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信仰よりもよく効く水は、聖女の残り湯でした

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/01/30

大神殿の公聴会場は、怒号と悲鳴と笑い声が入り混じり、もはや収拾がつかなくなっていた。


「もう一度言ってみろ、この不敬者が!」


大司教ヴェルナーの怒声が、高いドーム天井に反響する。

五十五年の人生で積み上げた威厳が、今まさに瓦解しようとしていた。


証言台に立つ青年──フィン・ガルドは、やせぎすの体躯に不釣り合いなほど落ち着いた目をしていた。

二十三年間、貧しさと共に生きてきた男の目だ。


「…ですから」


フィンは咳払いをした。


「『聖域水』の正体は、聖女セレスティア様の残り湯です」


会場がどよめきと怒りと驚きと…様々な感情で爆発していた。


貴族席からは失神する婦人が出た。聖職者席では老司祭が胸を押さえている。傍聴席の民衆たちは、笑っているのか怒っているのか、もはや本人たちにもわからない様子で声を上げていた。


「あの奇跡の水が……」「の、残り湯だと……?」

「俺、三本も飲んだぞ!」「私なんて傷口に塗ったわ!」


大司教ヴェルナーは、引きつった笑みを浮かべた。

白髪交じりの髪が乱れ、普段の重厚な威厳は見る影もない。


「……貴様、自分が何を言っているかわかっているのか?」


「わかっております」フィンは頷いた。「ですが事実ですので」


傍聴席の最前列で、ひとりの女性が静かに目を伏せていた。

銀色の髪に、白い法衣。彼女が聖女セレスティアである。


その頬が、かすかに赤らんでいた。


「……なんで、こうなったのかな」


彼女の呟きは、喧騒に紛れて誰にも届かなかった。



事の始まりは、三ヶ月前に遡る。





「フィン・ガルド、今月の給金だ。五銀貨」


神殿の会計係は、まるで施しを与えるかのような顔で革袋を差し出した。


「……ありがとうございます」


フィンはそれを受け取り、重さを確かめた。

軽い。当然だ。

五銀貨では、首都の安宿に半月泊まれるかどうかという金額である。


聖女付き雑用係。


それがフィンの肩書きだった。

風呂の準備、洗濯物の回収、水運び、掃除。

聖女セレスティアの生活を支える裏方仕事だ。

聖なる仕事のはずだが、待遇は聖なるどころか貧しさの極みだった。


「神に仕える喜びが報酬だ、とか言うんでしょうね」


フィンは廊下を歩きながら独りごちた。

神殿の廊下は無駄に広く、無駄に装飾が多い。

この金細工ひとつで、自分の年収を超えるだろう。


彼は無信仰だった。


神がいないと思っているわけではない。

ただ、神殿という組織を信じていないだけだ。


祈っても貧しさは変わらなかった。

病気の母を救ったのは、高額な教会の聖水ではなく、隣家のばあさんの薬草だった。

その聖水を買うために借金して、結局母は死に、借金だけが残った。


フィンが教会で働いているのは、皮肉でも復讐でもない。

単に、他に仕事がなかっただけだ。


「さて、風呂掃除か」


聖女の浴室は、神殿の奥まった場所にあった。

大理石の床、金の蛇口、湯気を逃がす天窓。

庶民の一生分の給金で建てたような部屋だ。


そして、浴槽には、まだ湯が張られていた。


「……もったいないな」


それが、すべての始まりだった。


聖女セレスティアが入浴した後の湯。普段なら、そのまま排水溝に流してしまう。

だが今日に限って、フィンは妙に惜しい気持ちになった。


五銀貨の給金のせいかもしれない。

昨日食べた硬いパンのせいかもしれない。あるいは、ただの貧乏性か。


「……瓶、あったな」


彼は掃除道具入れから空き瓶を取り出し、浴槽の湯を汲んだ。

温かい。かすかに、花のような香りがする。聖女が使う入浴剤の残り香だろう。


「まあ、さすがに飲んだりはできないし…洗濯にでも使うか」


その日、フィンは瓶を三本分持ち帰った。




翌日。

フィンは市場にいた。給金日なので、食料を買い出すためだ。


「にいちゃん、その瓶なんだ?」


八百屋の親父が、フィンの腰にぶら下がった瓶を指差した。


「ああ、これは……」


説明に詰まった。

まさか「聖女の残り湯」とは言えない。


「……聖水、みたいなものです」


嘘ではない。聖女に由来する水なのだから。


「聖水?神殿のか?」


「まあ、似たようなものかと」


親父の目が光った。


「売ってくれ」


「は?」


「うちの婆さん、腰が痛くてな。教会の聖水は高すぎて買えねえ。

でもにいちゃん、神殿で働いてるんだろ?ちょっと安く分けてくれよ」


フィンは困惑した。これはただの風呂の残り湯だ。

効果があるわけがない。


「いや、これは……」


「頼むよ。銅貨十枚出す」


銅貨十枚。教会の聖水の百分の一以下だ。

だが、フィンの夕食代にはなる。


「……効かなくても、文句言わないでくださいね」


「おう、構わねえよ」


こうして、フィンは生まれて初めて商売をした。






三日後。


「にいちゃん! にいちゃんっ!」


市場で八百屋の親父が走ってきた。

その目は、まるで奇跡を見たかのように輝いていた。


「婆さんの腰がな、治ったんだ!」


「……はい?」


「あの水を塗ったら、一晩で痛みが引いたんだよ!

四十年連れ添って、こんなこと初めてだ!」


フィンは意味がわからなかった。


「いや、あれはただの……」


「頼む、もっと分けてくれ!金なら出す!

隣の魚屋も、向かいの鍛冶屋も、みんな欲しがってるんだ!」


フィンの思考が停止した。

何が起きている?




