1話目
目を覚ましたら、すべてを忘れていた。
私はだれ。
ここはどこ。
まさにその状態。
私がいるのは、六畳半ほどの部屋。中央にある布団に寝かされているが、当然場所はわからない。障子の向こうは暗く、どうやら外はもう日が暮れているらしい。
そして、覚えがないのは場所だけでなく、自分がなぜここにいるのかということも一切記憶にない。
「…どういうことだよ、私」
私はもう一度気を失いたくなった。周りを見渡しても、覚えのない場所。自分がいま何歳かもわからず、思い出そうとしても靄がかかったように何も出てこない。自分のものであるはずの両手にはタコができていて細かな傷が腕や脚にもある。一体私はどういう人生を送ってきたのか。
「…覚えているのは、なとりという名前だけ」
ぼそりと呟いたとき、障子がからりと開いた。
「あ、起きたんですね」
そこに立っていたのは、優男風のきれいな男だった。すらっとした長身で、髪は長く、後ろで一つまとめにしている。男は切れ長の瞳ですうと私を見つめ、ほほえんだ。
「あ、はい」
あまりのその美しさに思わず見とれながら返事を返すと、
「…九条さんを呼んでくるので、少し待っていてください」
男はそう言って踵を返した。
「え、あ、あの…」
呼び止めようとしたのだが、戸惑っている間にスタスタと去って行ってしまった。
九条ってどこのどちらさま?
あまりの急展開に正直、脳が破裂しそうだ。
ただ、その九条って人が来れば、少しは状況も把握できることはなんとなくわかる。
できれば、今の不安な気持ちが薄れるといいな。
軽く手を握りしめ、私はそう思った。
「それであなたはどこのどなたさんですかな?」
なるほど。この人たちも私のことは知らないと。
つい先ほど、いらっしゃった九条さんは、ここ、揆央組の一番偉い人らしい。まず、揆央組とは?って感じだけど、聞ける雰囲気じゃないよね。
「…ほんとに私が何したっていうのよ」
十…何年間、真面目に生きて生きたつもりなのに。いや、記憶ないけど。
「ん?なにかおっしゃったかな」
「あ、いえ!なんでもありません」
私の目の前に座っているのが九条さんというおじいちゃん。小さくてにこにこしていて、好々爺のようだけど、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた感じの覇気がある。なぜか、体が震えるような人だ。
「え、えっとですね。…その、記憶が、なくてですね、今」
しどろもどろに説明する私に、九条さんが眉をピクリと動かす。
「…ほう?」
「気がついたらここにいた、という感じでして」
自分でもめちゃくちゃな内容だと思う。だけど、残念なことに事実だ。
じっくり考えこんでいた九条さんが言う。
「…なんにもおぼえてない、のですな」
「あ、なとりだけは覚えてます」
ふと、そういうと
「なとり?」
「たぶん、私の名前です」
誰かに、なとりと呼ばれたことがある気がする。
九条さんはこちらをじっと見ていった。
「では、なとりさん。単刀直入に言いましょう。あなたこれからどうするつもりですかな。記憶がないようですが、ここを出てって門前で野垂れ死なれるのは勘弁願いたい。ですが、ここに何もせず長々と居られるのはこちらとしても歓迎できません」
あまりの正論に言葉が詰まる。
正直、何も覚えてないこの状態で、この先過ごしていくのは大分厳しいだろう。だけど、これから1人でどうすれば良いの?
焦りで頭がうまく回らない。衣食住は持っておきたいけど、帰る場所はわからないし、どうすれば手に入れられるのかもわからない。
早く何か言わなくてはと思えば思うほど口が動かなくなる。段々泣きたくなってきた。
ーーああ、もうどうすれば!
その様子を見ていた九条さんは口を開いた。
「…では、記憶が戻るまでうちで働くというのはどうです?男が多いのですが、まあ女性もいないことはない」
突然な提案に私は目を見開いた。その提案は私にとって願ったり叶ったりだ。安定した衣食住を手に入れられそうな事態に思わず飛びつきそうになる自分を必死に抑える。
そもそも私がここにいることが九条さんにとって、どんな利益があるのだろう。私だったら嘘か本当かもわからない記憶喪失なんて側に置いとけない。この申し出はありがたいが、正直とても怪しい。
……ただ、これを断ったとして、私は生きていけないことも確かだ。記憶喪失なんてどこも雇ってくれないだろうし、衣食住ゼロスタートは死と直結している。
怪しい申し出は受けたくない、なんて贅沢言ってられない。
「…本当にいいんですか?」
「ええ」
私の掠れた声に九条さんはゆっくり頷いた。
「それならーー」
ここはどこなのか、私は誰なのか、この申し出を受けて本当に良いのかわからない。しかし、一日でも長く生きられるなら生きていきたいと思う。
「ーー私をここにいさせてください」
これが地獄への道だとしても進んでいくしかない。
九条さんの目をじっと見て言うと、九条さんはうむ、とうなずいた。
こうして私は、記憶が戻るまでここにおいてもらうこととなった。