信仰よりもよく効く水は、聖女の残り湯でした
大神殿の公聴会場は、怒号と悲鳴と笑い声が入り混じり、もはや収拾がつかなくなっていた。
「もう一度言ってみろ、この不敬者が!」
大司教ヴェルナーの怒声が、高いドーム天井に反響する。
五十五年の人生で積み上げた威厳が、今まさに瓦解しようとしていた。
証言台に立つ青年──フィン・ガルドは、やせぎすの体躯に不釣り合いなほど落ち着いた目をしていた。
二十三年間、貧しさと共に生きてきた男の目だ。
「…ですから」
フィンは咳払いをした。
「『聖域水』の正体は、聖女セレスティア様の残り湯です」
会場がどよめきと怒りと驚きと…様々な感情で爆発していた。
貴族席からは失神する婦人が出た。聖職者席では老司祭が胸を押さえている。傍聴席の民衆たちは、笑っているのか怒っているのか、もはや本人たちにもわからない様子で声を上げていた。
「あの奇跡の水が……」「の、残り湯だと……?」
「俺、三本も飲んだぞ!」「私なんて傷口に塗ったわ!」
大司教ヴェルナーは、引きつった笑みを浮かべた。
白髪交じりの髪が乱れ、普段の重厚な威厳は見る影もない。
「……貴様、自分が何を言っているかわかっているのか?」
「わかっております」フィンは頷いた。「ですが事実ですので」
傍聴席の最前列で、ひとりの女性が静かに目を伏せていた。
銀色の髪に、白い法衣。彼女が聖女セレスティアである。
その頬が、かすかに赤らんでいた。
「……なんで、こうなったのかな」
彼女の呟きは、喧騒に紛れて誰にも届かなかった。
事の始まりは、三ヶ月前に遡る。
「フィン・ガルド、今月の給金だ。五銀貨」
神殿の会計係は、まるで施しを与えるかのような顔で革袋を差し出した。
「……ありがとうございます」
フィンはそれを受け取り、重さを確かめた。
軽い。当然だ。
五銀貨では、首都の安宿に半月泊まれるかどうかという金額である。
聖女付き雑用係。
それがフィンの肩書きだった。
風呂の準備、洗濯物の回収、水運び、掃除。
聖女セレスティアの生活を支える裏方仕事だ。
聖なる仕事のはずだが、待遇は聖なるどころか貧しさの極みだった。
「神に仕える喜びが報酬だ、とか言うんでしょうね」
フィンは廊下を歩きながら独りごちた。
神殿の廊下は無駄に広く、無駄に装飾が多い。
この金細工ひとつで、自分の年収を超えるだろう。
彼は無信仰だった。
神がいないと思っているわけではない。
ただ、神殿という組織を信じていないだけだ。
祈っても貧しさは変わらなかった。
病気の母を救ったのは、高額な教会の聖水ではなく、隣家のばあさんの薬草だった。
その聖水を買うために借金して、結局母は死に、借金だけが残った。
フィンが教会で働いているのは、皮肉でも復讐でもない。
単に、他に仕事がなかっただけだ。
「さて、風呂掃除か」
聖女の浴室は、神殿の奥まった場所にあった。
大理石の床、金の蛇口、湯気を逃がす天窓。
庶民の一生分の給金で建てたような部屋だ。
そして、浴槽には、まだ湯が張られていた。
「……もったいないな」
それが、すべての始まりだった。
聖女セレスティアが入浴した後の湯。普段なら、そのまま排水溝に流してしまう。
だが今日に限って、フィンは妙に惜しい気持ちになった。
五銀貨の給金のせいかもしれない。
昨日食べた硬いパンのせいかもしれない。あるいは、ただの貧乏性か。
「……瓶、あったな」
彼は掃除道具入れから空き瓶を取り出し、浴槽の湯を汲んだ。
温かい。かすかに、花のような香りがする。聖女が使う入浴剤の残り香だろう。
「まあ、さすがに飲んだりはできないし…洗濯にでも使うか」
その日、フィンは瓶を三本分持ち帰った。
翌日。
フィンは市場にいた。給金日なので、食料を買い出すためだ。
「にいちゃん、その瓶なんだ?」
八百屋の親父が、フィンの腰にぶら下がった瓶を指差した。
「ああ、これは……」
説明に詰まった。
まさか「聖女の残り湯」とは言えない。
「……聖水、みたいなものです」
嘘ではない。聖女に由来する水なのだから。
「聖水?神殿のか?」
「まあ、似たようなものかと」
親父の目が光った。
「売ってくれ」
「は?」
「うちの婆さん、腰が痛くてな。教会の聖水は高すぎて買えねえ。
でもにいちゃん、神殿で働いてるんだろ?ちょっと安く分けてくれよ」
フィンは困惑した。これはただの風呂の残り湯だ。
効果があるわけがない。
「いや、これは……」
「頼むよ。銅貨十枚出す」
銅貨十枚。教会の聖水の百分の一以下だ。
だが、フィンの夕食代にはなる。
「……効かなくても、文句言わないでくださいね」
「おう、構わねえよ」
こうして、フィンは生まれて初めて商売をした。
三日後。
「にいちゃん! にいちゃんっ!」
市場で八百屋の親父が走ってきた。
その目は、まるで奇跡を見たかのように輝いていた。
「婆さんの腰がな、治ったんだ!」
「……はい?」
「あの水を塗ったら、一晩で痛みが引いたんだよ!