その夜、フィンは自室で考え込んでいた。


狭い部屋だ。ベッドと机と椅子しかない。

神殿の下働きに与えられる最低限の空間。


「……ありえない」


手元には、空になった瓶がある。


残り湯に効能があるなど、聞いたことがない。

教会の聖水は、聖女が特別な儀式で祈りを込めて作るものだ。

入浴後の湯に、そんな力があるわけがない。


だが、事実として効いた。


「偶然か?それかプラシーボか?」


いや、四十年の腰痛が一晩で消えることを、偶然とは呼べない。


フィンは貧しい人生を送ってきた。

だからこそ、目の前の現実を疑う習慣がついていた。


奇跡など信じない。神の恩寵など知らない。


だが、目の前で起きたことは、紛れもない事実だった。


「……もう一度、試すか」


翌日。

フィンは聖女の浴室を掃除しながら、こっそり湯を瓶に詰めた。今度は五本。


そして、市場へ持っていくと、一時間で完売した。


三日後、また報告が来た。


「火傷が跡も残らず治った」

「慢性の頭痛が消えた」

「目の霞みが晴れた」


そして全員が、同じことを言った。

教会の聖水より、よく効く…と。







一ヶ月後。


「聖域水」という名前は、フィンがつけたわけではなかった。


いつの間にか、民衆の間でそう呼ばれるようになっていた。

「神殿から流れてくる、本当に効く聖なる水」。略して聖域水。


口コミは爆発的に広がった。


「教会の聖水、十本分の効果がある」

「しかも安い」

「手に入れた人は皆、病が治った」


最初は都市の貧民街だけだった噂が、中流階級に広がり、やがて貴族の耳にも届いた。


フィンは戸惑っていた。


「……なぜ、こんなことに」


彼がやったのは、残り湯を捨てずに売っただけだ。

金儲けの才覚があったわけでも、信仰心があったわけでもない。

ただ、なんとなくもったいないと思っただけ。


だが今、聖域水は教会の聖水ビジネスを脅かす存在になりつつあった。


「フィン」


ある夜。

浴室の掃除をしていると、声をかけられた。


振り向くと、聖女セレスティアが立っていた。


銀色の髪が、薄暗い廊下でかすかに光っている。

白い法衣は簡素だが、着ている人間の気品がそれを補って余りあった。

彼女は二十一歳。フィンより二つも年下だ。

だが、その瞳には、年齢に似合わない疲労の色があった。


「セレスティア様」


フィンは慌てて頭を下げた。

聖女と雑用係では、身分が違いすぎる。


「……私の湯を売っているそうね」


心臓が止まるかと思った。


「あ、あの、それは……」


言い訳を考える。

だが、何も思いつかない。事実だからだ。


「申し訳ありません。すぐにやめ……」


「やめないで」


フィンは顔を上げた。

聖女は、微笑んでいた。


「民が救われているのでしょう?」


「え……」


「教会の聖水では救えなかった人々が、あなたのおかげで救われている。私は……嬉しいの」


フィンは混乱した。

これは罠だろうか、教会に報告するための誘導だろうか。


だが、セレスティアの目に、嘘の色は見えなかった。


「ただ、教えてほしいの」


彼女は一歩近づいた。花の香りがした。


「なぜ、私の残り湯に……そんな力があるの?」



二人は、聖女の私室で話すことになった。


こんな場所に入るのは初めてだった。

想像していたよりすごく質素だった。


聖女の部屋なのに、装飾はほとんどない。

本棚と机と、小さなベッド。必要なものしかなく、まるで囚人の独房のようだ。


「……私は、自分の力がわからないの」


セレスティアは、窓辺に立って言った。

月明かりが、その横顔を照らしている。


「儀式で聖水を作る。でも、効果があるのかないのか、実感がない。

祈っても、何も感じないの。私には、信仰心が足りないのかもしれないって」


「そんなことは……」


「でも、あなたの売った水は、確かに人を救っている」


彼女は振り向いた。その目に、涙が光っていた。


「私の入浴後の湯が、儀式で作った聖水より効くの。これって……皮肉よね」


フィンは、何と言えばいいかわからなかった。


彼は無信仰だ。聖女を崇拝したことはない。

だが、目の前にいるのは、神聖な存在ではなく、ひとりの孤独な女性だった。


