Epilogue
煌く塵を、眺めていた。それは粉雪のように、格子窓から差し込む白い光の中に舞い続ける。その向こうに霞む扉は閉ざされたまま、時を失くしたように動く気配はない。まだ目醒めぬ店はしんと静まり返り、単調な時計の音だけが、仄暗い早朝の孤独を和げている。絡繰の振り子の揺れる音に導かれ、旧き街並に取り遺された塔を思わせる趣のホールクロックを眺めた。その長老のような佇まいに見護られていると、幾らか心が楽になる。すべてが、あの日のままだ。いつまで怯えながら、立ち尽くしているつもりだろうか。変わり映えのない景色を見廻してカウンターテーブルの先に辿り着くと、投げ出した布巾と、不揃いのグラスたちがすっかり置き去りにされていた。雲のかかった気分を紛らわせるため、グラスたちの方へと気重な足を向けた。
カランカラン。
男は、扉を開けるなり目を丸くした。
「そんな顔するなよ」
薄暗い部屋に独り、蒼白な顔で茫然と立ち尽くしている青年を目の当たりにして、人の良さそうな下がり眉が、胸の内に揺れる憐れみを隠しきれずにいる。髭に埋もれた皺と唇で親しげに微笑むと、我に帰ったキースは咄嗟にいつもの笑顔で取り繕った。
「レフ、ごめん、まだ準備中なんだ。コーヒーならすぐに・・・」
「俺はただの小間使いだよ、気にするな。─── ルイスは無事だ。」
男は少し窮屈そうに入口を通って、和かに小脇から包みを差し出した。キースは頬を緩ませ、両手でその差し入れを受け取った。レフは、その何か少し蟠る顔を覗き込みながら熊のような大きな手に情を託し、細い肩をやさしく叩いた。
「向こうでお前を待ってる、行ってやれ」
物静かな青年の、精一杯の拙い礼を受け取り、レフはまた大きな身体を捩って店を出て行った。
キースはエプロンを外して一度家の方へと回ってみたが、何処にもルイスの姿は見当たらず、レフもまた姿を消していた。また子どもじみた悪戯を仕掛けているのか、それとも何処かで動けずにいるのか、ひとつひとつ、誰もいない部屋を覗く内に、不安と期待が混ざり合う。誰もいない玄関の上り口に戻ってきた。止むを得ず右耳に触れて無線を飛ばすと「裏だ」と、待ちくたびれたような声が返ってきた。青年は仕方なくまた階段を登り、自室のクローゼットから、隅で眠り続けていた重たい包み紙と、まだ捨てられない黒いジャンパーを掴んで、軋む廊下を歩きながら袖を通した。表に出て玄関に鍵を掛け、扉の横に座る黒い犬の前にしゃがんだ。その凛々しい足の下に鍵を潜ませていると、ジャンパーの袖が少し短くなっていることに気がついた。あの日、父親が着せてくれた時は随分大きかったはずなのに、いつの間にかもう着られなくなってしまった。
「もう起きてたのか」
裏庭のガレージを少し出たところで銀のラインが走る赤い車が見えた。片手をハンドルに乗せて退屈そうにしていたが、近づく気配に気づくと運転席からいつもの顔を覗かせた。寒い真冬の朝に、これから何処へ行こうと言うのか、どうやら降りて来る気はないらしい。隣に乗り込むのを当然のように待っている鷲鼻の横顔に呆れながら、キースは微かな拒絶を抱え、助手席に回ってドアを開けた。
誰も行きたがらない、この人気のない枯れた大地へ、ルイスはよく独りで車を走らせた。気紛れに、こうしてドライヴに連れ出してくれることもある。誘っておきながら車内では大した会話もなく、流れる遠景やエンジンの音を愉しむのが好きらしい。幻想的な中央都市を眺める夜のドライヴにも焦がれたが、あれは、あの日の一度きりだった。磁気浮上の浮揚滑走も爽快だが、大地を駆けるこの振動が心地良いのだと、ルイスは言う。生きていると、感じるのだと。
「徹夜明けで眠いってのに、カレンに捕まってな。今夜は外食だ」
「また借りが貯まったの?」
「まあ、そんなところだ」
ルイスは見たところ怪我もなく、深刻に変わった様子はないようだ。相変わらず、ろくに偲ぶ様子もなく、ルイスは窓際に肘を突き、昨日逢ったばかりのように他愛ない会話を続けている。はじめは、三日だった。それが一週間、三週間と延びてゆき、今では一ヶ月以上戻らない日もある。繰り返す日常に慣れた頃、まるで孤独を思い出させるかのように、ある日突然無線が鳴っては唐突な会話と沈黙の吐息だけが、生存確認のように交わされる。そして忘れた頃に、またこうして戻って来るのだ。
「お前も来いよ」