四十年連れ添って、こんなこと初めてだ!」
フィンは意味がわからなかった。
「いや、あれはただの……」
「頼む、もっと分けてくれ!金なら出す!
隣の魚屋も、向かいの鍛冶屋も、みんな欲しがってるんだ!」
フィンの思考が停止した。
何が起きている?
その夜、フィンは自室で考え込んでいた。
狭い部屋だ。ベッドと机と椅子しかない。
神殿の下働きに与えられる最低限の空間。
「……ありえない」
手元には、空になった瓶がある。
残り湯に効能があるなど、聞いたことがない。
教会の聖水は、聖女が特別な儀式で祈りを込めて作るものだ。
入浴後の湯に、そんな力があるわけがない。
だが、事実として効いた。
「偶然か?それかプラシーボか?」
いや、四十年の腰痛が一晩で消えることを、偶然とは呼べない。
フィンは貧しい人生を送ってきた。
だからこそ、目の前の現実を疑う習慣がついていた。
奇跡など信じない。神の恩寵など知らない。
だが、目の前で起きたことは、紛れもない事実だった。
「……もう一度、試すか」
翌日。
フィンは聖女の浴室を掃除しながら、こっそり湯を瓶に詰めた。今度は五本。
そして、市場へ持っていくと、一時間で完売した。
三日後、また報告が来た。
「火傷が跡も残らず治った」
「慢性の頭痛が消えた」
「目の霞みが晴れた」
そして全員が、同じことを言った。
教会の聖水より、よく効く…と。
一ヶ月後。
「聖域水」という名前は、フィンがつけたわけではなかった。
いつの間にか、民衆の間でそう呼ばれるようになっていた。
「神殿から流れてくる、本当に効く聖なる水」。略して聖域水。
口コミは爆発的に広がった。
「教会の聖水、十本分の効果がある」
「しかも安い」
「手に入れた人は皆、病が治った」
最初は都市の貧民街だけだった噂が、中流階級に広がり、やがて貴族の耳にも届いた。
フィンは戸惑っていた。
「……なぜ、こんなことに」
彼がやったのは、残り湯を捨てずに売っただけだ。
金儲けの才覚があったわけでも、信仰心があったわけでもない。
ただ、なんとなくもったいないと思っただけ。
だが今、聖域水は教会の聖水ビジネスを脅かす存在になりつつあった。
「フィン」
ある夜。
浴室の掃除をしていると、声をかけられた。
振り向くと、聖女セレスティアが立っていた。
銀色の髪が、薄暗い廊下でかすかに光っている。
白い法衣は簡素だが、着ている人間の気品がそれを補って余りあった。
彼女は二十一歳。フィンより二つも年下だ。
だが、その瞳には、年齢に似合わない疲労の色があった。
「セレスティア様」
フィンは慌てて頭を下げた。
聖女と雑用係では、身分が違いすぎる。
「……私の湯を売っているそうね」
心臓が止まるかと思った。
「あ、あの、それは……」
言い訳を考える。
だが、何も思いつかない。事実だからだ。
「申し訳ありません。すぐにやめ……」
「やめないで」
フィンは顔を上げた。
聖女は、微笑んでいた。
「民が救われているのでしょう?」
「え……」
「教会の聖水では救えなかった人々が、あなたのおかげで救われている。私は……嬉しいの」
フィンは混乱した。
これは罠だろうか、教会に報告するための誘導だろうか。
だが、セレスティアの目に、嘘の色は見えなかった。
「ただ、教えてほしいの」
彼女は一歩近づいた。花の香りがした。
「なぜ、私の残り湯に……そんな力があるの?」
二人は、聖女の私室で話すことになった。
こんな場所に入るのは初めてだった。
想像していたよりすごく質素だった。
聖女の部屋なのに、装飾はほとんどない。
本棚と机と、小さなベッド。必要なものしかなく、まるで囚人の独房のようだ。
「……私は、自分の力がわからないの」
セレスティアは、窓辺に立って言った。
月明かりが、その横顔を照らしている。
「儀式で聖水を作る。でも、効果があるのかないのか、実感がない。
祈っても、何も感じないの。私には、信仰心が足りないのかもしれないって」
「そんなことは……」
「でも、あなたの売った水は、確かに人を救っている」
彼女は振り向いた。その目に、涙が光っていた。