国家の象徴として祭り上げられ、神殿に閉じ込められ、自分の力にすら自信を持てない。


フィンは、生まれて初めて聖女を「人」として見た。


「……俺も、わからないことだらけです」


正直に言った。


「なぜ残り湯に効果があるのか、なぜ教会の聖水より効くのか。

俺は魔術師でも学者でもないから、理屈はわかりません」


「でも?」


「でも、事実として人が救われている。だったら、続ける価値はあると思います」


セレスティアは、目を見開いた。


「……あなた、変わった人ね」


「よく言われます」


「普通、聖女にそんな口を利かないわ」


「すみません、無礼で」


「いいえ」


彼女は、初めて心からの笑顔を見せた。


「嬉しい。私を『聖女様』じゃなく、普通に扱ってくれる人、初めてだから」


その夜から、二人の関係は変わっていった。






セレスティアは、フィンの活動に協力を申し出た。


「私にできることがあれば、何でも言って」


「いや、聖女様が関われば、教会に目をつけられます」


「もう目をつけられているわ。噂は広がっているもの」


彼女は笑った。


「だったら、堂々と協力する。それが私の意思だと示す」


フィンは困惑した。

この人は、自分の立場をわかっているのだろうか。


「……後悔しませんか?」


「わからない。でも、何もしないで後悔するより、何かして後悔する方がいい」


それから、二人は毎晩のように話し合った。


どうすれば効率よく聖域水を作れるか。

どこに配れば最も多くの人を救えるか、教会にバレずに活動を続けるには。


話し合ううちに、フィンは聖女の本当の姿を知っていった。


彼女は読書が好きだった。歴史書と、あとは恋愛小説も。

ただし神殿の検閲で、恋愛小説は没収されるらしい。


好きな食べ物は焼き菓子。

だが、聖女は質素な食事を取るべきとされ、滅多に口にできない。


夢は、いつか神殿の外を自由に歩くこと。

だが、聖女は国家の象徴であり、外出には護衛と儀礼が必要で、「散歩」という概念がない。


「……窮屈な人生ですね」


「あなたに言われたくないわ」


セレスティアは笑った。


「あなたの部屋、見せてもらったことあるけど、私の部屋より狭かったじゃない」


「広さの問題じゃないでしょう」


「そうね。自由の問題ね」


二人は、互いの不自由さを笑い合った。


聖女と雑用係。身分は天と地ほど違う。

だが、どちらも組織の歯車として消費されている点では同じだった。


「フィン」


ある夜、セレスティアが言った。


「私、あなたと話していると、自分が聖女だってこと、忘れられるの」


「それは……いいことなんですか?」


「わからない。でも、楽なの」


フィンは、何も言えなかった。

ただ、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。





二ヶ月目。

事態は急変した。


「聖域水の成分分析が完了しました」


大神殿の会議室。大司教ヴェルナーは、報告書を睨みつけていた。


「……公式聖水の八倍の魔力純度だと?」


「はい。正確には、純度九十七パーセント。

公式聖水の最高品でも十五パーセントです」


ヴェルナーの顔が歪んだ。


五十五年の人生で、彼は教会の階段を一歩ずつ登ってきた。

信仰のためではない。権力のためだ。


教会は国家を支配し、聖水ビジネスは莫大な富を生む。

その頂点に立つことが、彼の人生の目標だった。


だが今、その基盤が揺らごうとしている。


「原因は?」


「不明です。ただ、聖女が関与していることは確実かと」


「つまり、聖女の入浴後の湯が、我々の儀式より効くということか」


「……端的に言えば、そうなります」


ヴェルナーは沈黙した。


これは危機だ。

教義の危機であり、権威の危機であり、そして何より、ビジネスの危機だ。


公式聖水より八倍効く水が、百分の一の価格で流通している。

民衆がどちらを選ぶかは明白だ。


「隠蔽しろ」


「は?」


「この報告書を封印しろ。聖域水は偽物だと喧伝しろ。流通を止めろ」


「しかし、すでに数千人が効果を実感しています。隠蔽は……」



