。胃液が逆流し、酸っぱい味が口内に広がる。正当防衛だった。そう自分に言い聞かせた。マノンは俺を一生閉じ込めようとした。あの監視者も、いつか俺の首を狙っただろう。殺さなければ、殺されていた。これは生存競争であり、俺が生き残るための「最短ルート」だったはずだ。


 だが、理屈は感情に勝てない。前世でどれほど理不尽な目に遭っても、俺は人を傷つけることだけはしなかった。部下に妻を寝取られても、親友に借金を押し付けられても、俺はただ「運が悪い」と泣き寝入りし、自分を削ることでしか解決策を持たなかった。


 そんな「美作悟」が、今、この手で、一人の女性の心臓を貫き、一つの都市を壊滅に追い込んだ。


 「……あ、あは……。なんだよ、これ……」


 笑いが漏れた。乾いた、ひび割れた笑いだ。運が極振り? これが幸運の結果か?俺が自由になるために、数千人の命が消え、街が地図から消えるほどの結果を引き寄せる。


 「テオ……」


 背後からクリスの声がした。だが、振り向く勇気がない。彼女は俺を助けてくれた。俺のために街を敵に回した。そんな彼女に、どんな顔を見せればいい?人殺しの顔か?それとも、自分のしでかした惨状に震える臆病者の顔か?


 俺は震える手で、脇差しを握り直した。刀身は驚くほど美しい。常に水で清められているため、血の一滴も、脂の一膜も残っていない。鏡のように磨き上げられた刃に、俺の顔が映る。


 そこには、若返ったはずなのに、前世の「亡霊」よりも深く絶望した男がいた。


 「……俺がいなければ、こんなことにはならなかった。」


 俺がこの街に来なければ。俺がスーツを売らなければ。俺が、あの時「運」を望まなければ。


 脇差しの切っ先を、自分の喉元に向ける。この水が、俺の罪も洗い流してくれるだろうか。この鋭い刃が、脳裏にこびりついた悲鳴と肉の感触を、一瞬で終わらせてくれるだろうか。

 

 (死んで、辞職リタイアすればいい。そうすれば、もう誰も傷つかない。運なんて、もういらない……!)


 腕に力を込めようとした、その時。


 「馬鹿野郎!!」


  衝撃。横から飛び込んできた黒い影が、俺の腕を力任せに払い飛ばした。キン、という高い音を立てて、村雨が石畳を転がる。溢れ出した水が、無機質な地面を濡らした。


 「何を、している……! 何をしているんだ、テオ!」


 クリスだった。彼女は俺の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。彼女の瞳には怒りと、それ以上に、今にも壊れてしまいそうなほどの悲しみが宿っていた。


 「放せよ、クリス……。見たろ?俺は人殺しだ。俺のせいで、この街はめちゃくちゃだ。マノンさんだって……俺が殺したんだぞ!」

 「彼女は、お前を奴隷にしようとした!私だって、彼女の盾になったはずの騎士たちをこの盾で弾き飛ばした!なら私も、お前と同じ人殺しだ!」

 「違う!俺とは違うんだ!」


 俺は叫んだ。魂を削り出すような叫びだった。


 「俺は……俺は本当は、こんな奴じゃないんだ! 人を殺して平気な顔ができるような、そんな強者じゃないんだ! 俺はただの……ただの社畜だったんだよ!」


 クリスは俺を離さなかった。むしろ、逃がさないように強く、強く抱き寄せた。甲冑の冷たい感触と、彼女の体温が混ざり合う。


 「テオ……話してくれ。お前が何者なのか。お前がどこから来て、何にそんなに怯えているのか。全部だ。私は、お前の相棒なんだろう?」


 その言葉が、俺の心の堤防を崩した。俺は、隠し通すつもりだった「前世」のことを、途切れ途切れに話し始めた。


 日本という国で、光の届かないビルの中に閉じ込められていたこと。朝から晩まで、数字と伝票に追われ、心が摩耗していく音を聞きながら生きていたこと。信じていた友人に裏切られ、愛していた妻に裏切られ、それでも文句一つ言わずに、ただ「自分が悪い」と思い込んで泥のように働いていたこと。そして、最後は孤独に、誰に看取られることもなくコンビニで死んだこと。