「久しぶりなんだから、ふたりだけで愉しんで来れば」
「最近、地下巣本部にも顔出してないんだろ。みんな、逢いたがってたぞ」
キースは貼り付いた微笑みを湛えたまま、少し俯いた。妙に饒舌なルイスが、何処か恐い。
「ヴァルスも来るかもしれないから、夕食を作るよ。いつも、突然だから」
「単身部屋は供給食付きだ。栄養管理機能もな。飢え死にしようったって、できやしないさ」
置き去りの寂しさを、目の前に晒された気がして、キースは窓の外へ顔を背けた。
「あいつが自分で選んだ道だ、信じてやれよ」
反り返るフェンスが近づいて来ると、その手前でルイスは車を止めた。会話は途切れたまま、ルイスが扉を開けると、大地の下に鳴り響く轟音が車内に飛び込んでくる。徐に車を降りてフェンスの方へと歩いてゆく薄着の背中をフロントガラス越しに眺めた。淡い紫炎の空に不釣り合いな、真っ赤な背中が浮いている。ついて車を降りると、吹きつける冷たい風に思わず肩を竦ませた。振り返ると中央都市の頭上に鼠色の雲が迫っている。それに気がつくこともなく、幾らか草臥た広い背中は何を思うのか、巨大な滝の上に立ち、電流が守護する鉄格子の隙間から、変わらぬ景色を眺めている。その顔が見えないほどの少し離れた横に立ち、円く融た炎のような朝陽に目を細めると、遠い樹々や蔦に覆われたその合間に、かつての文明が旧い遺跡のように浮かび上がる。
「 ─── しばらく、ここを離れる」
「─── ヴァルスも一緒に?」
ルイスは、薄い唇に躊躇いを見せ、前を向いたまま頷いた。
「あの家は、どうするの?」
「お前の好きにすればいいさ」
その会話の終わりを知り、キースは静かに目を閉じた。凍てつく風の中、間際に見た東雲の朝陽が、慰めのように仄かに瞼をあたためる。ざくざくと去る足音に気を引かれ、薄く瞼を開くと、眩しい光の大鳥が目が眩む炎のような羽根を広げていた。思わず手を翳し、瞬き目を細めると朝焼けに燃える金色の雲が大きく飛び立とうとしていた。キースは足音が立ち去ってもその空を黒い瞳に焼き映すように見つめていた。刻々と形を変え、散りゆく雲をずっと眺めていたかった。
赤い車に戻ると、ドアに手を延ばしかけて、ふと立ち止まった。ルイスの赤い肩と短い金髪が見える。キースは仕方なく運転席の方へ回り込み、何も訊かぬまま席に座ってシートベルトを掛けた。細身の革に手を置いてみる。ハンドルはまだ少し高い位置にある。隣の男は、肘をついて額を撫でながら、まだ遠くの景色を眺めていた。いつまでこうしていられるだろうかと、丸いメーターの黒い文字盤の目盛りを目で端から数えていった。
フロントガラスに白い花びらが落ちた。少し頭を屈めて鼠色の空を見上げると、永い沈黙に終わりを告げるように、雪がちらちらとフロントガラスに降りて来る。あの雪の吹き込む、暗い、暗い闇の中で“死神”と出逢った。あの日のことが懐かしく寒空に浮かんでくる。そして同じ夜に“死神”は「車は好きか」と訊いたのだ。
「この車もくれるの?」
「おい冗談だろ」
飛び起きたように驚いたその顔に、思わずキースは吹き出した。眉を寄せたまま、つられたルイスも犬歯を見せている。その見つめる先で、キースが座席の下から何か少し大きな包み紙のようなものを取り出しはじめた。餞別かと問いかけて、ルイスはその手に現れた木目のグリップに口を噤んだ。キースは大切にしまっていた“ジャッカル”の .44自動拳銃を差し出し、力強い眼差しで、目尻に瞼のかかる、鋭くやさしい瞳に微笑んだ。
「─── 待ってるよ、ルイス。美味しいコーヒーを淹れて」
ルイスはその真剣な黒い瞳と精一杯な笑顔を胸の奥で受け止め、いつものように片頬を上げてそっぽを向いた。
「ヴァルスには、紅茶とジャムだね」
いつか、あの思い出ばかりの家に、残される日々が来るのだろうか。
いつか、無線から“応え”が失くなる日が来るのだろうか。
その日を想像するだけで、未来が恐い。
何処か遠くの見えない地で、今もきっと生きているのだろう。
そう願う方が、まだ、明日を生きられる。
それでも、帰りを信じて待っている。
それが闇に点る、希望の灯だと、知っているから。
「自由にしてろ。お前はただ、出迎えてくれればいい」
キースは呟いたその言葉を胸に抱いて、エンジンをかけた。
「それだけで、いいんだ」
粉雪に白む淡く霞んだ世界に砂埃を上げ、真っ赤な車は、乾いた大地を駆けて行った。