「やれ。教会の権威を守ることが、最優先だ」

ヴェルナーの声は、氷のように冷たかった。





だが、隠蔽は失敗した。


聖域水を使った市民は、何千人にも及んでいた。

その全員の口を塞ぐことは不可能だった。


教会が「聖域水は偽物」と発表した翌日、民衆の怒りが爆発した。


「嘘をつくな!」

「俺の婆さんは、この水で治ったんだ!」

「教会の聖水なんて、効きもしないくせに高いだけだろ!」


暴動には至らなかったが、教会への不信感は決定的になった。


そして、教会はついにこの聖域水の犯人を特定した。


「フィン・ガルドを逮捕しろ」




逮捕は、深夜に行われた。

フィンは抵抗しなかった。いずれこうなることは、わかっていた。


「罪状は、聖水の偽造および販売、聖女の権威の冒涜、教会秩序の破壊」


牢獄は暗く、湿っていた。

石の壁に染みついた黴の臭いが鼻をつく。


「……まあ、予想通りか」


フィンは壁にもたれて座った。


これで終わりだろう。

教会に逆らった罪は重い。良くて追放、悪ければ処刑だ。


だが、不思議と後悔はなかった。


数千人を救った。それは事実だ。

教会の聖水では救えなかった人々を、自分の行動が救った。


それだけで、十分だった。


「フィン」


声が聞こえた。

顔を上げると、牢獄の格子の向こうに、セレスティアが立っていた。


「セレスティア様……!? なぜここに……」


「逃げて、と言いに来たの」


彼女の顔は青ざめていた。


「明日、公聴会が開かれる。でも、それは裁判じゃない。

有罪は決まっている…あなたは見せしめにされるわ」


「……でしょうね」


「だから逃げて。私が手引きするから」


フィンは首を振った。


「逃げたら、あなたが罪に問われる」


「…構わないわ」


「俺は良くないです」


フィンは立ち上がり、格子越しにセレスティアを見た。


「あなたは聖女だ。国の象徴だ。

俺ひとりのために、その立場を捨てるべきじゃない」


「でも……」


「それに」


フィンは、少しだけ笑った。


「逃げたら、認めたことになる。

俺がやったことが、間違いだったと」


「間違いじゃないわ」


「だったら、逃げない」


セレスティアは、涙を流した。


「……あなたって、本当に頑固」


「よく言われます」


「馬鹿」


「それもよく言われます」


二人は、格子越しに見つめ合った。


「明日、俺は証言台に立ちます。

真実を話します。それで終わりなら、それでいい」


「…終わりになんてさせない」


セレスティアは、涙を拭いた。

その目に、決意の光が宿っていた。


「私も証言する。聖女として。真実を」



そして、公聴会の日が来た。


大神殿の公聴会場。

千人を収容できる巨大な空間に、あらゆる階層の人々が詰めかけていた。


貴族、聖職者、市民。

誰もが、この裁判の行方を見守っていた。


「被告人、フィン・ガルド。貴様の罪状は……」


大司教ヴェルナーが読み上げを始めた時。


「待ってください」


静かな、しかし凛とした声が響いた。

聖女セレスティアが、証言台に進み出ていた。


会場がざわめいた。聖女が公聴会に出席すること自体が異例中の異例だった。


「セレスティア様、何をなさるおつもりか……」


「証言をします」


彼女は、まっすぐにヴェルナーを見た。


「聖域水の真実を」




セレスティアの証言は、教会の根幹を揺るがすものだった。


「私は聖女として、十年間、儀式で聖水を作ってきました。

でも、その効果を実感したことは一度もありませんでした」


会場が静まり返った。


「私の力は『祝福循環』と呼ばれるものです。常に魔力が放出されている状態。

意識して祈るより、無意識の状態の方が、純度の高い魔力が出る…。

そして水は、魔力を最も保持しやすい媒体です」


ヴェルナーの顔が、みるみる青ざめていった。


「つまり、私が入浴した後の湯には、儀式で作る聖水の何倍もの魔力が含まれている。

これは、教会の上層部も知っていた事実です」


「嘘だ!」


ヴェルナーが叫んだ。


「証拠があります」


セレスティアは、一通の書類を掲げた。


「教会の内部文書です。五十年前、先代の聖女について同様の報告がなされています。