「私の入浴後の湯が、儀式で作った聖水より効くの。これって……皮肉よね」
フィンは、何と言えばいいかわからなかった。
彼は無信仰だ。聖女を崇拝したことはない。
だが、目の前にいるのは、神聖な存在ではなく、ひとりの孤独な女性だった。
国家の象徴として祭り上げられ、神殿に閉じ込められ、自分の力にすら自信を持てない。
フィンは、生まれて初めて聖女を「人」として見た。
「……俺も、わからないことだらけです」
正直に言った。
「なぜ残り湯に効果があるのか、なぜ教会の聖水より効くのか。
俺は魔術師でも学者でもないから、理屈はわかりません」
「でも?」
「でも、事実として人が救われている。だったら、続ける価値はあると思います」
セレスティアは、目を見開いた。
「……あなた、変わった人ね」
「よく言われます」
「普通、聖女にそんな口を利かないわ」
「すみません、無礼で」
「いいえ」
彼女は、初めて心からの笑顔を見せた。
「嬉しい。私を『聖女様』じゃなく、普通に扱ってくれる人、初めてだから」
その夜から、二人の関係は変わっていった。
セレスティアは、フィンの活動に協力を申し出た。
「私にできることがあれば、何でも言って」
「いや、聖女様が関われば、教会に目をつけられます」
「もう目をつけられているわ。噂は広がっているもの」
彼女は笑った。
「だったら、堂々と協力する。それが私の意思だと示す」
フィンは困惑した。
この人は、自分の立場をわかっているのだろうか。
「……後悔しませんか?」
「わからない。でも、何もしないで後悔するより、何かして後悔する方がいい」
それから、二人は毎晩のように話し合った。
どうすれば効率よく聖域水を作れるか。
どこに配れば最も多くの人を救えるか、教会にバレずに活動を続けるには。
話し合ううちに、フィンは聖女の本当の姿を知っていった。
彼女は読書が好きだった。歴史書と、あとは恋愛小説も。
ただし神殿の検閲で、恋愛小説は没収されるらしい。
好きな食べ物は焼き菓子。
だが、聖女は質素な食事を取るべきとされ、滅多に口にできない。
夢は、いつか神殿の外を自由に歩くこと。
だが、聖女は国家の象徴であり、外出には護衛と儀礼が必要で、「散歩」という概念がない。
「……窮屈な人生ですね」
「あなたに言われたくないわ」
セレスティアは笑った。
「あなたの部屋、見せてもらったことあるけど、私の部屋より狭かったじゃない」
「広さの問題じゃないでしょう」
「そうね。自由の問題ね」
二人は、互いの不自由さを笑い合った。
聖女と雑用係。身分は天と地ほど違う。
だが、どちらも組織の歯車として消費されている点では同じだった。
「フィン」
ある夜、セレスティアが言った。
「私、あなたと話していると、自分が聖女だってこと、忘れられるの」
「それは……いいことなんですか?」
「わからない。でも、楽なの」
フィンは、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
二ヶ月目。
事態は急変した。
「聖域水の成分分析が完了しました」
大神殿の会議室。大司教ヴェルナーは、報告書を睨みつけていた。
「……公式聖水の八倍の魔力純度だと?」
「はい。正確には、純度九十七パーセント。
公式聖水の最高品でも十五パーセントです」
ヴェルナーの顔が歪んだ。
五十五年の人生で、彼は教会の階段を一歩ずつ登ってきた。
信仰のためではない。権力のためだ。
教会は国家を支配し、聖水ビジネスは莫大な富を生む。
その頂点に立つことが、彼の人生の目標だった。
だが今、その基盤が揺らごうとしている。
「原因は?」
「不明です。ただ、聖女が関与していることは確実かと」
「つまり、聖女の入浴後の湯が、我々の儀式より効くということか」
「……端的に言えば、そうなります」
ヴェルナーは沈黙した。
これは危機だ。
教義の危機であり、権威の危機であり、そして何より、ビジネスの危機だ。
公式聖水より八倍効く水が、百分の一の価格で流通している。
民衆がどちらを選ぶかは明白だ。
「隠蔽しろ」
「は?」
「この報告書を封印しろ。聖域水は偽物だと喧伝しろ。流通を止めろ」
