喪ったものは返らない事を初めて知りました。
夏のある日。小学校に入って初めての夏休み。
今日は友達と遊ぶ約束もしないで一人で虫取りをして遊んでいた。なかなか上手く取れずに段々飽きてきた私は、視界の端に白いものが映っていることに気づいた。
古びたモノクロ写真がくるくると水溜まりを回っている。傷んだそれは、水を吸っていて写真としての役割を果たしていないように思えた。面白半分に汚いのも気にせず、水溜まりに指を突っ込む。掲げた白黒写真から水滴がぽたり、ぽたり、と落ちてくる。後ろに文字が書いてあることに気付き、裏返してみた。
『昭和十九年、兄と』
しょうわじゅうきゅうねん、あにと。
口に出して言ってみたが、文字は読めるものの意味が分からない。辛うじて『兄』と言う意味は分かり、もう一度表を見る。しかしそれはぐにゃぐにゃに歪んでうまく広げられない。
閃いた、と言うように得意顔をした私は再度水溜まりに写真を浮かべ覗き見る。小さなおかっぱの女の子と、優しげな顔をした高校生位の男の人が映っていた。ひゅう、と生暖かい風が吹き、水溜まりを揺らす。それと同時に写真は浅い水溜まりに沈んでいき、泥と混ざりあった。
私は途端に興味が失せ、虫取網を持って再び走り出した。家まで走りついた時に
「ゆうちゃん、ゆうちゃん」
おばあちゃんの声が聞こえて駆け寄る。お菓子をくれるのかな、という意地汚い心から駆け寄った私が見上げたおばあちゃんの顔は、何だか泣きそうにくしゃくしゃしていた。
「ゆうちゃん、あのね、白黒のこーんなくらいの写真見てなぁい?おかっぱの女の子と男の子が映った写真」
泣き声で言ってくるおばあちゃんを見て、私は固まってしまった。あそこの水溜まりに、あるよ。そんな簡単な言葉が何故か出てこない。
あそこのね、水溜まりに泥と一緒になってあるのよ。
無言になった私を見て、知らないと思ったのか
「ゆうちゃん、見つけたら言ってね」
と言って私に飴をくれた。「…おばあちゃんのね、お兄ちゃん…おばあちゃんがゆうちゃんぐらいの頃に戦争で死んじゃったんだけど…そのお兄ちゃんが写ったたった一枚の写真なの」
懐かしくて見てたら風のせいで飛んでいっちゃったの。
そう言って再び腰を曲げて地面を探すおばあちゃんを尻目に私は家に駆け込んだ。おばあちゃんが言った言葉の半分も分からなかったし、戦争なんて言葉も分からなかったけど、たった一つだけ分かったことがあった。
『おばあちゃんの大切なものを壊してしまった』
ぐちゃぐちゃとした訳も分からぬ感情が心を抉っている。苦しい。部屋の毛布にくるまってじっと窓からの差し込んでくる日光の移り変わりを眺めていた。後の私が見ていたら分かっていただろう、それは“罪悪感”だと。
夕方、おばあちゃんは泣きながら家に帰ってきた。ぐちゃぐちゃで、それが何であったか分からない物を、大事そうに大事そうに両手で包んで。
お兄ちゃん、と涙を溢すおばあちゃんがとても小さく見えて私の目からも訳が分からない涙が溢れた。
おばあちゃん、ごめんなさい。
そんな言葉も言えずに、おばあちゃんを避けるようになった。
その一ヶ月後、おばあちゃんは『脳梗塞』で倒れ、一命は取り止めたもののおばあちゃんは私の知っているおばあちゃんでは無くなっていた。
母が言うには「おばあちゃんはね、ボケてしまったの。…昔に戻ってしまったの…」
やっぱり意味は分からなかったが、おばあちゃんがおばあちゃんで無いことは分かった。母に頼まれ事をされ入院中のおばあちゃんを見舞った時の事だ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんが来てくれたよ」
看護婦さんの裾を引っ張って嬉しげに此方を見るおばあちゃんがそこに居た。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
嬉しげに、だけどどこも見ていない目でおばあちゃんは呼び続ける。
「…おばあちゃん」
私のおばあちゃんはもう何処にも居なかった。おばあちゃんは、あの写真で見た女の子の年齢に戻ってしまった。そして、毎日お兄ちゃんと一緒に遊んでいる、とおばあちゃんから紡がれる言葉で分かった。
ベッドの横に、写真立てがあった。薄汚れて何が描いてあったかも分からない、そうあれはあの時のおばあちゃんとお兄さんの仲睦まじい白黒写真。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
やっと言えた言葉はおばあちゃんにはもう届かない。
「お兄ちゃん、なんで謝るの?ちー、と一緒に遊ぼうー」
嬉しそうに、嬉しそうに笑うおばあちゃんを見たのは、この日が最後だった。
おばあちゃんのお兄さんはね、昔に日本がした戦争でね、死んじゃったの。その頃には空襲が都市部に集中してね、幼かったおばあちゃんは学童疎開で田舎に避難したのよ。でもね、お兄さんはおばあちゃんと歳が離れていたから残ったの。そこでね、運悪く空襲にあって…死んじゃったの。おばあちゃんのお父さんもお母さんも、その戦争で死んじゃったのよ…。
おばあちゃんが亡くなってから、お母さんはぽつりぽつり語ってくれたお話。
たった一枚だけ残ったお兄さんの写真を手に、親戚を渡り歩きながら戦後を生きたおばあちゃん。
ああ、そうか。
私はおばあちゃんの“支え”を壊してしまったんだ。
ぴちゃん。
水溜まりに手を突っ込む。ゆらゆらと揺れる水面にぐちゃぐちゃに顔を歪めた私が映っていた。
おばあちゃん、おばあちゃんはお兄ちゃんに会えた?
水面に映る像が揺れ、あの日の女の子と男性が映った。
ゆうちゃん。
おばあちゃんの声が聞こえて目を見開く。
にっこりと笑った二人は手を繋いで幸せそうに幸せそうに微笑んでいた。
おばあちゃん、
ぱしゃぁん。
水面が揺らぎ再び蒼い空と私を映す。
ゆらゆら、ゆらゆら揺れて涙が溢れ落ちた。
『喪ったものは返らない事を、初めて知りました』
(幼い幼い誰にでもあるだろう過去)
fin