しかし、この事実は隠蔽されました。なぜなら、公式聖水のビジネスが崩壊するからです」


会場が騒然となった。


「教会は、民衆を救うためではなく、利益を守るために、真実を隠してきたのです」




公聴会は、大混乱のうちに終わった。


大司教ヴェルナーは更迭された。彼なりに教会の秩序を守ろうとしていた。

だが、その秩序が、民衆の犠牲の上に成り立っていたことは事実だった。


もちろんフィンは無罪となった。

そして、聖域水は、正式な聖水として認定された。


「聖女入浴後の湯を、『聖域聖水』として教会が管理・販売する」


これが、新たな教義となった。










だが、物語はここで終わらない。

現実は、物語のように綺麗に終わらないからだ。


「供給が追いつきません」


フィンは、報告書の山を前に頭を抱えていた。


聖域聖水の需要は爆発的だった。

しかし、聖女は一人しかいない。入浴の回数にも限界がある。


需要に対して供給が圧倒的に足りない。


結果、聖域聖水の価格は高騰した。

教会の公式聖水より安いとはいえ、貧民には手が届かない価格になりつつあった。


「……皮肉だな」


貧しい人々を救いたくて始めたことが、結局また貧しい人々の手が届かない場所に行ってしまう。


世界は、そう簡単に変わらない。








一年後。


「フィン主任、次の会議の資料です」


「ああ、ありがとう」


フィンは、かつての雑用係ではなくなっていた。


『聖域聖水管理局』の主任。

教会の新設部署のトップだ。給金は五十金貨。かつての百倍以上。


だが、忙しさも百倍以上だった。


供給計画、価格調整、品質管理、配給制度の設計…。

毎日が書類と会議の連続だ。


「……風呂掃除してた頃が懐かしいな」


深夜。

フィンは、聖女の浴室を訪れた。


一年ぶりだ。

今は専門の清掃員がいる。フィンが来る必要はない。


だが、今日は特別な日だった。


「来たのね」


浴室には、セレスティアがいた。


私服姿。法衣ではなく、普通のワンピース。

一年前より、少しだけ明るい表情をしている。


「……聖女様も、こんな夜中に」


「今日は、あの日からちょうど一年だから」


二人は、並んで浴槽を眺めた。


「……うまくいってるとは、言えませんね」


フィンは正直に言った。


「供給は足りない、価格は上がってる。結局、一部の人しか救えてないわ」


「でも、一年前よりは多くの人が救われている」


「そうかもしれません」


「完璧じゃなくていいと思う」


セレスティアは、掃除用のブラシを手に取った。


「少しずつ、良くなっていけばいい。私たちにできることを、続けていけばいい」


「……聖女様、何を」


「風呂掃除。手伝うわ」


フィンは目を見開いた。


「聖女が風呂掃除なんて……」


「いいじゃない。今は誰も見てないんだから」


彼女は笑った。

一年前より、ずっと自然な笑顔だった。


「それに、あなたと話したかったの。この一年、忙しくてゆっくり話せなかったから」


フィンは、溜息をついた。


そして、もう一本のブラシを手に取った。


「……仕方ないですね」


二人は並んで、浴槽を磨き始めた。


聖女と、元雑用係。

身分も立場も違う二人が、深夜の浴室で、黙々と掃除をしている。


奇妙な光景だった。

だが、不思議と心地よかった。


「フィン」


「はい」


「私の残り湯が正典になるなんて、一年前は想像もしなかったわね」


「俺もです」


「人生って、わからないものね」


「そうですね」


二人は顔を見合わせ、笑った。


窓の外では、夜が明け始めていた。

新しい一日が、始まろうとしていた。


まだ多くの問題がある。完璧な結末ではない。

だが、世界は少しずつ変わっていく。人の手で、人の意思で。


フィンは、ブラシを動かしながら思った。


信仰とは何だろう。神とは何だろう。聖なるものとは何だろう。

答えは出ない。たぶん、一生出ない。


だが、ひとつだけ確かなことがある。


──信仰とは、いつだって人の都合で作られる。





【完】

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