「しかし、すでに数千人が効果を実感しています。隠蔽は……」
「やれ。教会の権威を守ることが、最優先だ」
ヴェルナーの声は、氷のように冷たかった。
だが、隠蔽は失敗した。
聖域水を使った市民は、何千人にも及んでいた。
その全員の口を塞ぐことは不可能だった。
教会が「聖域水は偽物」と発表した翌日、民衆の怒りが爆発した。
「嘘をつくな!」
「俺の婆さんは、この水で治ったんだ!」
「教会の聖水なんて、効きもしないくせに高いだけだろ!」
暴動には至らなかったが、教会への不信感は決定的になった。
そして、教会はついにこの聖域水の犯人を特定した。
「フィン・ガルドを逮捕しろ」
逮捕は、深夜に行われた。
フィンは抵抗しなかった。いずれこうなることは、わかっていた。
「罪状は、聖水の偽造および販売、聖女の権威の冒涜、教会秩序の破壊」
牢獄は暗く、湿っていた。
石の壁に染みついた黴の臭いが鼻をつく。
「……まあ、予想通りか」
フィンは壁にもたれて座った。
これで終わりだろう。
教会に逆らった罪は重い。良くて追放、悪ければ処刑だ。
だが、不思議と後悔はなかった。
数千人を救った。それは事実だ。
教会の聖水では救えなかった人々を、自分の行動が救った。
それだけで、十分だった。
「フィン」
声が聞こえた。
顔を上げると、牢獄の格子の向こうに、セレスティアが立っていた。
「セレスティア様……!? なぜここに……」
「逃げて、と言いに来たの」
彼女の顔は青ざめていた。
「明日、公聴会が開かれる。でも、それは裁判じゃない。
有罪は決まっている…あなたは見せしめにされるわ」
「……でしょうね」
「だから逃げて。私が手引きするから」
フィンは首を振った。
「逃げたら、あなたが罪に問われる」
「…構わないわ」
「俺は良くないです」
フィンは立ち上がり、格子越しにセレスティアを見た。
「あなたは聖女だ。国の象徴だ。
俺ひとりのために、その立場を捨てるべきじゃない」
「でも……」
「それに」
フィンは、少しだけ笑った。
「逃げたら、認めたことになる。
俺がやったことが、間違いだったと」
「間違いじゃないわ」
「だったら、逃げない」
セレスティアは、涙を流した。
「……あなたって、本当に頑固」
「よく言われます」
「馬鹿」
「それもよく言われます」
二人は、格子越しに見つめ合った。
「明日、俺は証言台に立ちます。
真実を話します。それで終わりなら、それでいい」
「…終わりになんてさせない」
セレスティアは、涙を拭いた。
その目に、決意の光が宿っていた。
「私も証言する。聖女として。真実を」
そして、公聴会の日が来た。
大神殿の公聴会場。
千人を収容できる巨大な空間に、あらゆる階層の人々が詰めかけていた。
貴族、聖職者、市民。
誰もが、この裁判の行方を見守っていた。
「被告人、フィン・ガルド。貴様の罪状は……」
大司教ヴェルナーが読み上げを始めた時。
「待ってください」
静かな、しかし凛とした声が響いた。
聖女セレスティアが、証言台に進み出ていた。
会場がざわめいた。聖女が公聴会に出席すること自体が異例中の異例だった。
「セレスティア様、何をなさるおつもりか……」
「証言をします」
彼女は、まっすぐにヴェルナーを見た。
「聖域水の真実を」
セレスティアの証言は、教会の根幹を揺るがすものだった。
「私は聖女として、十年間、儀式で聖水を作ってきました。
でも、その効果を実感したことは一度もありませんでした」
会場が静まり返った。
「私の力は『祝福循環』と呼ばれるものです。常に魔力が放出されている状態。
意識して祈るより、無意識の状態の方が、純度の高い魔力が出る…。
そして水は、魔力を最も保持しやすい媒体です」
ヴェルナーの顔が、みるみる青ざめていった。
「つまり、私が入浴した後の湯には、儀式で作る聖水の何倍もの魔力が含まれている。
これは、教会の上層部も知っていた事実です」
「嘘だ!」
ヴェルナーが叫んだ。
「証拠があります」
セレスティアは、一通の書類を掲げた。
「教会の内部文書です。五十年前、先代の聖女について同様の報告がなされています。