 「……だから、嬉しかったんだ。この世界に来て、お前みたいな仲間ができて……。でも、結局は同じだった。俺の『運』は、誰かの不幸の上にしか成り立たない。俺が幸せになろうとすれば、周りが壊れる。俺は、呪われてるんだ……」


 話し終える頃には、俺の声はかすれ、呼吸をすることさえ苦しくなっていた。テッカの惨状は、俺の過去の「不運」を、強引に「幸運」という名の暴力に変換した反動に過ぎない。俺は、この世界でも結局、何者にもなれなかった。


 クリスは黙って聞いていた。俺の告白を、一つも否定せずに、ただ静かに受け止めていた。やがて、彼女は俺の頭を、自らの胸の中に深く埋めさせた。


 「……テオ。お前は、優しすぎるんだ。」


 彼女の声が、頭上から降ってくる。


 「お前のいた世界は、きっと地獄だったんだろう。でもな、テオ。この世界も……地獄なんだよ。力のない者は奪われ、力のある者は傲慢になる。マノンは聖職者の顔をして、力を持つお前を支配しようとした。それはお前のせいじゃない。彼女の、この世界の醜さだ。」


 彼女は俺の背中を、子供をあやすように優しく叩いた。


 「お前がマノンを殺さなければ、今頃お前は生きた人形にされていた。私だって、お前を殺されて、また後悔する事になっただろう。そうさせなかったのはお前だぞ。テオ。」

 「でも……」

 「謝るな。罪悪感を捨てるな。それはお前が『人間』である証拠だ。美作悟が、まだお前の中で生きている証拠だ。……泣け、テオ。全部、ここで吐き出せ。」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の目から熱いものが溢れ出した。三十年以上、必死に堪えてきたもの。「男は泣くな」と教えられ、社会の歯車として感情を殺し、どんな仕打ちを受けても笑顔で「申し訳ございません」と謝り続けてきた、俺の魂の叫びが。


 「あああああ……っ! う、あああああぁぁぁ!!」


 俺は子供のように、声を上げて泣いた。マノンの死体がある広場の中心で。壊れた街の中で。クリスの胸を涙で濡らしながら、俺は初めて、自分のために泣いた。前世の理不尽も、この世界の残酷さも、すべてを押し流すように。


 どれほどの時間が経っただろうか。涙が枯れ、呼吸が整い始めた頃、背後から「ピィ……」と、気まずそうな鳴き声が聞こえた。顔を上げると、そこには血生臭い羽毛を風に揺らしたピィちゃんが、大きな首を項垂れてこちらを見ていた。カソワランドの軍団はいつの間にか街を去り、残されたのは俺たちと、静まり返った廃墟だけだった。


 「……すまない、クリス。取り乱した」

 「いいさ。少しは、スッキリしたか?」


 クリスは少し照れくさそうに笑いながら、俺の顔を指で拭った。彼女の手は硬いタコがあったが、驚くほど温かかった。


 「……ああ。まだ、罪悪感は消えないけど。でも、死んで逃げるのは……やめるよ。俺にはまだ、こいつ(ピィちゃん)の餌代も払わなきゃいけないしな。」


 俺は立ち上がり、転がっていた『村雨の脇差し』を拾い上げた。水は今も絶えることなく、刃を清め続けている。


 「クリス。俺はこの街を出る。」

 「ああ。お前がそう言うと思っていたよ」

 「……一緒に行ってくれるか? 俺の『運』に巻き込まれて、また地獄を見るかもしれないけど」


 クリスは自分の防弾盾を背負い直し、力強く頷いた。


 「当たり前だ。お前を一人にしたら、またどこかの溝で泣き出しそうだからな」


 俺たちは、崩壊した南門へと歩き出した。俺は「テオ」として、血と涙を背負いながら、この異世界を再び歩き始める。


 背後には、もう誰もいない。前方には、見たこともない荒野が広がっている。

 

 俺の運が次に何を引き寄せるのか、それはわからない。だが、隣には盾を持つ相棒がいて、後ろには最強の巨鳥がいる。


 「……行こう。新しい職場セカイへ。」

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