しかし、この事実は隠蔽されました。なぜなら、公式聖水のビジネスが崩壊するからです」
会場が騒然となった。
「教会は、民衆を救うためではなく、利益を守るために、真実を隠してきたのです」
公聴会は、大混乱のうちに終わった。
大司教ヴェルナーは更迭された。彼なりに教会の秩序を守ろうとしていた。
だが、その秩序が、民衆の犠牲の上に成り立っていたことは事実だった。
もちろんフィンは無罪となった。
そして、聖域水は、正式な聖水として認定された。
「聖女入浴後の湯を、『聖域聖水』として教会が管理・販売する」
これが、新たな教義となった。
だが、物語はここで終わらない。
現実は、物語のように綺麗に終わらないからだ。
「供給が追いつきません」
フィンは、報告書の山を前に頭を抱えていた。
聖域聖水の需要は爆発的だった。
しかし、聖女は一人しかいない。入浴の回数にも限界がある。
需要に対して供給が圧倒的に足りない。
結果、聖域聖水の価格は高騰した。
教会の公式聖水より安いとはいえ、貧民には手が届かない価格になりつつあった。
「……皮肉だな」
貧しい人々を救いたくて始めたことが、結局また貧しい人々の手が届かない場所に行ってしまう。
世界は、そう簡単に変わらない。
一年後。
「フィン主任、次の会議の資料です」
「ああ、ありがとう」
フィンは、かつての雑用係ではなくなっていた。
『聖域聖水管理局』の主任。
教会の新設部署のトップだ。給金は五十金貨。かつての百倍以上。
だが、忙しさも百倍以上だった。
供給計画、価格調整、品質管理、配給制度の設計…。
毎日が書類と会議の連続だ。
「……風呂掃除してた頃が懐かしいな」
深夜。
フィンは、聖女の浴室を訪れた。
一年ぶりだ。
今は専門の清掃員がいる。フィンが来る必要はない。
だが、今日は特別な日だった。
「来たのね」
浴室には、セレスティアがいた。
私服姿。法衣ではなく、普通のワンピース。
一年前より、少しだけ明るい表情をしている。
「……聖女様も、こんな夜中に」
「今日は、あの日からちょうど一年だから」
二人は、並んで浴槽を眺めた。
「……うまくいってるとは、言えませんね」
フィンは正直に言った。
「供給は足りない、価格は上がってる。結局、一部の人しか救えてないわ」
「でも、一年前よりは多くの人が救われている」
「そうかもしれません」
「完璧じゃなくていいと思う」
セレスティアは、掃除用のブラシを手に取った。
「少しずつ、良くなっていけばいい。私たちにできることを、続けていけばいい」
「……聖女様、何を」
「風呂掃除。手伝うわ」
フィンは目を見開いた。
「聖女が風呂掃除なんて……」
「いいじゃない。今は誰も見てないんだから」
彼女は笑った。
一年前より、ずっと自然な笑顔だった。
「それに、あなたと話したかったの。この一年、忙しくてゆっくり話せなかったから」
フィンは、溜息をついた。
そして、もう一本のブラシを手に取った。
「……仕方ないですね」
二人は並んで、浴槽を磨き始めた。
聖女と、元雑用係。
身分も立場も違う二人が、深夜の浴室で、黙々と掃除をしている。
奇妙な光景だった。
だが、不思議と心地よかった。
「フィン」
「はい」
「私の残り湯が正典になるなんて、一年前は想像もしなかったわね」
「俺もです」
「人生って、わからないものね」
「そうですね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
窓の外では、夜が明け始めていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。
まだ多くの問題がある。完璧な結末ではない。
だが、世界は少しずつ変わっていく。人の手で、人の意思で。
フィンは、ブラシを動かしながら思った。
信仰とは何だろう。神とは何だろう。聖なるものとは何だろう。
答えは出ない。たぶん、一生出ない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
──信仰とは、いつだって人の都合で作られる。
【完】




